295話の行間 / 鶴+月(鯉月風味)「私の味方はもうお前だけになってしまったな?」
――蛇に睨まれた蛙とはこういうものだろうか。
まるで金縛りにあったように身体が動かない。明かりの届かない建物の薄闇に、半ば溶け込むようにして佇む姿勢の良い死神が、じっと月島を見ていた。
「……それは」
口の中が渇いて、確かに発音出来たかどうかは疑わしかった。
――どういう意味なのだ。
お前は味方かと確認しているのか。それとも、鯉登少尉はもう味方では無くなったと言いたいのか。
――そんなはずはない。
鯉登少尉が、自分の忠告を聞かず、甘い嘘のことを話したのは何故か。彼は部下を守るためといったが、きっとそれだけではない。
彼は、鶴見中尉のこともまだ諦めてはいない。
何故ならあのコタンで、鯉登少尉は言ったのだ。「鶴見中尉殿と月島軍曹を最後まで見届ける覚悟でいる」と。部下を守るためだけなら――いざという時に鶴見を人柱として処断するだけなら、その瞬間まで考えを秘めていたほうが都合がよいはずだ。信頼を失う危険を承知で逆らう意思を見せたのは、今からでも鶴見にやり方を変えるよう、考え直して欲しいと思ったからではないか。
多くの犠牲を払いながらここまできて、今更戻ることなど出来ない。この凄惨な戦いの先には救いがあると信じて進むしかない。皆そう思っているなかで彼だけは。
まだ遅くないと、きっと彼なら言うのではないか。あの時自分に言ったように。
鯉登少尉は鶴見中尉の敵ではない。少なくともまだ。
そんなこと、聡い鶴見中尉にわからぬはずはないのに。
見開いたままの目が鶴見中尉から離せない。
何故か、鶴見中尉の唇は緩く弧を描いていた。たった今、自分を殺すよう部下に言ったばかりなのに、どことなく嬉しそうに見えるのが恐ろしかった。
「鯉登少尉は本当に立派に成長したものだ……すっかり一人前の指揮官だ。お前の教育の賜物だな。よく育ててくれた」
「そんな……ことは……」
「もう鯉登に補佐役はいらないだろう」
背筋に冷たいものが走った。言葉通りなのか、それとも。言葉の奥に隠された意図を理解することを、頭が拒もうとしている。銃を固く握りすぎて、指が小さく震えた。
ぎし、ぎし、と床の軋む音と共に、鶴見中尉が近付いてくる。
「……なに、を」
――今更、何を選ばせようというのだ。
ここは戦場で、自分は兵士だ。戦場で兵士に選択出来ることなどない。
兵士は何も選ばない。兵士は上官の命令を聞くのが務めだ。上官の命令に従うことだけが求められるはずだ。
手が届く距離まできても、どうしてだか、鶴見の表情がわからない。そこには仮面のように貼り付いた微笑みがあるのみだった。虚ろな仮面が見下ろし口を開く。
「そろそろ返してもらおうかな?」
肩に手が置かれた。かつては温かく誇らしく感じたこの手を、今は逃れ得ぬ枷のように感じる。変わったのは自分なのか、この人なのか。或いは、自分が知らなかっただけで、この人は初めから何も変わっていないのだろうか。
皮肉なことだ。鯉登少尉の輝きが増すほど、この人の闇が深くなる。
そして散々手を汚してきた自分もまた、闇の中で生きるしかない。
思いがけず哀しみが胸に迫り、月島はひっそりと眉尻を下げた。