快楽の範囲「知っているかい」
ぼんやりと紫煙を吐いていると唐突に切り出される会話。煙とともに辺りに揺蕩う気だるさを断ち切るようなはっきりとした呼び掛けだった。
日当りの良い午後の縁側、目の前に広がる庭にはここ数日でちらほらと草木が芽吹き始めている。細々とした雑務を終えた後の一服には勿体無いほどの麗らかさだった。そんな中、隣から投げかけられるいささか不釣り合いな声と呼び掛けは、いかにも声の主に似合いの雰囲気を纏っていた。
花器に生ける植物の茎を切るように、大将首をすとんと落とすように、風流を愛してやまないと公言する割には普段から物事を分断する物言いが多いのだ。その癖、本分がそうさせるのか、はたまたただの性質か、分断した物をつなぐ術を持たない為にこちらが繋がなければならないのが常だった。
「何をだ」
返事をしなければ機嫌を損ねる奴である事はここに来てから学んだことだ。主に顕現されるより前にも歌仙のことは何度か目にしていた。その度に人に、物に、愛されることを当然として疑わない節はあると思っていたが、共に本丸で暮らし始めてそれが間違いではなかったと気付くのにそう長くはかからなかった。
「主が話していたが、誰かと床を共にするよりも君が今くわえている煙草の方が気持ちの良いものらしい」
「は?」
「おや、聞こえなかったのかい。君が今くわえている煙草が」
「いや聞こえてはいる。繰り返すな」
「なんなんだ。疲れているのなら部屋でゆっくりしたらどうだい」
あまりにもこの状況に不釣り合いな話題に耳を疑い煙草を取り落とすかと思った。
それなのに問題の発言者はいつも通りの調子で煙管の羅宇を灰皿に打ち付けて灰を落としている。カンッと鳴る音は大きく、粗野と言っても差し支えないものではあったがこちらを見やる視線には労いの色が強く出ていて毒気を抜かれてしまう。
「たった今酷く疲れた」
「なら話を続けるが、煙草に含まれる成分が美味しいものを食べるよりも誰かと床を共にするよりも気持ちの良いものらしいよ」
瞳に浮かんだ労いの色を一瞬で潜めさせた歌仙は毒にも薬にもならない話を続けると、慣れた手つきで刻みたばこを雁首に詰めなおして煙管を口に銜えた。
「喫煙が気持ちが良いというのはよく分からない。煙草を美味いと思うこともそうそう無いが」
「正気かい?手入れがなければ早々に肺腑を病んで死にそうなくらい吸っているくせに」
マッチを擦り何度かスパスパと刻みたばこをふかし、1口深く吸い込んだ煙とともに吐き出された言葉は鰾膠も無い。
その言葉に思わず眉間に皺が寄ったが、確かに酷く美味そうに主が嗜んでいた煙草を1本頂いてからと言うもの、ズルズルと吸い続けており煙草のストックが切れたことは無かった。
「まあ主はともかく君の肺腑がどれだけ汚れようが構わないがそれは置いておいて、気持ちいいと言っても性的興奮に限らず気分が良くなることを言うようだよ」
仮にも恋仲である相手にどんな言い草だ。そう思わなくも無いが、事実どれだけ自分の肺が紫煙に塗れようと手入れをすれば元に戻っているのだろう。
「そうか。それで、だからなんだと言うんだ」
「深い意味は無いが」
会話の分断。何故こいつはいつもこうなのか。俺との会話を続ける気が無いのか、思わず眉間にシワが寄った。
再度煙管に口をつけ紫煙をくゆらせ始めた歌仙はこれ以上会話を続ける気はないようで眼前の庭に視線を移していた。
先日雪の景趣が終わったばかりの庭は徐々に春の景趣へと移りゆく期間で若葉や新芽が彩を添えてはいるが目を楽しませる程ではない。日によっては短刀達の声がそこここから聞こえてくることもあるが近頃夜戦続きの短刀達はまだ睡眠をとっているし、夜目の効かない刀種達もこれまでに開かれた合戦場の地形を隅々まで把握する為に出陣していた。本丸にいるのは自分たちを除けば主と内番や調理番を割り振られた僅かな刀達しかいない。
厨からも離れたこの場所ではここ数日で良く耳にするようになった鳥の囀り以外に音は聞こえてこなかった。
会話の途切れたこの場では互いの呼吸音と煙草の音だけが響き、なんとも収まりが悪かった。
「……こうして煙草を吸うのも気分転換にはなるがお前との共寝の方が良い」
「日の高いうちから随分とまあ」
まんじりと庭を眺め、2口、3口と煙草を吸っては吐いてを繰り返しても治まらなかった居心地の悪さに耐えかねて己の口から滑り出した言葉には頭を抱えたくなったが、後悔先に立たずとはよく言ったものだ。口から出た言葉は戻らない。嘘は言っていない。本心ではある。しかし、本当にこんな時間から何を……と否定の言葉を重ねようと口を開きそうになったがコロコロと笑う歌仙を見ているとそれは本意では無かった。
「お前が先にこの話を始めたんだろう」
それもそうだ。ささやかな抵抗を試みてみたがこちらを見ぬままそう言って、恥じらうでもなく朗らかに笑った男は燃え尽きた灰を灰皿に落としている。カンッと羅宇の打ち付けられる音が間延びして響いた。どこまでも自分のペースを崩さない歌仙は日頃水仕事をしているとは思えないほど良く手入れをされた手で煙管の状態を改め始めている。
顔を覆いたくなるのを耐えてフィルターギリギリの煙草を深く吸い込む。
「それで、明日は暇なのかい」
「特に出陣の予定も軍議もない」
「結構じゃないか。じゃあまた夜に」
「おい」
自分がここにいるのにまるで居ないかのように勝手に進んで行く会話に待ったをかけようと口を挟むも、それだけで止まるような男ではなかった。
「僕も明日は出陣はおろか朝餉の準備もない。随分とご無沙汰だったじゃないか。君にそんなことを言われたのに、大人しく一人で寝ろと言うのかい」
それはあんまりだろう。と歌仙は依然として楽しそうな笑みを浮かべていたが瞳には普段とは異なる色を滲ませている。
「湯浴みが済んだら久しぶりに君の部屋へ行くよ」
こちらが面食らって惚けていると、用は済んだとばかりに煙管と刻みたばこをケースにしまい懐へ収めると立ち上がり裾を直し始める。
「今日は三日月達が狩りをしてくると言っていたからね。そろそろ獲物と共に帰ってくる頃だろう」
とうに燃やす部分がなくなって火の消えた煙草を灰皿に押し付けて慌てて引き留めようと腰を浮かせたが、歌仙はこちらの返事を聞くこともなく厨へと去っていってしまった。引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、まるで嵐のようなやつだった。
中途半端に浮かせたままだった腰を再度落ち着けると大きな溜息が漏れる。もう今日の分の仕事は残っていない。夕餉まで二刻はある。何もせずに過ごすには少し長い間だ。あいつの目に浮かんだ色を少しでも頭の隅に追いやろうと新しく火をつけた煙草を深く吸い込めば肺腑によく染みた。