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    ogata

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    230504ジュン茨(全年齢・文庫・P36・¥200)の全文です。
    ジュンくんのキスシーンの練習のために、恋愛経験なし、つきあってない、お互いに意識してない二人がキスの練習をします。話の半分ぐらいキス。ジュンくんは一生懸命。茨は眠たい。
    捏造過去や設定を含みます。

    ##ジュン茨
    #ジュン茨
    junThorn

    kiss,kiss,kiss,「おはようございます」
     テレビ局は年中無休で眠らない。いつも誰とでも朝出会ったかのように挨拶をしながら、廊下を通り抜けて楽屋へと向かう。
     何度目かの挨拶の後、「Eden 七種茨様 漣ジュン様」と記された扉の前に到着する。
     ノックをして扉を開くと、茨はコーヒーを片手に鏡の前で座っていた。
    「おはよーっす」
     まっすぐに伸びた背中に声を掛けると、茨は鏡越しに「おはようございます」と応えたが、その顔はあまりにも生気がない。
    「ちゃんと寝たんですか? 俺らには煩く言うくせに、またあんたは」
     言いながら、茨の隣の椅子に腰掛ける。
    「ご心配には及びませんよ、小刻みに寝ております。ジュンはよく眠れました?」
    「おかげさまで」
     茨の目の下の隈は、寝ていないですと言わんばかりだ。むしろ茨にとって働きすぎは日常茶飯事で、そんな顔を隠せないほどの体調不良かと、心配すらしたのだ。
    「アンタのことだから、要領よく休んではいるんでしょうけど。気ぃつけてくださいよぉ」
    「お気遣いいただきまして恐縮です。メイクで隠して貰うことにします」
    「明日からはオフですし、茨も休めるんですよね?」
    「ええ、まあ。ジュンは、今晩からご実家の予定でしたね」
    「そうっすね。一旦寮にも戻りたいんですけど。何やら怪しい連中がES周りで張ってるようやから戻るなら気ぃつけや、ってサクラくんから連絡をもらったんですよね。多分週刊誌の類いなんでしょうけど」
    「ああ、そうですか。やはり彼は目端がききますね」
    「まあ、おれは特に後ろ暗いところもないですけど、勝手に撮られるのは嫌なんですよねぇ」
     ジュンの返答を聞いて、茨は鏡の中から、憐憫のこもった視線を返す。
    「なんでそんな目で見るんですか」
     眼鏡の位置を直してから、あのですね、とジュン自身に向き直る。
     茨は最近、よく子を諭すように説教をしてくる。凪砂に対する態度の癖が、余所でも影響しているらしい。おかげでコズプロの副所長は面倒見が良いという噂がまことしやかに流れている。別に間違っているわけでもないのだが、コズプロ所属のアイドルは総じて自由を愛するタイプが多いようで、言うことを聞かないし面倒ばかりかけてくる、というのが本人の弁である。
    「ジュンに後ろ暗いところがなくとも、記者はそれを捏造して、大衆の好む物語を作るんです。一部の記事を生業にする者にとっては、それが真実かなんてどうでもいい。あなたは少なくない人の耳目を集めているのですから、それだけ用心深くなる必要があるんです」
     始まってしまった、とジュンは茨の口を片手で塞いだ。
    「あーもう、お説教は勘弁してくださいよ」
    「本当にわかってますか? いつも言っていますが、平和ボケしないでくださいね」
    「はいはい、わかってますよぉ」
    「まあ、お分かりならこれ以上は言いませんが」
     その時、茨のスマートフォンが鳴った。失礼、と茨が会話と中断して電話に出る。
    「はい、七種です。ああ、本日のホテルの件ですね。人数が減るので、シングルで別の部屋にしていただけますか。広い部屋しか空いていない……ああ、仕方ないですね。では、それでお願いします」
    「珍しいっすね。都内の仕事だし、寮も遠くないのに、またホテルの予定だったんですか?」
     ジュンと茨の出番は昼過ぎには終わるとして、ジュンはその足で寮に戻るか、そのまま実家に帰るか決めかねていたところだった。
    「ここ数日のスケジュールに不安があったので、仮押さえしてあったんです。SSのあたりから、週刊誌の記者が煩かったので」
    「へえ、そんな準備もしていたんですねえ」
    「この休みは、閣下と殿下が殿下のご実家へ行かれることにしたといいますし、ジュンも実家ならまあ問題ないでしょう。ですがキャンセルにしても費用がかかりますし、自分だけで泊まろうかと」
    「ふーん、昨日までとは別のところなんですね」
    「そうです。元はスイートの予定でした」
    「うわっ、贅沢。撮影でしか見たことないっすよ」
    「殿下のご希望だったんですよ。自分だけになったので部屋を変えてもらいましたが、直前でしたので空きがなく、通常よりは広い部屋に泊まることになりそうです」
    「へえ、いいなあ。ホテルでゆっくりするつもりなんですか?」
    「企画書類をまとめて片付けようかと。ジュンも付き合いますか?」
    「うへえ、優雅なホテルステイかと思ったら、缶詰なんですか……そんな広い部屋に一人って、なんか寂しくないです?」
    「馴染みはありませんが、別に寂しくはありませんよ」
     基本的に、茨は肝が太いし突発的なアクシデントにも強い。少なくともジュンよりは、ということだが。一人の宿泊が怖いと言うことはないが、仕事だと大抵日和か、たまに茨と一緒なので、一人で泊まったことはまだない。
    「ふーん……あ。それ、俺も行ったら駄目ですかね?」
    「別にいいですけど、実家に帰るのではなかったんですか?」
    「親には年末に会いましたし、急ぎの用ではないんで」
    「まあ、元々は四人の予定でしたから、一人よりは二人のほうが先方はありがたいでしょうね。ですが、ベッドがひとつしかありませんよ」
    「俺と茨は、ロケの時にセミダブルで一緒に寝たこともあるじゃないですか。おひいさんとナギ先輩はダブルの部屋でしたけど」
    「ロケ先でツインが取れなかったときのことですね。我々はともかく閣下や殿下に窮屈な思いをさせるわけにはいきませんので。あれは不可抗力です。まあ、ジュンがいいなら、変更の予定を入れておきますよ」
    「お願いします」
     顔には出ていないが、きっとたぶん茨は「ジュンの様子が変だ」と思っている。わかりにくいがそういう顔をしているし、他人のちょっとした変化にとんでもなく鋭い、それが七種茨だからだ。
     先日からジュンには、茨に頼みたいことがあるのだ。それも、ジュンにとっては結構重大な案件で。
     そもそも、こはくや茨に注意喚起されなければ、のほほんと寮に戻ってどこぞの記者に捕まっていたかもしれない。ジュンは何故か各方面から「悪い大人に騙されないように」と言い含められているので、面倒に巻き込まれるよりは、落ち着くのを待つほうがいいのは確かだ。
     だから、その方向性で茨のホテルステイに潜り込めたのは重畳だった。不信感を抱きながらも、まあいいかとスルーしてもらえた。
     なんとか、茨がうんと言ってくれるといいのだけれど。




     茨が予約していたのは、街中にあるハイクラスのホテルだった。
     多くのインバウンド客で賑わっていて、エントランスは花のような香りが漂っている。
     チェックインして部屋に移動すると、大きなガラス窓からは都内が一望でき、リビングにはゆったりと広いソファセットがあった。そして、男二人が寝ても十分余裕がありそうなベッドがひとつ。これまで見てきたものからもワンランク上のインテリアをしげしげと見て回った。
    「広くてゆったりしていますね。天気がいいから景色もいいし」
     ええ、と感慨のない声で答えた茨は、ジャケットを脱いでハンガーにかけた。ジュンにもハンガーを渡されたので、一応上着を掛けておくことにする。
    「まあ、たまにはこういうのもいいでしょう。自分は仕事を片付けますが、ジュンはどうします?」
     茨は早速鞄からパソコンやイヤホン、資料などを取り出してデスクに並べている。
     ジュンも窓際から、茨のいるデスク側まで歩み寄った。
    「俺はとりあえず、ホテルのジムに行ってみたいです」
    「そうですか。では、夕食はレストランで一緒にとりましょうか。それまで自由に」
    「あ、あと、実は茨に相談があるんですけど」
    「相談?」
     何ですか改まって、と言いながら、もう茨はノートパソコンの準備を済ませ、キーボードを打ち始めている。
    「俺、もうすぐ映画の撮影があるじゃないですか」
    「ええ! ジュンの舞台を観た監督に気に入られたとのことですよ、頑張ってください」
     茨の声が弾むのも納得の、話題作になりそうな作品だった。出演カットは多くないが、作品にとって重要な役柄で、おそらく予告にも出ることになるだろう。
    「そうそう、送っておいた資料にはもう目を通しましたか?」
    「はい、一応。なんか、恋愛要素がありますよね。キスシーンとか」
    「ええ。人物像はジュンのイメージに合っていますし、監督から打診を受けた時、ジュンも確認していましたよね?」
     ジュンは首肯で答える。少し硬派でシャイな高校生役は、舞台で演じたハイエナよりはジュンにもイメージしやすかった。たびたび受賞している有名な監督で、相手役は今、大手事務所が力を入れて売り出している女性俳優だ。
     これまでライブをメインに露出してきたので、これはジュンにとってもファン層を広げるチャンスになる。
     眼鏡の向こうから、茨の明るい蒼がこちらを射るのを感じて、思わず窓の外に視線を移した。
    「いつ言おうかと思ってたんですけど」
     茨の顔を見られないので、どんな顔をしているのかわからない。
    「あの、俺……キス、したことないんですよ」
     茨は資料を繰る手を止めて、しばらくジュンの言葉の続きを待った。しかし、なかなか次に言うべき言葉が口から出てこない。痺れを切らした茨が、うーん、と唸る。
    「もしかして、未経験だから恥ずかしい、ということですか?」
    「ま、まあ……そんなところです」
     やっとのことで茨の顔を見たら、「バッッカじゃねえの」と顔に書いてあった。言わないだけ偉い、かどうかはわからない。どちらにしても蔑まれている。
    「演技指導がつきますので、キスシーンがあるからといって過剰な心配はありませんよ。物語の性格からしても、軽い接触程度でしょう。初めては好きな人と、というようなことでしたら、撮影までに頑張れとしか言えませんが」
    「い、いえ。ただ、キスシーンとかベッドシーンとか、皆どうやって練習してるんでしょう? 経験のある人ばかりじゃないですよね? 俺みたいに、ぶっつけ本番の人っているんですか?」
     茨は、初めは馬鹿馬鹿しい、という感想を隠そうともしなかったが、どうやらジュンなりに真剣な悩みだと思ったのだろう、返答を考えたようだった。
    「まあ、アイドルにも経験豊富な人がいれば、未経験の人もいるでしょう。未成年の間はベッドシーンのある仕事は受けませんし、キスシーンでも先方には契約で細かく条件提示しています。どれだけ経験があっても、憧れの人が相手なら緊張するでしょうし。ジュンにとっての佐賀美陣みたいな相手とか」
    「佐賀美陣のくだり、いりませんよね?」
    「ですがジュンが悩んでいたなら、もっと早くに聞いておくべきでしたね。配慮が足りませんでした」
    「すみません。なんか、恥ずかしいというか、うまく言えなくて」
    「対人での練習の話で言うと、相手は限られます。コズプロ系列では交友関係の管理を厳しくしていますので、そもそも機会が少ないでしょう。しかし、玲明では演技の授業もあるはずでは?」
    「俺はコース選択を音楽にしてたんで、演技の授業はあんまり受けてなくて」
     玲明学園は陸の孤島のような場所にあるため、半ば外界との接点を奪われている。学園内での交際が珍しくもなかったのは、環境によるところも大きいだろう。
     とはいえ、ジュン自身の初年度は非特待生として奴隷のような生活だったし、日和に拾われてからは、アイドルとしての自分をその身に落とし込むことに必死だった。この一年ほどは、恋愛どころか、長年抱え込んできた鬱屈を解消できたことで心がいっぱいで、その他のことに心を砕く余地もなかったのだ。
    「心配なのでしたら、演技指導のコーチを選定しましょうか?」
    「いや、さすがに、あまり知らない人を相手に練習するのが恥ずかしいんで、それを茨に相談したくて」
    「そうですか。しかし、今から恋人を作ったり、接待を含むサービス業のお店で練習されるのは困りますね。個人の意志は尊重するつもりですが、ゴシップは避けたいので」
    「ええ、Edenに迷惑をかけたくもねえですし。それで……その、茨に、練習相手になってもらえないかと思って」
     ようやく絞り出して茨の様子を確認すると、彼は大きな瞳をさらに見開いていた。まあそれはそうだろう。ジュンも、初めからこの結論に辿り着いたわけではない。有名監督の映画の打診があり、喜んで台本を受け取ってから、よくよく考えてようやく事の重大さに気がついたのだ。だから、熟考の末に茨に頼むことを決めたのは、ここ数日のことだった。
    「あのー……自分が、ですか? ジュンの、キスシーンの、相手役を?」
    「相手役というか、練習を……。場所が限られるし、なかなか言い出せなかったんですけど、他に頼める人もいなくて」
    「ああ! おかしいと思いました。まさか、それでホテルまでついてきたんですか?」
    「すみません……。寮やESよりは人目につかないかと思って」
     茨は、大きな大きなため息を零した。それから、ブツブツといいながらパソコンを開き、検索して何やら真剣に検討し始めたので、ジュンはいたたまれなくて他に視線を向けた。
     部屋には小さなキッチンとミニバーがあるようなので、冷蔵庫の扉を開けてみた。中には、さまざまなソフトドリンクが用意されている。
    「ねえ、茨。これって、全部ウェルカムドリンクですか?」
    「ああ、そうかもしれませんね」
     返事がおざなりなのは、まだ思考に集中しているからだ。茨にはよくあることなので、今のところはそっとしておく。
     冷蔵庫には各種ソフトドリンクが並んでいる。宿泊するのが未成年二人だったからか、アルコールは置いていないようだ。
    「どれでも飲んで良いんですか?」
    「構いませんよ。そちらはおそらく無料ですが、滞在中の飲食は経費で落とします。たまにはいいもの食べてもバチは当たらないでしょう。ジュンも自分もよく働いてますしね」
    「え、マジですか? うわあ、太ッ腹ですねえ!」
    「ジュン、今日一番の笑顔じゃないですか? 自分、今ジュンの悩み事について真面目に検討している最中なんですが」
    「あっいやいや、すみません。悩んでるのは本当です。えっと、茨も何か飲みません?」
     茨の不機嫌を誤魔化すために、飲み物を提案してみることにした。水、コーヒー、炭酸飲料、健康飲料、様々な種類が所狭しと並んでいる。
    「あ、これうまそう」
    「自分はブラックか水でも……おい、なんだその赤いの」
    「え? 何のジュースかはわからないんですけど。イチゴみたいで美味しそうじゃありません? これにしましょうよ」
     ジュンは、真っ赤な液体の入ったボトルとグラスを手にしてにっこり笑った。
    「人に出す前に、何味かぐらい確かめてくださいね!」
    「なんか、ラベルが英語みたいなんですけど、読めないんですよね」
     他はよく見るパッケージなのに、このジュースのシリーズだけ瓶入りだから、ホテルの一押しブランドなのだろう。ミニバーに備え付けられた氷を足してグラスに注いだ。
    「はい、どうぞ」
    「はいはい、ありがとうございます。水でいいのに……」
     後でコーヒーでもいれよう、とかなんとかぶつぶつ言いながら、茨は赤く煌めく液体を受け取った。
    「水もコーヒーもありますけど、たまにはいいでしょう? オーガニックって書いてるし」
    「オーガニックで世界中が健康になるわけじゃありませんよ」
     茨は、グラスたっぷりの綺麗な赤に口をつけて、軽く一口含んだ。ワインみたいに見えなくもないけれど、しっかりノンアルコールだ。
    「どうです?」
    「あー、美味しいですよ。見た目ほどは甘ったるくありませんね。あまり飲んだことのない味ですが」
     茨はボトルを掲げて、英字で書かれた説明書きを読んでいる。きっと、学校の成績も良いのだろう。一体いつ勉強しているのか、想像もつかないけれど。
    「Pomegranate……ザクロですか。意外と自分達にぴったりなんじゃないですか」
    「ザクロが? なんでですか?」
    「エデンの園の知恵の実は、ザクロだったという説もあるじゃないですか」
    「へえ、じゃあ俺も飲みます。なんか身体に良さそう」
     ジュンもグラスにダバダバと入れて、半分くらい一気に飲み干した。確かに甘いし、少し変わった苦味もあるけれど、結構美味しい。もう少し飲もうかな、と口をつけたところで、茨がさらに蘊蓄を重ねた。
    「仏教では、釈迦が訶梨帝母にザクロを与え、人の子のかわりにその実を食べよと戒めたなんていう説話がありましてね。だからザクロは人肉の味という俗説が」
    「うえっ。何で飲んでる時にそんな話するんですかぁ」
    「読書家のジュンならご存知かと思いましたよ」
    「嫌がらせっすか〜、俺が余計な頼みごとしたから……」
    「いやいや、ジュンがふざけたジュースを注いできたからじゃないですか。まあ美味しかったですけど」
    「真面目に悩んでたんですよ、資料もらってから。ファンにも結構重大なことだろうし、ショックを受ける人もいるだろうから、せめて無様な姿は見せたくないし」
    「ええ、もちろん理解しています。ですが、自分もあまりキスの経験がないので、どうしたものかと思いましてね」
    「えっ、そうなんですか? 茨も?」
     なんとなく、茨は偉そうなので大人の世界を知っていそうだと勝手に思っていたジュンは、急に仲間が現れて少し嬉しくなった。
    「ご期待に添えずで申し訳ありませんが、自分にはいわゆる『カウントしない』程度の経験しかありません。ですので、練習するのであれば、俳優の諸先輩に頼むのが妥当かと。ただまあジュンの場合、初々しさも監督の狙いのひとつのような気がするので、場慣れしてしまうのもいかがなものかと思うのですが」
     映像における正解の見せ方は、撮影に入れば演出がつく。ジュンがキスに慣れていては、おとなしい主人公と硬派な高校生との恋愛の演出に物言いがつきそうだという。言い分はもっともで、だからこそジュンが選ばれたのだろうし、ある意味ではジュンを指名した監督の見る目に間違いはなかったとも言える。
    「そういうもんですか……? でも俺、キスシーンへの慣れ以前に、状況に対する耐性をつけておきたいんです。撮影で緊張して震えたりしたら、恥ずかしいんで」
    「まあ、わからなくもないですが。恋愛経験において、ジュンはまだスタート地点にいるということですね」
    「馬鹿にしてません? 茨もでしょ!」
     茨に恋愛経験があるのかないのか、聞いたことがないからわからない。あっても驚かないし、茨はジュンより余程激情家だが、恋愛のようなウエットな感情を意識して排除している節がある。
     高校生にして既にいくつもの企業を運営する優秀なビジネスマンで、一足先に社会を見ている茨は頼り甲斐もある。表面ばかりのおべんちゃらはマシンガンのように乱れ打ちするし、ビジネスの人脈はいくつあってもいいと思っていそうなのに、親密な人間関係はほとんどない。これで案外かわいいところもあって、日に日に人間らしい愛嬌を開花させてもいるのだけれど、それはまた別の話だ。
     乏しい印象のある恋愛経験に対して、性体験は、なんとなくあるんじゃないかという気がしていた。直接聞いたことはないので、単なる勘なのだけれど。
    「なんですか、その生ぬるい目は」
    「なんでもないっす」
     他人の視線に敏感な茨に睨めつけられて、ジュンは黙ってグラスを乾した。
    「ジュンと面識のある、口の堅そうな女性……『プロデューサー』殿でしょうか」
    「頼めばつきあってくれるかもしれませんけど、つきあう義理がないでしょう。あの人、演者じゃないですし。さすがに申し訳ないですよ」
    「自分にも申し訳ないと思いませんか」
    「茨なら、ほら、気心が知れてますし。アイドルだし。上役だし」
     茨は少し嬉しそうな顔で「そうです。偉いんです。わかってるなら気を遣ってください」と言った。
    「しかし、関係性を構築できていないお相手との練習は、Edenのプロデュースを担う者として現時点では賛成しかねますし、そういう意味でジュンが直接頼める相手は限られますね。日和殿下あたりなら、機嫌がよければつきあっていただけそうではありますが」
    「いやいや。仮に練習するとして、茨なら、おひいさんやナギ先輩に頼みます?」
     一考してのち、それはない、と茨は小さく首を振った。どういう感情なのかは読み取れなかったが、ないというところだけは同感だった。
     日和は社交界にも出入りするようなお家柄で、女子校にも知人がいるようだ。恋や愛は漫画で読むものだったジュンとは恋愛観が違うのも仕方がない。それでいて理想の高いところがあるので、一度好きなタイプとか聞いてみてもいいかもしれない。
     凪砂や茨もきっと、ジュンとはまったく違うバックグラウンドを持っている。ジュンには想像もつかない経験をしている可能性はあるが、メンバーの中では一番ジュンに近そうな気がするのが茨だ。知人や仲の良いアイドルもいるにはいるが、茨が一番気安く頼みやすい相手であることには違いない。
     うーむ、としばらく二人で考えた後、仕方ないですね、と茨が折れた。
    「まあ確かに、我らは互いにとって都合のいい練習相手なのでしょうから」
    「でしょ? あーよかった。茨がうんと言ってくれなかったら、マジでおひいさんに頼むか悩んでたんですよ。でも、あの人も別に慣れてそうな感じはしないというか……」
     茨はフハッと吹きだして、意地悪そうな瞳をジュンに向けた。
    「概ねふし穴のくせに、妙に勘のいいところがあるから不思議ですね。野性の勘というか」
    「なんですか?」
    「いえ、なんでも。先程の言葉、殿下には内密にして差し上げます。では、練習は夜に。こちらの仕事が落ち着いたら食事にしましょう。ジュンはそれまでご自由に」
    「了解っす。よろしくお願いします」
     話がまとまってジュンは茨に深く頭を下げた。
     最近、いつ切り出すか迷っていたので、ホテルに来てから口に出すまで気が気ではなかったのだ。茨に断られること自体は大したダメージではないが、その後どうするかを考えると気が重かった。
     これで、やっと前進することができそうだ。
     

        *


     風呂上がりで髪を乾かした茨は、眼鏡も外してソファに腰掛けていた。部屋はもうルームランプの灯を落とし、間接照明だけをつけているので、高層からの夜景が、逆に部屋を照らし出している。
    「事務所よりもだいぶ高層ですねえ」
    「コズプロは十八階ですからね」
    「ESビルの周りは自然が多いから走りやすくていいんですけど、中心地はやっぱり夜景がいいっすね」
     ソファに座って新聞に軽く目を通していた茨は、新聞を読み終わったのか、きちんと畳んでテーブルに置いた。その隙を見て、「茨」と呼んでみた。
    「なんです?」
     振り返った瞬間に、茨の白い頬にジュンの唇が触れた。お互いの位置確認に気を取られて、目を見開いたままだ。それからハッとして、瞼を半分まで下げた茨は、手元の眼鏡を掛け直した。
    「奇襲ですか」
    「奇襲って……。サプライズって言ってくださいよ。ねえ、ドキドキしました?」
    「少しは驚きましたけど、相手がジュンですし、喜びなどはありませんよね」
    「辛辣っすねえ。自分でもそう思いますけど。夕飯からだいぶ経ったんで、そろそろ大丈夫かなと思ったんですよ」
    「ニンニクも我慢しましたしね。ジュンの気分はどうです?」
    「うーん、確かに緊張はしてるんですけど、淡い恋愛の雰囲気が出せるかっつうと疑問です」
    「我々二人で、純愛もののカップルの雰囲気を出すほうが難しいでしょう。手っ取り早く、ベッドで抱き合ってみます?」
    「え、キスシーンの練習なのに? そんなことしていいんですか?」
    「冗談ですよ」
     焦りかけたジュンをよそに茨は、あはっ、と楽しそうに笑った。多分、先ほどジュンに不意を突かれた意趣返しだ。群雄割拠の芸能界において、負けず嫌いは資質のひとつだ。茨もジュンも、その性質はかなり強い方だと思う。
    「まあ乗りかかった船ですので付き合いますよ、自分にとっても訓練ですからね。お互い疲れも溜まっているでしょうし、ベッドで雰囲気を出すのは良いと思います。そのまま眠れますし」
    「うっす。茨がいいなら。俺ら二人だと、いつまでたっても、そういう空気になりにくそうだし……」
     言うが早いか、ジュンがひとつしかないベッドの布団に潜り込むと、バスローブ姿の茨もそれに続いた。
     茨ってバスローブ似合いますね、と言うと、そうでしょうかと嘯き、眼鏡を外してベッドサイドテーブルに置いた。茨はジュンより色が白く、足首も細い。よく見ると骨はそれほど細くはなく、筋肉は薄く綺麗にまとっている。アイドルと経営者の兼務は大変だろうに、余程効率の良いトレーニングをしているのだろう。
    「電気消します? 窓あいてるんで、真っ暗ではないですけど」
    「ああ、ロールカーテンも閉めてください」
    「真っ暗ですけど大丈夫ですか?」
    「撮られると困りますしね。死ぬほどめんどくさいことになりますよ。ある意味、他の相手よりは楽かもしれませんが」
    「うっわ、こんな高層でもそんな心配してるんですね」
    「最近はきなくさい事も多いですからね」
     手にしていたスマートフォンも充電器に繋いで、ベッドサイドの小さな灯りを消灯した。
     顔が見えると恥ずかしいので照明を消したのだが、なんだかんだ言って茨相手といっても緊張していて、黙っていると鼓動が口から飛び出しそうになる。ベッドに並んで入ると、どちらからともなく向き合って、そのままハグの態勢になった。顔を見なければ緊張が紛れる。
    「茨、バスローブのまま寝るんですか?」
    「着替えるのが面倒で。あとで脱ぐつもりですが」
    「茨って、バスローブ着慣れてません? 俺、慣れてなくて。足下がスースーするし、はだけるし、あんまり好きじゃないんですよね」
    「自分も別に好きで着ているわけではないですし、慣れてもいませんよ。一人だったら寝るとき下着以外つけたくないですし。今日は着替えがないから仕方なく。寮だと同室の奴らもいるからやっぱパジャマだけど、時々シャワー浴びてそのまま真っ裸で寝たくなる」
     ペラペラ喋ってはいるが、やや語尾が怪しい。
     普段の茨なら起きて働いている時間だろうが、おそらく昨日寝ていないので限界が近いのだろう。ジュンは普段ならそろそろ寝る時間だが、頼み事をした側である手前、先に寝るわけにもいかない。
    「茨は、眠くなるとそのモードに入りますねえ」
    「あー、はい。確かに眠いので、早く続き始めません?」
    「あっはい。じゃあ」
     欠伸をしながら目を瞬かせている茨を軽く抱き寄せ、思い切って唇を重ね合わせた。
     茨の唇は、柔らかくてしっとりと濡れていた。暗闇に慣れてきた目に、さすがはアイドルというべきだろうか、暗闇の中に浮かぶ茨の表情が恍惚としているように見える。いつもより近い距離に来ると、茨のにおいでいっぱいになる。
     なんだか鼓動が激しくて、落ち着かない。
     茨も緊張しているんだろうか、と体を強めに密着させてみたら、ビクンと反応した茨の体内で早鐘が鳴っているのがわかった。
     なんだ、とほんの少し安堵する。
     腕の中にあるのは、あたたかな血の巡る生き物だ。心音を感じながら抱き締めていると、茨がジュンの頬に擦り寄って、唇の端にチュ、と音を立てて軽く吸い付いた。
     そういうふうにすればいいのか。ジュンも茨を真似て、少しずつ角度を変えたり、唇の開き方を変えたりしながら、濡れた粘膜の感触を味わってみる。口を少し開くと茨も少し開いてくれて、温い舌が触れ合えば、互いに熱のこもった息がかかった。
    「ねえ、茨」
    「はい? 途中で話しかけないでください。集中できないので」
    「すみません。あの、俺、うまくやれてますか?」
    「そんなにうまくできているかどうか気にする必要ありません。事前に確認したところ、本番でも舌は入れない触れるだけのものと確認していますので、及第点はもらえるんじゃないですか。今日の目的は、場慣れすることなんでしょう?」
    「は、はい。その通りです、すみません」
     冷静な反応が返ってきて、少しガッカリした。語尾に「知らんけど」とついてきそうな辛辣さだ。触れた肌は熱を帯びて、少しずつ熱さを感じるようになったけれど、まだ茨は平常心を保っている。それがなぜだか悔しくて、少し強引なキスを再開した。今度は、もう少し息が上がるくらいに。
    「えっ、ジュ……」
     茨が開いた唇から歯を開いて、舌をねじ込んだ。中には熱いくらいの茨の舌がそこにあって、自分のそれとを絡めていく。
     薄暗い部屋の中で、茨の蒼い瞳がきらきらして見える。その目がこちらを睨んでいるように見えるのは、気のせいではないだろう。そうしているうち、視線は右往左往して、観念するように閉じられた。
    「はあ、あの、茨」
    「……なんです」
    「いや、舌入れるの、嫌でしたか」
    「別に。嫌なら噛みちぎってます」
     怖っ、と思わず零れた本音に、茨がジュンの頬を軽くつねる。
    「怒りませんよ。……訓練ですから」
    「ごめんなさい、事後報告で」
     今度は茨から、仕返しのように口づけてきた。
     もっと形式的な『訓練』になるかと思っていたのに、茨は初めからずっとジュンの拙いやり方にあわせてくれている。普段のおしゃべりクソメガネとは違って、言葉も格段に少ない。
     恋人同士じゃない。友達かどうかも怪しい。だけど、唇や舌、腕や肌から吐息から、普段なら絶対に言葉にしない指向性が垣間見える気がする。
     茨の呼吸に合わせて、反応で快楽の種を探る。初心者の二人には、キスのやりかたなどわからない。けれど、茨の肌が熱いから、もっと良い反応をする場所を探してみたくなる。
     口内を飽きるほど確かめていると、綺麗に並んだ歯の裏側をなぞられて、下腹部にぐっと血が集まるのを感じた。
     やられたらやり返す、を繰り返して、ますますヒートアップしてきたところで、本当にこのままだと多分まずい、というところまで高まってきてしまった。続けるかどうしようか迷っていると、茨はどうやら疲れてきたようで、くったりと体をジュンにあずけて、目を閉じている。いよいよ眠気に抗えなくなってきたようだ。
     気の抜けた寝顔が可愛らしかったので、なんとなく鼻先にキスしようとしてみたら、噛みつこうとしてきた。可愛いくせに凶暴だ。仕方ないので、閉じかけた瞼と頬に口付けを落とし、今度はそうっと唇へ、触れるだけのキスをした。
    「ねえ、ジュン」
    「何ですか?」
    「勃ってないです?」
    「う」
    「感じちゃいました? ねえ、自分のキス、そんなによかったですか?」
    「うううううるせーっすよ! 生理現象なんだからしょうがないでしょ!」
     くつくつと笑いを堪える茨は、ジュンの腕を弄びながら「実は、俺も」と言った。
    「え、……あ、マジだ」
     ぐい、と押しつけられた下半身が、硬くなっているのがわかる。服の上からとはいえ、他人のソレに初めて触れた。
    「キスって気持ちいいものだったんですね」
    「ほんと、漫画で読むのとはだいぶ違いました。茨は、前にもしたことあるって言ってませんでした?」
    「あー、冗談で無理矢理されたことあるってだけですよ。気持ちよくもなんともなかったし、キスなんて嫌いだった」
    「え、じゃあ今日、よく付き合ってくれましたね」
    「ああ、うん、まあ。でも今日上書きできた。キスって悪くないな」
    「よかったですねえ。俺のキスが上手かったからですね」
    「あー、昼間もじもじしながら『俺……キス、したことないんですよ』って打ち明けてきた時のジュンの悲壮な顔、撮っとけばよかった」
    「ひでえ」
     もうほとんど敬語が抜けているから、きっと茨は本当に眠そうだ。でもいつになく嬉しそうで、ジュンも嬉しくて、いつまでも会話をやめられずにいる。
     しかし、ジュンは朝の茨の顔を思い出して、そろそろ寝かせてやらないとな、と思い直した。名残を惜しみつつ、茨の耳元で囁いた。
    「ねえ、茨。ありがとうございました。撮影でも、今日のこと思い出したら頑張れそうな気がします」
    「……そう。よかったですね」
     楽しそうに笑っていた茨の笑顔が、何故か急に薄く曇った、ような気がした。
    「すみません、眠かったですよね。今日は付き合ってもらって、ありがとうございました」
    「……いえ。頑張ってくださいね」
     おやすみなさい、茨。
     既に午前二時を回っている。
     ジュンもそろそろ寝よう、と寝落ちた茨の肩から布団を掛けようとすると、暗闇の中から、今度は茨がジュンの耳元で囁いてくる。
    「ジュン」
    「な、なんですか茨。寝たのかと思……」
    「……もっとしたかった」
    「え? 今なんて」
     茨の声はやけにはっきりしていたと思ったのに、茨の顔を覗き込むと、ジュンの動揺をよそにそれはそれは安らかな寝息をたてていた。

     
     もっと、か。

     次の『訓練』はあまり遠くない未来に決行しよう。そう心に決めると、ジュンはベッドを降りて、茨を起こさないようにそっとバスルームに向かった。
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    Replies from the creator

    ogata

    DONE20230924 ジュン茨新刊(全年齢・文庫・P32・しおりつき ¥300)の全文です。
    『kiss,kiss,kiss, 』の続きにあたります。
    二人がホテルに泊まった日、茨がみた夢の話です。
    夢なので、捏造設定を大いに含む妄想短編のようなものです。
    (ifアイドルじゃなかったパロ・ジュン茨両片思い同居)
    夢なので、話が断片的でまとまりなくぽんぽん飛びます。悲恋注意報発令中。
    Paradigm Shift    * * * *


    「ねえ茨、まだ寝るんですかぁ?」
     額にツンツンという感触を感じて目が覚めた。
     ブラインドの細い隙間からこぼれる朝の光を背に、金の大きな双眸が茨を捉えている。もう一度目を閉じると、どうしようもなく大きな欠伸があふれた。
    「……何時ですか」
    「あ、起きましたね。朝の七時です。ブラインド開けますよぉ」
     言うか言わないかの間に、眩しい光が寝室に差し込んでくる。
     ジュンはTシャツに短パンのラフな姿で、すでに出かける準備を済ませていた。
    「朝ラン行こうって約束したでしょう。忘れてました?」
     眼鏡を掛け、見慣れた景色が視覚に入ると、脳は倍速で覚醒を始める。
    「ええ、忘れてませんよ。ですが、家を出るまでにはもう少し時間があるでしょう。十分間に合います、大丈夫です」
    11179

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    ・中夜

    DONEジュン茨ワンライ【ドレスアップ】

    王道クリスマスに浮かれるジュンくんと、同じく王道クリスマスに浮かれる茨さんの話。


    ※茨さんはアイドルじゃないときもメンズメイクをすることがあると思っています。顔面が効きそうな商談とか、何かの催し物にお呼ばれしたときとか…。なぜなら目的のためなら手段を選ばない人だから。
    雪に咲く華の、それはそれは朱きこと 綺麗な姿はいつも見ている。
     ファンデーションの上からまた何かの粉を叩いて普段からスベスベしている肌をより一層煌めかせ、目元にはジャケットに合わせたほんのりの青と、大きな瞳を引き締めるさりげないグレー。ばさばさ音を立てそうな睫毛は軽く流れを整えるだけでクルンと天を向き、仕上げにリップクリームをん〜ま…っと塗り込めば光の粒がぷるぷる弾けた。
    「……で? さっきからなんなんですか。鬱陶しい」
    「え〜。や、綺麗だなー…って」
    「は?」
    「なんでキレるんすか……」
    「いえ別に怒ってはいませんけど」
    「えぇ……。それにしちゃあ言葉の圧が強いっすよぉ〜?」
     共演者の女の人が持ち歩いているものよりはだいぶ小さなメイクポーチ、ポーチというよりは小銭入れにも見えるサイズのそれをポイッとハンドバッグに放り込んで、着込んだコートのボタンを留めながら茨は片眉を持ち上げた。
    1857

    ・中夜

    DONEHAPPY JUNIBA DAY!

    茨さんほとんど出てこない同棲ジば。
    掃除洗濯をしたのは昨日なのにシーツを替えたのは今朝、が本作のポイントです。
    日々は続くから(やっぱり帰って来なかったな……)
     ヘッドボードの明かりを消した後も手放せないでいるスマホを開いて、閉じて、もう何十回も目にしたデジタル時計の時刻にため息をついた。うつ伏せに押し潰している枕へ顔を埋め、意味もなくウンヌン唸ってみる。けれど、どれだけ待ってみたってオレの右手が微かなバイブを告げることはないし、煌々と現れたロック画面の通知に眩しく目を眇めることもない。残り数分で日付を跨ごうかというこの時間に誰からも連絡が来ないなんて、当たり前の話ではあるんだろうけど。その一般的には非常識とも言える連絡を、オレはかれこれ2時間もソワソワと期待してしまっているのだった。
    「……茨」
     待ち侘びている方が馬鹿げてるのはわかっている。そもそも今日は帰れないって、だから昨日の内にお祝いしておきましょうって。端からそういう話だったのだ。帰れない今日の代わりに、茨はオレの好きなメニューを沢山夕飯に出してくれたし、オレだって茨が朝から料理に集中できるように洗濯から何からその他すべての雑事をせっせと片付けた。夕方普段より早めのご馳走に、2人で作った苺タルトも平らげて、余った料理も1粒も無くなったお皿も仲良く片付けた後ソファーに並んで触れ合って……昨日まで、ううん、ついさっき。風呂から上がってベッドに入るまで、本当になんの不満もなかったはずなのに。
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