護花鈴の胸中 鯉登が陸軍大学校を卒業した翌年のことである。
重要書類の受け渡しと諸々報告のため、遣いとして東京へ赴くこととなった鯉登は、定限も間近の部下、月島を連れ立って帝都へ来ていた。
朝一番に仕事を速やかに終わらせ、半ば接待のような昼食を見事な作り笑いでやり過ごした二人は、受領した新たな書類を手に、三宅坂の参謀本部を早々に辞すことに成功した。
解放感に満ちた足取りで昼下がりの暖かな陽の光の下を歩く。あとは北の地へ戻るだけだが、急いで戻るのも味気ない。駅までの道を遠回りすることで、二人は束の間、久しぶりの帝都を味わうことにした。
なにせ、とてもよい季節なのだ。
「こちらはもう桜が満開だな」
あちら、つまり北海道では、ようやく残雪を気にせずに済み始めた頃だというのに、二人の眼の前では、宮城をぐるりと囲む淵に沿って、桜並木がその枝をのびのびと伸ばし、地面を覆うように淡紅色の花の雲が広がっていた。
花の盛りを楽しもうと、多くの見物客が川沿いをのんびり練り歩き、ところどころで足を止めてはうっとりと見入ってみたり、どこかの露店で買ったと思しき串焼きのようなものを齧って楽しんでいたりした。
「旭川で見られるのは一月後でしょうかね」
「うむ。我々はこれを二度楽しめるというわけだ」
鯉登の返答に、月島はほんの少し目を細めた。月島としては、北海道の遅い春を恨むような、帝都の早い春の訪れを羨むような気持ちが多少なりとも混じっていたのだが、鯉登の言葉には後ろめたい感情は微塵もないようだった。
以前であれば、その楽観的なほどの純粋さをもどかしく、或いは疎ましく思ったこともあった。今となっては、決して美しいばかりでない現実を知ってなお、前向きでいようとする強さに少しばかり尊敬すら覚えている。
「青山も桜がたくさんあってな……」
陸軍大学校の所在地である。遠くを懐かしむような目で鯉登が語る。
「忙しさで心がささくれ立つような時も、なんとなしに慰めになった。風もないのに静かに散りゆくさまなど可憐で儚くて……」
立ち止まって鯉登はしばし現実の花霞のほうをじっと眺めた。千鳥ヶ淵の水面には、まださほどの花びらも浮いてはいない。
陸大に入る以前の陸軍士官学校、さらには海城学校の頃も含めれば、鯉登がここ帝都で過ごした期間は長く、この水面に花筏が出来るところを見たこともあったはず。彼の目には記憶の中のそれが見えているのかもしれない、と月島が考えていると、鯉登がくるりと隣の月島を振り返った。
「そういうところが月島を思い出させた」
思いもよらぬ言葉に、月島はぎょっとした。
「相手を間違っておられるのでは?」
自分のどこに儚さを感じるというのだ。
「まあ、屈強で鳴らした月島軍曹には多少不本意かもしれんが……」
不本意というか、納得がいかない。自分のような男を儚いなどと、誰が聞いたって合点がいかないだろう。月島は訝しく思った。
「それは私が頼りないということでしょうか」
「いや、そうではない」
鷹揚に首を振り、鯉登は顔を近づけると、少し声を潜めて諭すように言う。
「私は真実お前を頼りにしている。だがお前にも脆い部分があることを知っている」
そう言われてしまうと、心当たりが無くもない月島は口を噤むしか無い。助けられておいてなんだが、やはり弱みなど人に見せるものじゃない。俯いて目庇越しに僻みっぽい上目遣いで睨むと、鯉登が可笑しそうに微笑んだ。どんな顔をされたって、あの大泊やコタンの時ほど恐ろしいことはない。
「許せ。部下として頼もしく思ってはいるが、個人としては危なっかしくて放っておけんのだ」
思い出すと今でも背筋が冷たくなる。任務のため、いや上官のために、迷わず命を散らそうとする姿を、あの列車の戦いで鯉登は見せつけられたのだ。その潔さを危ぶむ自分の思いも少しはわかってほしいものである。
月島の、ぎゅっと結びすぎてやや突き出された唇を突っついて鯉登が付け加える。
「それに月島が生まれたのもこの頃だろう?それで余計にだろうな、桜を見てはお前のことを思い出していた」
対岸の桜へ見晴かすように目を向けて、鯉登は大きく息を吸った。桜の香りでもあるまいが、この季節は空気すらほんのり甘く感じる。道行く人々もどこか浮き立っているように見えた。多分、自分も少々浮かれている。この桜並木を当の月島と眺めることが出来るとは思っていなかった。
「……桜のようだと言うなら、それはあなたのほうではないのですか」
聞こえた低い呟きに鯉登が目を移すと、先程よりも顔をあげて、月島が真剣な目でこちらを見つめていた。
「華麗奔放。美しく華やかで、人の目を引かずにおれない。思うままに咲き誇っては、周囲を振り回す。鯉登中尉殿のようではありませんか?」
瞬きもせず、射抜くような目をまっすぐに向けて、月島は淀みなく言ってのけた。言われた鯉登はというと、唖然として目をぱちぱちさせながら、しばらく言葉が出てこなかった。月島の言葉を反芻しているうち、次第に頬がじわじわと熱を帯びてきた。口が、舌が渇く。
「月島は……時々すごいことを言うよな」
「ですが本心です」
追撃を喰らってしまった。
「……はぁぁぁぁ……」
両手で顔を覆って、鯉登は深くため息をついた。
ここが天下の往来でなかったなら。
全力で抱き締めて、それこそ滅茶苦茶に振り回してやったものを。
恥じらう乙女のように顔を隠している鯉登の様子に、ようやく月島も、己の発言が客観的にどう捉えられたのかを感じ取った。戸惑いがちに目を逸らすと、軍帽の庇を下げて居た堪れずに呟く。
「……すみません、変な空気になってしまいましたね……」
「……これは良い雰囲気というんだ。一般的にはな」
顔から手を離し、嘆息にみせかけた深呼吸で、鯉登は胸の鼓動を鎮めようと努めた。
「だからこそ惜しい。もう少し時と場所が違っていれば……」
「は……?違っていればなんだというんですか?」
月島の声色がぐっと低く、剣呑な響きとなった。腹から響くドスの利いた声に、慌てて鯉登は横を向いた。
「な、なんでもない……」
目線の先では、照る陽を柔らかく受け止める桜色の波が、青空のもと輝いていた。