ある日の遅滞戦術「私はお前を傷つけたくないんだ」
執務室の椅子に腰掛け、頬杖をついた麗しい横顔はそう言った。
「ほう」
聞いている、という以外に、特に意味を持たない相槌を打ちながら、月島は鯉登の爪先――長い脚を組んでいるために宙でゆらゆらしている――を眺めやった。
「傷つけたくないなら、傷つけなければよいだけでは」
「しかし時々そうでもなくなる時があるから困る」
「ほう」
一度目よりは、些かなりとも感情の籠もったものを返し、机を挟んで立っていた月島は問い返した。
「どんな時に傷つけたくなります」
そこでずっと横顔を見せていた鯉登が、ゆらりと月島のほうに顔を向けた。左頬に走る刀傷が、途端に顔の印象を精悍なものに変える。
「今みたいな時だ。そうやってお前がけしかけようとする時だ」
「けしかけてはおりませんが」
――人の顔から、勝手に何を読み取っているのやら。
変な思い込みをされては、こちらが困る。
「ですが、多少のことなら別に。慣れておりますし。傷なら既にありますし」
それを聞いた鯉登は、悲しむような、それこそ己が傷ついたような目になった。その視線は月島の首筋に向けられている。頬杖にしていた手を月島のほうへ伸ばした。
「手」
どうしろとまでは言われなかったが、多分求められているのだろうと、月島は片手を差し出した。鯉登はその手をとって近くに引き寄せると、肘をついた両手で包んだ。手応えを確認するように捏ね回していたが、動きを止めると、ふうとため息を吐いた。
「お前は痛みを我慢するから、やりすぎてしまいそうだ。痕だって残るかもしれない」
いつの間に傷つける方向で話を進めているのだ、と月島は呆れ顔になった。
「今更増えたところで……」
「既にあるからといって、増やしていいというものではないだろう」
噛んで含めるような言い方に、こちらの身を案じるような気配を感じ、月島はどうにも居た堪れない気持ちになった。この場を離れたくとも手は未だ囚われたままだ。
「それに癒えない傷もある」
声が一層低くなった。僅かに、己の手に重ねられた鯉登の手に力が入ったようで、月島はちらりと目をやった。
ずっと生傷のまま、折々に痛みを思い出させるものを抱えていくのは確かに生き辛くもあるだろう。しかし大なり小なり、皆が抱えているだろうとも思った。誰しも無傷ではいられない。鯉登だって抱えているはずだった。その傷の中には、自分が与えたものもあるかもしれない。
そのことを思うと、肺腑の奥から苦い思いが込み上げてくる。それならば、この男から自分が傷をつけられるのは、むしろ当然の報いではないだろうかとさえ思えてくる。自分は未だ何も清算していない。それでも、側にいる資格が己にあるのだろうか。己の与えた傷に相応の罰を受けて、初めて自分はこの男の隣に居ることを許されるのではないか?許された証が、癒えずに残るというのならば――。
「それもいいものだ、などと思うなよ。まったく健康的じゃない」
はっと月島は我に返った。咎めるような鯉登の瞳が、じっと月島を映していた。思考を読まれたようで、内心ひやりとしたが、表には出さずやり過ごした。
「そこまでわかっておいででも、傷つけたくなる時があるのですか」
「うん……」
珍しく決まり悪そうに鯉登が即答を避けた。しばらく横を向いたまま、月島の手をにぎにぎしながら考えて、口にした。
「お前のとんだ思い違いを正してやりたいとか、私を一時でも忘れないようにしてやりたいとか」
「ほう?」
不健康な自分と違って、心身ともに健全と思っていたが、なかなかこの人にも根深いものがあるようだ、と月島は変に感心、いや、安心してしまった。今日日、聖人君子のほうがよほど信用できない。
「思い違いが何を指しているのかは存じませんが……右腕が心臓を忘れるわけがないではありませんか」
「心臓?」
吃驚したように、鯉登の瞳が丸くなった。連動して、ぎゅっと月島の手が握られる。
「ええ。私はあなたの右腕なのですから。右腕……身体を動かしているのは心臓でしょう。まあ、四六時中意識をしてはいませんが、心臓が無ければ生きてはいけない」
鯉登は呆気にとられた様子でまじまじと月島を見上げていたが、ゆっくり下を向くと、月島の手を包んでいる己の手に、額を押し当てた。
「……やはり傷つけるより癒やすほうがいいな」
甘えるように額を擦り寄せられ、月島は目を細めた。
「癒えない傷もあるとおっしゃったでしょう」
「そうだ。癒えるものもある」
再び顔を上げたとき、鯉登はもういつもの凛々しい面構えに戻っていた。
「……で、遅滞戦術はもう済みましたか」
「なんだ、つまらんな」
淡々と尋ねる月島を鯉登が鼻で笑う。ふてぶてしい態度を前に、月島は出方を考えていたが、ついと握られたままの手へ視線を落とした。
「……手汗が」
「ううううるさい!」
かあっと顔を赤くして、鯉登が慌てて手を離した。