オールドローズの咲く頃緊急時以外は走るなと厳命されている早乙女研究所の廊下を、ガツガツと叩きつけるような荒い音が響く。
走ってはいない。
誰も追いつけないような速度で所長神隼人が歩いているだけだった。
浅間山の山頂一体をその敷地とする広大な研究所の廊下を誰か探しながら歩いているようで、鋭い眼差しを向ける方向に運悪く立っていた若い所員はたまたま目が合ってしまったようで直立不動の姿勢でその場に固まっている。
「ただでさえ人相悪いんですから、若い連中を脅さないでくださいよ」と軽口を叩けるのはD2部隊隊長の伊賀利くらいのものだが、当の本人は「それくらいの度胸もない奴がこんなところに居られるか」と直す素振りもなかった。
猛烈に忙しい人だから早足気味なのはいつものことで、さすが元二号機乗りと言われることもあるくらいではあったが。
今日は常よりも更にその速度は早く、通り過ぎた後の風圧に歩くとは、と並んで歩いていた古参の上司に疑問を投げかける者もいたが、あれがゲッター乗りだの一言で片づけられてしまった。
その圧や容姿で人目を惹くことの多い隼人だが、今日は一段と目に付く。
いつもの白衣姿ではあったが、その左手には真っ赤な薔薇の花束が握られていた。
百本近くはあるのだろうか。それなりの重量があるはずのそれを軽々と振り回しながら、隼人が一瞬で通り過ぎる。
赤は赤でも品種は様々なようで色はまちまちではあったが、大輪の花はどれも美しかった。速度に着いていけずに舞い散る花びらは歩いた証のように点々と廊下に痕跡を残し、その芳醇な香りもあって所員たちの目を惹いた。
「どうしたんですかね、あれ」
「俺が知るか」
あっと言う間に通り過ぎていった遥か彼方の背中を見送りながら、再度若い所員が問い掛けるが、ここでは常識外のことが度々起こる。いちいち気にしてなどいられない。
そうは言ってもさすがに大きな花束を手に歩く隼人の姿はあまりにも目立ち過ぎたので、数分後にはほぼ全所員たちの知るところとなった。
「誰かにプロポーズされた」
「誰かにプロポーズするために探している」
それが所員たちの見解であったが、そうは言ってもおおよその火種の元は見当がついており、ハチュウ人類の特性についての議論へと話題は移っていった。
「お前だな」
丸く座り込んで土をいじっているカムイの背後から、重い声が掛けられる。
振り返ると逆光で表情は見えないが、異様に圧を感じさせる隼人が立っていた。
自室にも格納庫にも訓練室にもおらず。結局カムイは時間のある時に過ごしていることの多い、研究所の外に付いている温室に居た。
土を掘り起こして苗を植え替え、剪定した枝を一箇所にまとめている。温室を引き継いだ当初は苦戦していたようだが、もともと勘は良いので慣れてくると楽しめるようになっていたようだった。
膝に付いた土を払いながらカムイが立ち上がると、隼人はずいと手に持っていた花束をその特徴的な鼻先に突きつける。
「そうですが、何か」
「何だ、これは」
「薔薇の花束です」
それは見ればわかる。
そういうことではないと隼人が言おうとしていることがわかったのだろう、カムイは言葉を続けた。
「先日の戦闘で、この温室は大破しました」
「ここに使用している硝子は特殊なものなので、現在調達することはできない。修理は難しいだろうと敷島博士もおっしゃっています」
その話なら、隼人も聞いていた。早乙女家の薔薇を移植したこの温室を、研究所の人間たちは何とか残そうとしていたが、さすがにこの物資の不足した状況では困難だった。
「それなら。これで最後なら、一番美しい時に摘み取ろうと思ったんです」
引き取ってもらえそうな品種の苗は麓に移しました。ここの電気と水道も止めています。
じきに枯れてしまうでしょうと、カムイは残っていた薔薇を一輪手折る。
「どうぞ」
と、さらにその一凛を隼人へと差し出す。
隼人へとただ真っ直ぐに向けて来る赤い目が、実のところあまり得意ではない。真面目なのは良いところだが、真面目すぎるきらいがある。
そんなことを考えながら差し出された花を受け取ることなくただ眺めていると、
「あなたに渡そうと思って、育てたんです」
一歩進んだカムイが、隼人の持つ花束へともう一輪足す。
「神さん」
「ちょっと待て」
更に言葉を続けようとするカムイを制すると、隼人は肝心なことを口にする前にと、胸ポケットに入っていたペンを温室の隅へと投げつけ、監視用カメラを破壊する。
これだけ悪目立ちすることをしてしまったのだから、野次馬たちは既に隼人の位置を特定していることだろう。
これ以上見世物になるのは真っ平御免だった。
「よし、言え」
ふん、と鼻を鳴らし隼人が許可を出すと、出鼻を挫かれたカムイがそれでも姿勢を正し、続く言葉を口にした。
それに対し隼人がどう答えたのかは、カムイしか知らない。
後日、壊した監視用カメラの請求が隼人の元へ届いたが、特に文句を言うこともなく支払った。
温室はカムイが自分で撤去し、もう跡形もない。
最後の一輪はカムイの部屋で、水を入れたコップに飾られている。
カムイは薔薇が枯れるその最後の瞬間まで、飽きることなくただそれを眺めていた。