好みでない相手が好みになるまで 初年兵の教育を終え、兵舎の廊下をミシミシ鳴らしながら執務室へ向かっていた鯉登が、不意に斜め後ろについて歩く月島にこそっと耳打ちをした。
「今晩部屋に来い」
手元の書類に目を落としていた月島は、怪訝そうに顔をあげ、隣の上官へ尋ねた。
「部屋に来いとは」
「無論、そういう意味だ」
平然と返され、月島は白目を剥きそうになった。「そういう意味」が何かわからぬわけではない。何故なら、鯉登からのこのような――同衾の誘いはしばしばあることだからだ。そして月島はそれを受けたことが一度ならずある。拒みきれずやむなくのことであり望んでのことではない。
「……他を当たられては」
「月島がいい」
歩きながら一歩隣に詰め寄られ、同じだけ月島は身体を引いた。するとまた鯉登が距離を詰めてきたので、月島は腕を擦るか擦らないかのところまで兵舎の壁に身体を寄せた。花沢少尉と壁に挟まれている尾形の姿が思い出された。当時は何やってるんだと思っていたが、いざ似たような状況に置かれてみると人のことは言えない。
――何故自分なんかを。
「私なら自分のような人間は願い下げですが」
「じゃあお前はどんな男がいいんだ」
「なんで同性前提なんですか……」
月島は顔に出さないように苛立ちを押し隠し歩き続けた。かつて、心の底から好きになった人は女性だった。大切な幼馴染で、でももう会えない人。彼女に繋がるものすら、もう何一つ持ってはいない。
「お前どういうのが好みなんだ? 私などどうだ?」
「はあ……特に好みではないです」
「なッ……」
淡々と、しかし正直な答えを月島は返した。眉目秀麗、才気煥発、手柄を求めて先走るきらいはあるが、鯉登は将来有望な若者で、聯隊旗手になってもおかしくない優秀な男だ。が、それと個人の好みは別である。
「ならお前の好みはどういうのだ?……はっ、もしや鶴見中尉殿のような、知的で成熟した大人が……」
「違います」
「じゃあなんだ。減るものじゃなし、いい加減教えんか。なあなあ」
執務室の扉をくぐっても鯉登は問いかけをやめようとしない。そのしつこさに閉口した月島は、扉を閉めながら訥々と言った。
「……くせっ毛で……色白で、目がつぶらな人ですかね」
「…………」
この不承不承の返答を聞いた鯉登は、ゆっくりと腕組みすると、斜め上のあたりを見上げた。そこには天井しかないが、何を見ているんだと、月島も同じあたりを見上げてみる。ぼそぼそと低い呟きが復唱した。
「……くせっ毛で、色白で、目がつぶら……」
鼻筋が通った上官の横顔は、着飾ることなくそのままブロマイドにしても買い手がつきそうなほど、よく整っている。それは月島にだってよくわかるのだが。
――真っ直ぐな髪で、色黒で、切れ長の鋭い目付きを持つあなたとは、全然似ても似つかない。
そんな月島の内心など知る由もなく、たっぷり考えた鯉登は腕を解いて大真面目に言った。
「私も小さい頃はつぶらな目をしていたと言われる」
「いくつのときの話ですか?」
「いや、それより性格のほうを聞かせろ。外見より中身が大事だ」
人より容姿に恵まれておいてなんという言い草であろうか。しかし言っていることは至極真っ当である。
「中身……」
「……そんな険しい顔せんでも」
近眼の者が遠くの看板を読もうとするがごとく、眉間に力が籠もっているのを見て、鯉登が眉をひそめる。それをじろりと一睨みすると、月島は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、厄介者の自分にも別け隔てなく接して、愛してくれた人。誰も呼ばない名前をあの子だけが呼んで、人間扱いしてくれた。彼女といるときだけは、こんな自分でも少しはましな人間に思えたものだった。
柔らかくて温かな笑顔を、思い描こうとすれば容易く出来た。だが同時に、その笑顔は二度と見られないのだという現実が襲ってくる。それは閉ざした瞼が震えるほど辛いことだった。
それで月島は、彼女のことはそっと留めて、深く思い出さないようにしていた。けれど忘れたことはない。この人と一緒ならどこでだって生きていける、この人と生きていきたいと、そう思わせるくらいに、深い愛情で包んでくれたあの子は――。
「……やさしいひと」
ふっと目を開いて呟くと、珍しいものでも見たように、鯉登が目をパチパチさせていた。
「なんです」
「うん、いや……」
ほんの一瞬、泣き出すのを堪らえでもするように、月島の目元が強張ったのを鯉登は見逃さなかった。優しいひと、というその一言を絞り出すのに、そこまで力がいるものだとは。
「優しいひと、か……ふうん……」
再び腕を組み、顎を撫でながら、鯉登はようやく聞き出した言葉を反芻した。勇猛であるとか、統率力があるとか、武芸に優れているとか、そういうことではないのかと少し拍子抜けだった。
「もういいですか」
月島はさっさと自分の机について、提出が必要な書類に目を通すことにした。下から上がってくる書類など、まず自分が確認をしてからでないと鯉登へ回せないものもある。その一枚目を手にしたところへ、横から鯉登がぬっと顔を出した。
「考えたんだが」
「何をですか」
「やはり私でいいのではないか」
「は?」
「優しいひとがいいんだろ?」
お前が言ったじゃないか、という顔で鯉登は見下ろしてくる。仕事に頭を切り替えたばかりのところを元の話題に引き戻され、言葉の意味がすぐには理解出来ず月島が黙っていると、鯉登は月島の持つ書類をひょいと取り上げた。小さく首を傾げて、さらに顔を寄せる。
「私はお前に優しくないか?」
真っ直ぐ視線を向けてくる鯉登の顔を、月島はまじまじと見返した。彼のこの自信はどこから来るのだろう。
「……やさしい……ですか?」
「え? 優しいだろ」
「どのあたりが……?」
「どのあたり!?」
素っ頓狂な声をあげて鯉登がぐらりと仰け反った。が、体勢を立て直すと、べしんと書類ごと机を叩いて迫った。
「美味い土産や差し入れが手に入ったら分けてやってるよな!?」
「はあ? まあ……」
「夜だって……あまり無理はさせんようにしてるだろう……」
「あー……なるほど……」
気まずそうに目を逸らして月島が頭を掻く。持てるものの余裕か、雰囲気に流されてかと思いきや、一応それらは鯉登なりの「優しさ」だったらしい。ちらと目をやると、反応に納得がいかないのか鯉登が口元を引き攣らせているので、月島はため息をついた。
「言っておきますけど」
月島は鯉登の手から書類を取り戻すと、皺になってしまった隅のほうを伸ばそうと上から何度も撫でた。
「たとえ明日少尉殿がくせっ毛で色白でつぶらな目になったとしても、そんな理由で好きになったりはしませんよ」
「な」
「好みなんて要素のひとつでしかないですし、変わることもあるでしょうし……そんなものにわざわざ寄せようって考えがそもそもどうかと思います」
好かれるために己を磨く努力をしようという心持ちならば健気なのだが。己の性格を無理に変えて結ばれたとしても、それではいつか関係は破綻してしまうに違いない。それは互いに不幸になるだけではないか。
「好みだから好きになったというのでなく、あなただから好きになったと言わせるくらいの気概を持ってはどうですか」
改めて月島はその備品に関わる書類を読み直し、数字の間違いが無いことを確認して、眼の前に立っているのをよいことに鯉登の方へとその書類を差し出した。次の書類に取り掛かろうとしたが、差し出した書類が一向に受け取られない。
「……?」
顔を上げると、鯉登は何か、随分と感じ入ったような、意欲に満ちた表情になっていた。突き出した書類は目に入っていないようだ。都合の良い目玉がきらきらと輝いている。月島は手にした書類に気づくよう、ひらひらさせた。
「少尉殿?」
「いいだろう」
ぴっと書類を引き抜き、その書類で月島を指して、鯉登は不敵な笑みを浮かべた。
「言わせてやるからな」
颯爽と己の執務机へ向かう鯉登の姿に、もしかして余計なことを言ってしまっただろうか、と早くも後悔が頭をもたげた。極力、面倒なことは避けたいのだが。やる気を漲らせている上官を目で追うのは止め、月島はようやく次の書類に取り掛かった。
「……ところで少尉殿は好みを聞かれたらなんて答えているんですか」
「ん~……真面目で、仕事熱心で、丈夫で、無愛想で、いかつくて、坊主頭で、年上で……」
「……それ、他所で言わないほうが良いですよ……悪趣味だと思われますから」
「何故だ……? 皆納得してくれるが……?」