口説き文句は明解であれ もう何日も、鯉登は月島とまともに触れ合えていなかった。
別に喧嘩をしているだとか、気持ちが冷めただとか、特段の理由があるわけではない。ただただここ最近、課業が忙しすぎるだけである。
これで全然会えないというならばいっそ諦めもつく。そうでなく、書類の受け渡しで手が当たったり、振り返った拍子に肩をぶつけたり、そんな触れ合いと言えないような接触を毎日するくらいには、常に近くにいるのだ。
それだから、課業に没頭している時はともかく、ちょっとした休憩時や、少し気が逸れた時に月島が目に入ると、途端に恋しさが募る。
ところが、月島のほうはいたって平静なのである。鯉登が次々差し込まれる課業を捌き、珍しく少し早く片付いたという日でも、「早く帰って休みましょう」と諭して解散する、そんな感じであった。休むよりは、二人で熱く濃密な夜を過ごしたいという気持ちのほうが鯉登はずっと強かったが、疲れているのは自分だけではないのだからと己に言い聞かせ、見苦しく駄々をこねることはしなかった。
そろそろ駄々もこねてやろうかと思うようになる頃、会議の日程調整や内容の取りまとめも終わりに近づき、ようやく諸々の目処が立った。
ぐったりと机に突っ伏した鯉登の耳に、コトッという音と振動が伝わった。
音の方向に顔を向けると、湯気の立つ湯呑が置かれていた。
「お疲れ様です」
労いの言葉が月島の口から与えられた。それだけで疲れた体と心が少し癒される気がした。くるりと背を向けて、月島は盆を片付けに出て行こうとした。
「うう〜……月島ぁ……」
「なんです」
呻くような鯉登の呼び声に、何事かと戻ってきた月島を、机に顔を付けた状態のまま、鯉登はじっと見上げた。自分比、やや可愛げを強調させた瞳で訴えた。
「摩羅が張って痛い……」
「え……?」
小さく月島が戸惑いの声を漏らす。
摩羅が張って痛い――いろいろ溜まっている、今日こそはお前を抱きたい、そういう意味だ。暗に誘われたことを察したのか、月島は迷いの色を浮かべ、そっと囁いた。
「……病気ですか?」
否、全然察していなかった。思わず鯉登は頭を抱えて声を張り上げる。
「そんなわけあるかッ、お前としかしてないのにッ!」
「は……?あぁ、なんだ、そういう意味ですか」
途端、月島の目から心配するような様子は消え失せ、代わりに視線が冷ややかなものになった。
「別にこちらも花柳病の心配をしたわけでは。そんな暇はないでしょうし」
暇がないことはよく知っているはずだ。ほとんどの時間を一緒に過ごしているのだから。だというのにだ。
「そんな暇が無いどころか勘違いされて、こうして苦しんでるわけだが……」
「苦しむだなんて大袈裟な」
淡々とした物言いはいつものことであったが、このもどかしさは伝わらんのか、と思うと、鯉登は筋違いな恨みがましさを抱いてしまった。こっちは誘い文句のつもりが、どこかから性病をもらってきたのか等という意味に取れる返事をされたら、誰だって腹立たしくなるものだ。例え月島にそんなつもりがなく、純粋に病気の心配をしたのだとしても、折角ちょっと可愛げを見せたのにこんな対応をされては、ちっとも面白くない。机にふてぶてしく頬杖をつく。
「お前のことを思ってこうなってるのに、それで妙な誤解をされてはたまらん」
「……あのですね」
月島の声に少々怒りが潜んでいるように感じ、鯉登は僅かに緊張を覚えた。一歩、机に歩み寄った月島は、じろりと鯉登を見下ろした。
「例えばですが、私が胸が苦しいと訴えたら、少尉殿はどうします」
「医者を呼ぶ」
「でしょ」
時々、月島の話し方は雑に――荒っぽいというべきか?――なることがある。不敬かもしれないが、それだけ気を許した話し方にも思えて、これはこれで鯉登は楽しんでいた。
月島はというと、そら見たことか、とでも言いたげに目を細め、顎を反らせてさらに言葉を続けた。
「同じことですよ。常識からいって、体調不良を訴えられれば心配するものです。駆け引きのつもりかなんだか知りませんが、そんなものまわりくどくって、わかりにくいだけで……」
まったくつまらない、情緒を解さない話だが、しかしまったくもって正論である。紛らわしい口説き方をした自分に非があると言われれば仕方がない……いや、このくらいのことは察してくれてもよいのでは、という気もやはり捨てきれない。
辟易した鯉登は表向き説教を受ける学生のように頭を垂れつつ、半分聞き流しながら、はたと別のことに思い当たって顔を上げた。
「月島は私のことを思うと胸が苦しくなるのか?」
「はい?」
話の途中に口を挟まれ、月島が眉をひそめる。鯉登は己の中に引っ掛かった何かを、どうにかして説明しようと手をわたわたさせた。
「いや、だって、お前を思うとそのナニがどうという話に対して、例えに出したのが胸が苦しいということは、その……そういうことではないのか?」
ばたつかせていた両手を机について、答えを迫るように月島の目の奥をじっと窺った。
まっすぐな瞳を受け止めていた月島は、二度三度と瞬きをしてから、己の言い方に瑕疵があったことを自覚してか、思いっきり視線を逸らした。あまりに露骨すぎるその動きを取り繕うためか、さらに歯切れ悪く言い訳を述べようとした。
「それは……」
「私も月島のことを考えると胸が苦しくなるときがあるぞ」
ちらりと月島が視線を戻すと、鯉登は片手を胸に当てて、己の鼓動の回数を数えてでもいるかのように神妙な――いや、真剣な顔をしていた。そのまま数秒の沈黙が落ちた。
「……苦しくなるというより、熱くなる、だな」
首をひねって独り言のように言い直し、ふと鯉登が顔を上げると、奇妙な表情の月島と目があった。歯を食いしばってでもいるのか、ぎゅっと噤んだ口が強張って、頬と耳が、ほんのりと赤らんでいるように見える。怒らせたのだろうか、いや、怒らせるようなことを言ったつもりはない。だいたい、月島の怒りというのはもっと静かで冷たいものなのだ。例えばさっき、じろりと自分を見下ろしてきたときのように。
ということは、この態度は怒っているのではなく――。
まじまじと眺めていた鯉登は、無意識に唇の端を歪めた。
「……そうか。やはりそういうことなんだな……可愛いところがあるではないか」
「なにやら勝手に納得されてるようですが……」
「うんうん、月島、私に妙案があるぞ!」
「今度はなんですか……」
胡散臭そうに睨む月島に対し、うんうんと頷いていた鯉登は悠然と両手を広げてみせる。
「私の摩羅が痛いのも、お前の胸の苦しいのも、いっぺんによくなる妙案なんだが……おっと」
広げていた両手をぱちんと胸の前で合わせて、腕を組む。さらに芝居がかった仕草で首まで傾けてみせた。
「こういうのはまわりくどくって、わかりにくいんだったかな?」
「いえ、もう結構」
苦々しそうに月島の眉間には皺が寄っている。「妙案」とは何たるかを理解している表情だ。それを見て鯉登の顔には愉快げな笑みが浮かんだ。妖艶に目を細め、机の上の湯呑みを手に取る。
「察しが良くて助かる」
はあ、と諦めたようなため息をつく月島を見ながら啜る茶は、なかなかどうして美味かった。