ホワイトデー的な何かエンジンの音に紛れてしまうこともなく、微かなリップ音が人ごとのように耳に入る。
隼人と家を出る時間が合う時は、車に乗せて行ってもらう。
昔は助手席に座りシートベルトを締めるのは楽しみでしかなかったが、今は早く免許を取らなければと焦る気持ちの方が大きい。
取ったところで隼人が大人しく助手席に座ってくれるのか、駐車場代がと言いつつもう一台車を買われてしまうのではと考えぬでもなかったが、さすがにそこまではしないだろうと思いたい。
「着いたぞ」
そんなことを考えている間に、いつも使っている駅の近くの駐車場に入ると車が停まる。ちらりと隣を見ると、隼人はいつも持ち歩いているノートPCで予定を確認しているようだった。
何となく車から降り難くてその横顔を眺めていると、カムイの視線に気付いてしまったのかふと目が合って。小さく笑った顔から目を反らせないでいたら次第にその顔が近付いてきて、冒頭に至る。
「キスして欲しかったんじゃないのか?」
すん、と真顔のカムイに、隼人は解せないといった顔を向けてくる。
(間違ってはいない。そう、確かにそうだが)
キスしたいと思っていたのは本当だ。けれど、そういうことではなくて。
(されたいのではなく、したかった)
しかし、車の運転席から身を乗り出している隼人との距離感を失ったまま、カムイの腕は条件反射のように黒いジャケットの袖を掴んでしまっていて。
そんな微妙なニュアンスをきっとこの人はわかっていないだろう。
返事をしないでいるとまた唇を寄せられて、
「ん……?」
カロンと口の中に押し込まれたものは、少しスっと鼻から抜けるような香りがする。
(のど飴?)
そういえば車内が乾燥すると言って、この時期は常備してあったことを思い出す。
「これが最後だ。買っておいてくれ」
ようやく唇が離れると、隼人はそう言ってふ、と揶揄うように口の端を上げる。
「こんなところで、人目につきますよ」
負け惜しみのようにカムイがそう言うと、既に確認済だったのか「誰もいないだろうが」という視線を返された。
全てが完璧だと思っていたこの人は、どうもデリカシーというものに欠けているのではないだろうか。
そんなことを考えながら、カムイは隼人にちらりと視線を向け、深く溜め息を吐いた。
しかし二人は気付いていなかった。それなりの距離から見ていた影があることを。
「どうしたバイス」
「カ、カムイ様が……」
この世の終わりのような顔をしたバイス(視力5.0)が駐車場のブロック壁に殴りかかろうとするのを、二人がかりで何とか止める。
「カムイ様を、カムイ様を誑かしやがって、あのクソジジィーっ!」と罵詈雑言を吐き続けるバイスを、何とかカムイに気付かれないよう引きずっていくのは本当に骨が折れる。
(勘弁してくれよクソジジィ)
(せめて見えないとこでやれよクソジジィ)
口に飴玉十個くらい詰め込んだら静かになるだろうかと目くばせしつつ、ガンリューとゴズロは何とか自分たちに課せられた責務を全うした。