201話の行間 病院で尾形に逃げられてしまったのは後顧の憂いを残すこととなってしまったが、「荷物」が減ったと考えれば悪いことばかりではなかった。いつ傷が悪化するかわからないような重傷者を連れて北海道まで戻ることを考えると、今いる者だけで帰路を急ぐほうがずっと早い。
重傷者はもうひとりいるのだが、そちらも多少は回復をみせていた。
しかし、いざ出発という段になり、改めて橇に乗る人間を振り分けしたところ、ちょっとした問題が発生した。
「何故だ、月島」
もこもこの防寒着を身に纏った将校が、自分より頭一つ分近く小さい部下の片腕を掴み、詰問した。同じく、もこもこの防寒着に包まれた部下は、多少言いにくそうに下を向いた。
「……すみません、でも少尉殿では……」
「……私では満足出来ないというのか」
役者顔負けの秀麗なる容貌を悔しそうに歪めて、鯉登が呟く。
自分たちの犬橇に荷物を積み終えて、手持ち無沙汰になった白石が遠巻きにその様子を眺めていた。
「すごい。痴話喧嘩みたい」
橇を引く犬の一匹を撫でながら、杉元は興味なさそうな顔でちらりとそちらに目をやった。
「いつもあんな感じだろ」
「いつもあんな感じ……?」
眉間にうんざりしたものを漂わせて杉元が頷いた。
「何かあれば月島月島言ってるからな、あのボンボン」
つい先日杉元と再会を果たし、先遣隊に合流したばかりの白石にはよくわからなかった。白石からすれば、月島軍曹は夕張の炭鉱で追いかけた敵であり、鯉登少尉は旭川から逃げるときに自分を撃とうとした、そして逆に飛行船から蹴り落としてやった敵である。現状敵意はないにしても、あまりお近づきにはなりたくない。しかし、この二人が一緒にいると「あんな感じ」になるというのは、外野としてはちょっと面白い。
痴話喧嘩はなおも続いている。
しばらく俯いていた月島がようやく顔を上げた。深刻そうな顔で、鯉登を見据えて口を開く。
「すみません……ですが、やはり谷垣のほうが良いです」
「「谷垣!?」」
思わず杉元と白石が声を合わせた。
「え、三角関係?三角関係なの!?」
「いやそれはないはず……谷垣にはインカラマッもいるし……」
「何故私ではなく谷垣なのだ!」
杉元と白石のヒソヒソ話を鯉登の鋭い声が遮った。
「谷垣のほうが大きいので……」
「そ、それは、谷垣のほうが大きいだろうが、重要なのは大きさでは……」
「硬さもちょうどいいですし……」
鯉登が頬を紅潮させながら、必死に抗弁した。
「わ……私だって……」
「いえいえ、少尉殿では全然」
片手をぱたぱた振って月島があっさりと否定する。ぎりぎりと歯を食いしばる鯉登と対照的に、月島は淡々と続けた。
「まあ、口で言っても埒が明きませんから、とりあえず一回谷垣に抱かれてみては」
「抱かれてみろだと……?お前すごいこと言うな……」
愕然としている鯉登を、白石は気の毒そうに見やった。
「さすがにあれはさぁ……ちょっと傷つく……」
「よし、試してやろう」
「試すのぉ!?やだ軍人こわい!!」
なぜそこで乗ってしまうのか?どうするつもりなのか?まったく白石には軍人の気持ちがわからない。やはり軍人はいかれている。
「うるせえ!揺さぶんなよ!」
がたがた揺さぶられた杉元が白石の手をぺしりとはたいた。
鯉登が大声で谷垣を呼びつけ、チカパシと何事か話していた谷垣が哀れにも何も知らず鯉登たちの元へとやってきた。
「来たか、谷垣一等卒!ちょっとここへ座れ!」
両腕を組んで谷垣を待ち構えていた鯉登は、腕を解くと、高圧的な態度で犬橇を指さした。
「?はい……」
戸惑いを隠せない谷垣は、それでも言われるがまま犬橇に跨った。その前へ鯉登が座り、谷垣の胸へどすっと凭れかかった。ますます谷垣の顔は困惑の色が濃くなる。
「え……?あの……」
真顔のまま動くこともなく、谷垣の胸に頭を預けて空を見ている鯉登を、月島が見下ろした。
「どうです」
「安定感がすごい」
「でしょう」
「むう……だが……」
一応の誉め言葉だったが、鯉登の表情は難しいままだった。両腕を組んで、唸っている。
「どうしてそんなに順番を変えたがるんです。今までどおり、少尉殿が前でいいではありませんか」
「…………」
眉間に皺を寄せて鯉登は立ち上がった。納得し難い様子ではあったが、ため息をつくと、事情が飲み込めていない谷垣を振り返った。
「仕方ない、月島を後ろで抱きかかえるのは谷垣に任せる」
「は、はあ……」
谷垣はいまだ話の流れがよくわかっていないようであるが、とりあえず頷いた。
一部始終を見ていた白石は胸を撫で下ろしていた。
「なんだ、抱くってそういう意味かよ」
ああ、と杉元が思い出すように目を細めた。
「そういえば初めて犬橇に乗ったときは軍曹の後ろが谷垣だったっけ」
だから谷垣の「安定感」を身をもってわかっていたのだろう、と合点がいった。
「へえ~。皆で乗ってたのか」
「で、重たいから橇から落としたんだ」
「酷くない?」
なにせ一つの橇に乗るには定員を超えており、あの場で一番重量があったのは谷垣だったので仕方がない、尊い犠牲だった。
「確かに後ろがゲンジロちゃんなら安定するよな」
「まあ、それに軍曹もまだ首の傷が治ってないからな……」
「そっか。なら最初っからゲンジロちゃんに任せたらいいじゃん」
月島と谷垣が話しているそばをふらりと離れる鯉登を横目に見ながら、白石はさも簡単そうに言う。
「……色々あるんだろ」
杉元はちょっと肩を竦めて、それでこの話題はそこまでになった。
鯉登は出発の用意を整えているエノノカとその祖父のところへ赴いていた。
「エノノカ」
「なに?」
闊達に動き回っていたエノノカが、ぱたぱたと近づいてくる。鯉登は少し腰をかがめて、目線を近づけた。
「我々は早く戻らなくてはいけないが、揺れが激しくなるような悪い道は出来るだけ避けてくれるよう、ヘンケに言ってくれ」
「月島ニシパのためね?」
利発そうな瞳が輝いている。鯉登が頷いた。
「そうだ。エノノカは賢いな」
「ふふ!」
エノノカはきゅっと目を瞑って楽しそうに笑った。
「鯉登ニシパ見てたらわかるよ!」
「そうか?月島はわかっていないみたいだが……」
月島の首の傷は、迂闊な自分を庇ったせいで負ったものだ。だから、出来るだけのことをしてやりたいと思っていた。それで、移動時の揺れが傷に響かないように、自分が後ろに回って抱いていてやろうと考えたのだが、その提案は当の月島にあっさりと断られた。
勿論、傷を負わせた後ろめたさはある。だが償いだけでなく、それ以上に何かしてやりたいという気持ちが鯉登は強かった。そう思い行動することは、月島にとって迷惑なのだろうか。
憂鬱そうにため息をつく鯉登の背中を、ぽん、と小さな手が叩いた。
「私は応援するぞ……!」
いつの間にか背後に立っていたアシㇼパが、力強く頷いてみせる。その瞳に同志の輝きを見てとり、鯉登もまた頷くのだった。