299話の行間 大団円を諦めない男 例えば嬉しいことがあったとき。例えばわからないことがあったとき。例えば怪我をしたとき。例えば美味いものを食べたとき。例えば退屈なとき。例えば心細いとき。例えば、例えば、例えば――例えば、呼びたくなったとき。用は無くとも、ただ、そばにいて欲しいとき。
自分以外の誰かを、何処かを見ているその眼をこちらに向けたくて。自分のことを映して欲しくて。そうして何度も名前を呼んだ。
崩壊しかかっている堡塁の上から、馬で駆けてゆく月島が見えた。見慣れた背中が遠ざかっていく。
「月島ァ」
いつものように叫んだが、月島は振り返らなかった。それはそうだろう。距離がありすぎる。恐らく聞こえてはいまい。
訓練所から出た時もそうだった。あの時も返事はなく、振り返ったのは自分だった。月島はついてこなかった。聞こえていたはずなのに。
今までなら、呼べば月島は応えてくれた。
それはまあ面倒くさそうだったり、困り顔だったり、無表情だったりと、決していい顔はしていなかったが、理由なく無視をしたり、返事をしないということは無かった。いつでも応えてくれるという確信があったから、迷わず呼ぶことが出来たのだ。
困っていれば手を貸してくれたし、苛立っているときは宥めようとしてくれた。そばに来てくれた。行けと言ってもついていてくれた。それなのに。
――いや。
頭を振った拍子に、髪の毛から水滴が飛んだ。
悩んでいる場合ではない。月島は、月島の為すべきことを為すために馬を走らせている。自分もまた、為すべきことを為さねばらならない。
きっと月島の向かう先に鶴見中尉殿がいる。鶴見中尉殿の計画を成功させれば、中尉殿についてきた者たちはきっと報われる。兵だけではない、兵の家族や多くの人々が救われる。大団円じゃないか。
だがもし計画が失敗したら、その時は。全てが終わったとき、どのような結末であろうと――鶴見中尉殿と袂を分かつことになろうとも、自分は自分に出来る形で部下を守る。
士官たる自分が為すべきことはそれだ。この『役目』は、他の誰にも担うことが出来ない。
指揮官というのは孤独なものだ。兵には出来ない決断を独りで下さねばならない。隣で支えてくれる副官の存在がどれだけ心強かったか、いなくなって初めてわかった。鶴見中尉殿も同じ気持ちだったのだろうか。
もしも、このまま月島と離れることになったら?考えるだけでぞっとした。
まだまだ月島には言いたいことがある。聞いて欲しいことがある。そばにいてもらわなくてはならない。諦めるわけにはいかない。
鶴見中尉殿の計画が成功さえすればいいのだ。
――追わねば。
稜堡を駆け下り、馬を探した。騎乗している兵卒から手綱を譲り受けて跨ると、胴を蹴って走らせる。
月島はわかっているだろうか?
守るべき部下のなかには、お前もいるのだということを。