Paradigm Shift * * * *
「ねえ茨、まだ寝るんですかぁ?」
額にツンツンという感触を感じて目が覚めた。
ブラインドの細い隙間からこぼれる朝の光を背に、金の大きな双眸が茨を捉えている。もう一度目を閉じると、どうしようもなく大きな欠伸があふれた。
「……何時ですか」
「あ、起きましたね。朝の七時です。ブラインド開けますよぉ」
言うか言わないかの間に、眩しい光が寝室に差し込んでくる。
ジュンはTシャツに短パンのラフな姿で、すでに出かける準備を済ませていた。
「朝ラン行こうって約束したでしょう。忘れてました?」
眼鏡を掛け、見慣れた景色が視覚に入ると、脳は倍速で覚醒を始める。
「ええ、忘れてませんよ。ですが、家を出るまでにはもう少し時間があるでしょう。十分間に合います、大丈夫です」
「本当ですか? ま、あんたは出かける準備、異様に早いですけどねぇ」
「朝は常に時間との戦いですからね」と、寝不足の頭を振ってもう一度大きく欠伸をすると、ジュンは「だから昨日、早く寝てくださいって言ったんですよ」と笑みをこぼした。
「十五分で準備しますので、お待ちください」
「了解っす」
もともと、仲が良かったわけではなかった。敬語同士なのは互いの習慣によるものだが、出会った頃はもっとよそよそしく、あるいは刺々しかったという者もいるだろう。もっと言えば、当時の茨に近づいてくるのは、大抵損得勘定が得意な者だった。だから、初めてジュンを紹介された時には随分警戒したものだ。
「お待たせしました」
「早っ。え、マジで顔洗いました?」
「洗いましたよ。だから、大丈夫と言ったでしょう」
寮で同室だった先輩が卒業してから、ジュンは時折、暇ができると茨に連絡してくるようになった。高校で先輩とべったり過ごした時間が空いて、多少の時間ができたためだろう。そうは言っても相変わらず振り回されていることには変わりないから、茨とジュンが二人で過ごす時間はそれほど多くはない。
それでも、オフの時間を使って、買い物に出たり、映画を観たり、他愛ない話をしたりするようになった。
同居を提案したのはどちらが先だったか。確か二人で家飲みしている時に、どちらからということはなく、一緒に部屋を借りれば生活費を抑えられて、連絡を取る手間が省けて楽だという話になったのだ。
それぞれ、高校以前に共同生活を経験していたので、お互い他人と暮らすことにはそれほど抵抗がなかった。話の流れで茨が適当な部屋をピックアップし、それを二人で吟味して、駅から歩いて十分ほどの2DKに住み始めて現在に至っている。
「茨、最近また忙しそうですよねえ。ちゃんとメシ食ってます?」
「ご心配は有り難いですが、体調はいいので問題ありません。近頃は平日になかなか一緒に食事をとる機会がありませんが、ジュンこそ大丈夫なんですか?」
「社員食堂とか使えばヘルシーなメシが食えるんですけど、夜はやっぱラーメンとかガッツリしたもんを食いたくなっちまうんすよねえ。今日はちゃんと野菜とか食おうと思って、昨日買ってきたんですよ」
「自分はまだ起きたばかりですし、コーヒーでもあればいいんですが」
「いつも栄養補助食品ばっかなんでしょ。運動後は良質のたんぱく質を摂ってください」
「ジュン、最近口煩いですね?」
「誰に似てきたんですかねぇ?」
話せる程度のスピードで一時間ほど走りながら、最近仕事であった笑い話、うまかった店、面白かった動画の配信主。そういう他愛ないことを話しながら、まだ自宅に戻ってきた。
個々に走るよりも、あっという間に時間が過ぎてしまう。
ランニングから部屋に戻ると、二人で手分けして朝食の準備をを始めた。
「トーストでいいっすよね」
「ええ、あと目玉焼きでいいですかね。卵が4つあるので焼いてしまいましょう」
「あ、じゃあオムレツにしてもいいですか? タマネギとベーコン入れたやつ」
「承知しました。オムレツとサラダはこちらでやりますので、ジュンはコーヒーとフルーツお願いします」
「了解です」
朝は大体トーストで、おかずは目玉焼きとフルーツに、あれば前日の残りものが多い。多忙な茨は夜遅くまでの会食の機会も多いため、家事をするのはジュンであることが多い。生活費は茨が多めに出して、何となくバランスをとっている。
とはいえ、茨は料理も家事も一通りできるので、たまにジュンが仕事で茨が休みの日には、普段手が回らない場所を含めた部屋全体がピカピカになっていて、冷蔵庫の中にこれでもかと作り置きのおかずタッパーが積まれていたりする。
「オムレツ久しぶりですねえ」
「嬉しそうですね。好きでしたっけ?」
「休日の朝から、作ってもらったオムレツ食うのが嬉しいんですよ。ホテルの朝食とかでも、ビュッフェの会場で好みの具材聞いて焼いてくれるやつあるじゃないですか、あれ絶対並びたくなる」
「そういうものですか」
できあがったオムレツやサラダ、コーヒーなどを小さなダイニングテーブルに並べていく。普段はフルーツといってもバナナを食べるくらいのものだが、昨日たまたまスーパーで買い物をしたので、他にも果物を買ってあったのだ。
「今回は随分、珍しい果物を買ったんですね」
「あ、そうなんですよ。りんごとザクロ買ってみました。ザクロって初めて見たかもしれないです」
「そういえば、あまりスーパーで見かけたことがありませんでしたね。海外ではカゴに盛って売っているのを見かけたことがありますが」
「疲労回復にいいって書いてました。茨によさそうと思って。まあ、食費は茨がかなり多めに入れてくれてるんで、実質茨の金ですけど」
「いえいえ、嬉しいです。今日はヨーグルトもあるので、こちらに乗せてみましょう」
無糖のヨーグルトに、赤い粒をかきだして乗せると、随分デザートらしくなった。
「あ、うまそうっすね」
「じゃあ、パンも焼けましたし、いただきましょうか」
二人で手を合わせて「いただきます」と声を揃えると、茨はヨーグルトにかかったザクロを、ジュンは楽しみにしていたオムレツを口にした。
「へえ、おいしいですね」
「オムレツもうまいっすよ。茨、何でも作れますよねえ」
「何でもというわけではありませんが。このザクロも結構おいしいです。珍しい味ですね」
「ザクロって、見た目は何かちょっとグロいですけどね」
「そういえば仏教では、釈迦が訶梨帝母にザクロを与え、人の子のかわりにその実を食べよと戒めたなんていう説話がありましてね。だからザクロは人肉の味という俗説が」
「いや、今から食べるんでやめてもらえます?」
あはは、と声を合わせて破顔した。
ジュンと話していると、前にもこんな話をした気がするな、という既視感がある。
だから、初対面であれほど警戒していたにも関わらず、こんな風に仲良くなれたのかもしれない。友人の少ない茨にとって、同い年の気安い友人は貴重な存在だった。
「オレ、茨となら一生一緒に暮らしていけそうな気がするんですよねぇ」
「何ですって? トチ狂ったんですか?」
「だって、頭いいし、仕事できるし、家事もできるし、料理上手いし、話してて楽だし。結婚のことなんかあまり考えたことないですけど、茨が一緒なら何も怖くない気がしますよ」
「おや、随分高評価ですね? 自分には、一般的な価値観でいうところの長所を覆してあまりある短所がありますので、優良とは程遠い物件かと思いますがね」
「えっ、もしかしてオレの知らないところで遊んでたりするんですか」
「遊んでいませんよ! これでも結構忙しいんです」
「知ってます。最近よく眉間に皺寄せて寝てるから、見かけたら伸ばしてあげてるんですよ」
「それは……自分も知らなかったですね……」
唐突な話題に、少なからず驚いた。相手によっては、それは告白かプロポーズと呼ばれる台詞ではないだろうか。だが、それをうまく茶化せるほど、茨はこういう類の話をしたことがなかった。結婚願望はなく、もっと言えば恋愛ですら、避けて通っている人生だ。ジュンともよく話してはいるが、そういう話題で盛り上がることはないから、同じようなものなのだと勝手に思い込んでいたのかもしれない。
茨にこのような軽口を話すくらいだから、普段から同僚や友人との話題に出てくるか、もしくは最近考えたことがあるということだろうか。茨と一生暮らせると言うくらいだから、今のところ、誰かと付き合っているということはなさそうだが。
「もし、どなたかとお付き合いをされるなどの理由で同居を解消するのであれば、一ヶ月前には教えてくださいね。いろいろ、準備などもありますので」
「え、そんな予定ないですよ」
「今すぐの話ではないですよ。そういうことがあったらという話です」
「ないです、ないです。ってか、茨こそオレを捨てる前に言ってくださいよぉ」
「捨てるって。そんなことしませんがね」
早くに両親を失った茨は夢物語を信じられる子供ではなかったので、今更そんな兆しなど、欲しくはなかったのだけれど。
* * * *
『先に出ます』
「いや、最近いつもそうですよね。別に構いませんよ。自分もすぐに出かけますので」
簡素な一言だけが書き残されているメモを手にしながら、 誰が聞いているわけでもないのに、返事が口から出てしまった。
最近は、この部屋にいる時は一人の方が多いため、つい独り言がこぼれてしまう。
そういえばしばらく前、久しぶりに会った幼馴染に「独り言が減りましたね」と言われた。言われてみたらそうなのかな、と、その時はさして気にも止めなかったのだけれど、考えてみると、最近また増えたように思う。
顔を洗って歯を磨き、素早く服を見繕う。といっても、セットで同じものをいくつか持っている、制服のように着ているスーツだ。私服OKの職場なので、たまにはカジュアルを着ないのかと言われるのだが、ほとんど毎日出社して仕事をしているのに、スーツ以外を準備する必要はない。
ジュンとはいつからか、二人の会話がかみ合わなくなって、週末の食事も別々に摂ることが増えた。元々お互いの生活リズムが違うから、時間を合わせるのが難しくなったのもある。
コミュニケーションの機会が減ると、ジュンが何を考えているのかわからなくなった。たまに話せば、ジュンの口から出てくる人間関係の後ろに、顔がひとつも見えなかった。
二人で過ごした日々はとても楽しく、くだらないことの連続で、思い返せばジュンも茨もいつも笑っている。たまには機嫌を損ねることもあったけれど、基本的には穏やかな性質のジュンの側は、居心地がよかった。
けれど、近頃は口を開けば些細なことで言い争いをする。あまり怒ることのなかったジュンの機嫌を損ねることが増えた。嫌いなわけではないのに、言い争うたびに目の前の感情を取り繕えなくなり、話し合いが破綻してしまう。
期待が大きすぎるのか、距離が近すぎるのか。どちらにしろ、茨にとってそれは初めての経験だった。遠い昔、幼馴染との子供らしい喧嘩の経験の記憶はあっても、茨にとってのそれは大抵強者への反抗心に始まるものだった。
喧嘩の仕方も仲直りの方法も、何も知らなかった。
ぶつかることにも疲れて、いつからか会話がなくなってしまった。いわゆる、倦怠期のようなものだろうかと想像する。
以前も今も、ジュンと交際していたわけでもないので、二人の間柄は純然たる友人であり同居人ではあるのだけれど、一時はまるで本当に付き合っているかのような錯覚を起こしそうなくらい、お互いがお互いを思っていることを感じていた。
こんな時間が続けば良いのに、と思っていた頃のことが、今はうまく思い出せない。
それならそれで、と、ポケットからスマートフォンを取り出した。
思い立ったが吉日、という言葉がある。勢いで決めたり流されたりするのは苦手なのだけれど、いつまでも思い悩むことも性に合わない。互いにとってベストの選択肢が目の前にありながら、先延ばしにするのもまた然りだ。
ボタンひとつで遠くの人とも会話ができる便利な道具が手元にありながら、声を聞く機会も随分減ったことを思った。
通話画面に出てくるジュンのアイコンは、学生の頃、先輩と一緒に飼っていた犬の写真だ。
『はい、漣です』
「すみません、今大丈夫ですか?」
『え? あー、まあいいっすよ。何かありましたか』
『あの……もし予定がなければ、今晩、どこかで食事しませんか」
話したいことがある、と言おうと思っていたはずが、もう手っ取り早く電話で済ませようと思ったはずが、声を聞いたら先延ばしする言葉が出てきてしまう。優柔不断のつもりはないのに、心を決めかねている自分に気づかされる。
『ふうん……いいっすよ。八時頃にはあがりますんで』
一拍おいてジュンが答えた。ジュンは基本的に善良だが、要求は言わないと気づいてくれないことが多い。茨の決意のかけらを察したかどうか、正直なところわからなかった。
「何か食べたいものがあれば、予約しますが」
『そうっすねえ……あー、オムレツとか』
「オムレツ?」
『前に、茨が作ってくれたことあったでしょう。ああいうの食いたいです。夕食なんで、オムライスでもいいっすね』
「ああ……随分前に、作ったことがありましたね」
当時はまだ週末にまで家に帰れないほど忙しくはなくて、ジュンと一緒に朝のランニングをしていた頃もあった。
「わかりました。それでしたら、今晩は自宅で食べることにしましょう。自分の方が早くあがれるでしょうから、作って待っています」
『えっ、いいんですか?』
「久しぶりですので、うまくできるかわかりませんが」
『ありがとうございます、嬉しいです。茨の料理って久しぶりっすね。じゃあ、お願いします』
そう言って電話を切ってすぐ、また茨の携帯の呼び出し音が鳴った。
「どうしました?」
うっかりジュンだと思った電話は、取引先からのものだった。呼び出し音もジュンと仕事用では変えているのに、そんなことにも気づかなかった。部下の仕事に不備があったという、至急の用件だった。
定時には仕事を終えて買い物に出かけようと思っていたのに、ついていない。やっとまともに話をできる機会ができそうだったのに、これでは自分から持ちかけた約束を反故にしてしまう可能性がある。
申し訳ないが、ギリギリに言うよりは早めにリカバリしたほうがいくらかマシだ。苦渋の決断で、ジュンにメッセージを送信する。
『こちらから誘っておいて申し訳ないのですが、今晩、突然仕事が入ってしまいました。社内でミスがあったようです。一緒に食事を摂る日程を変更させてもらえませんか』
ジュンから返事があったのは、夕方になってからだった。すぐに電話に出られるとは限らないので、それ自体は仕方がない。もし、茨と同じように、それなりに楽しみにしていてくれたのだとしたら、申し訳ないと思った。謝罪行脚で取引先から事務所に戻りながら、早足でメッセージを確認する。
『残念ですけど、茨は忙しいでしょうし、大丈夫です。適当に飲んで帰るんで、遅くなると思います』
思いやりの言葉の中に、厳然たる拒否を感じて立ち止まった。
多分、これまでにも、幾度となく頼んだ休日のリスケジュール。考えてみれば、いい大人が一緒に住みながら休日の予定を合わせて出かけたり、一緒に食事をしたり、同じ仕事でもないのにそこまで予定を合わせるなんて、努力なしにいつまでもできるはずがない。
絶え間なく努力を重ねることはできるだろう。どちらかが折れることもできるだろう。けれど友人と言うには距離が近すぎると言わざるを得ないだろう。
そういう関係を望み、うまくいかずに絶たれたとしても、それは仕方のないことなのかもしれない。ジュンとの関係のために絶え間ない努力を積み重ねるには、茨は茨の人生に、すべてをかけ過ぎていた。
『茨も無理しないでくださいね』
「ありがとうございます。また連絡します」
もうそこまできている岐路に、傷つかないふりをするので精一杯だった。
* * * *
瞼を薄く開くと、目尻から雫が耳元に向かって流れ落ちた。
夢をみていたのだろうか。
視界に広がっているのは、世界から閉ざされたような、静けさに包まれた部屋だった。
ここは、どこだったか。寝起きの頭のまま真横を向くと、見慣れた景色よりもかなり広いベッドに眠っていた。ひとつ欠伸をすると、ジュンの使っているフレグランスがほのかに漂っている。そういえば、ジュンは香りの強いものが苦手なのだが、汗をかくことは多いので、軽い香りの残るシャワーコロンを使うことにしたと話していたことを思い出す。
体勢を変えて、隣で眠っているジュンの顔を眺めてみた。真っ暗で表情はあまりわからないが、ジュンの寝姿はロケ先や仮眠などで何度も見ているので想像がつく。目が暗闇に慣れてくると、尖った鼻先や長い睫毛が、次第に輪郭を表した。ジュンの顔を眺めていると、眠る前に起こった出来事について思い出してきた。
今日、茨はジュンとキスをしたのだ。
ロマンもへったくれもない、ただの練習だったが。
もうすぐ映画に出演するジュンに頼まれ、キスの演技を練習をするつもりだった。
ジュンが出演する映画のシナリオのうち、ジュンのキスシーンはほとんど初めの方で少し出てくるだけだ。主題は、ジュンのキスシーンの相手役と、主役の俳優の悲恋話だった。出会いから同居、蜜月を経て、そのうち二人は破局を迎える。茨は恋愛映画にまったく興味がなかったので、一応話の筋だけは見ておこうと思ったのだ。
キスシーンの練習の成果はというと、お互いの経験不足が否めないものとなった。どうにも加減がわからない、ぶつかり稽古だ。
でもまあ、悪くはなかった。「キスって本当に気持ちいいんだ」ということがわかったし、ジュンはキスの時にも何だか一生懸命で、少し可愛らしくもあった。始めは多分、どうしていいのかわからなくてオタオタしていたようだったのに、すぐにコツを掴んで舌を入れてきたことには、何となく腹が立ったが。
眠っているジュンは、ホテルに備え付けのパジャマをきちんと着ていた。それに引き換え、茨は風呂上がりのバスローブが半分脱げて、はしたなくはだけている。ジュンと話しながら、先に眠ってしまったのだろう。それでも布団を被っていたのは、寝落ちした後でジュンが掛けてくれたのかもしれない。
茨の五感はかなり敏感で、しばらく前にそこにいた人がわかったり、洗濯に使った洗剤を当てたり、人の足音を聞き分けたりという程度の、他愛ない特技がある。
だからこそ、人工的に作られた香りはやはり苦手だ。上等な香りの芸術より饐えた汗や血の臭いのほうが身近だったのだから、仕方がないとも言える。死ねば皆等しく腐臭を放つ生き物の臭いに、どれほどの興味が持てるだろうか。芸能事務所の副所長として、アイドルたちに身だしなみを指導する立場ゆえに、社会人として恥ずかしくない知識を身につけ、何とかそれらしい香りをまとうようになっただけだ。
茨自身の使う香水と、体臭と、ジュンのコロンと汗の臭い。
早朝の静寂、体内の拍動、寝息と吐息。
それらの作り出す空気が、否応なく、眠る前の記憶と結びついている。至近距離で嗅いだジュンの香りが、今日は茨をざわつかせる。
気持ちよさそうに眠っているジュンを横目に、羞恥とも後悔ともつかない焦燥に戸惑っていると、つい先程までみていたのであろう夢のことなど、もう思い出すことはできなかった。
*
額にツンツンという感触を感じて目が覚めた。
カーテンの隙間からこぼれる朝の光を背に、金の大きな双眸が茨を捉えている。もう一度目を閉じると、どうしようもなく大きな欠伸があふれた。
「……何時ですか」
「あ、起きましたね。朝の七時です。カーテン開けますよぉ」
眩しい朝日とその言葉に既視感を覚えながら、茨はゆっくりと瞼をひらいた。
「今日はホテルの朝食ついてるんですよね!」
「大体いつもついてますよ」
「腹減ったんでオムレツ食いたいんすよねえ。具材選んで、シェフがその場で作ってくれるやつあるかなあ」
まただ。いつだったか、ジュンとこんな会話をしたような、そうでもなかったような。
「ジュンって……オムレツ、好きでしたっけ」
「そうっすね、それなりに。トレーニングの時にゆで卵なんかも食いますけど、具が入ってるっていうのがテンションあがるんですよね。まあケチャップだけでもうまいんですけど」
「そうですか。では、今日のビュッフェにはジュンのだーい好きなオムレツがあるといいですねえ」
「今、馬鹿にしました?」
「わかりました?」
ジュンが鼻に皺をよせて威嚇してきたので、とびきりのアイドルスマイルで返してみたら、手を叩いて爆笑された。
「茨、リアクションがバラエティ慣れしてきましたね」
「そんなわけないでしょう。バラエティの使い方はわかってきましたが、自分、面白いと評されることはあまりありませんので」
「いやあ、ご謙遜を。ナギ先輩とかおひいさんとかとはまた違いますけど、茨のそういう反応で笑いがとれるところ、素質の部分が大きい気がします。可愛いっていうか、ちょっと羨ましいっすね」
「褒められているのかどうか、微妙なところですね。ジュンこそ、ご自分をもっとよく観察されたほうがよろしいのでは?」
「まあ、努力を認められるほうが嬉しい人も多いですし、オレもそうなんですけど。でも、多分茨もよく知ってるでしょうけど、アイドルってそれだけじゃないじゃないですか」
ジュンの言いたいことは、茨にもわかる。
努力が役に立つことには違いないし、精一杯が似合うままのうさぎは圧倒的に尊いが、原石であれ、すでに輝いているものであれ、生まれながらの性質は、絶対の輝きをもってその生を照らすことがある。
血の呪いを背負って生まれてきた茨が、生まれる前から決まっていた運命など、肯定したいはずもない。ただ、それが尊ばれる世界があるだけだ。
「自分は抗うつもりでおりますよ。運命なんてものを、後生大事に抱えているつもりもありません。自分は自分で切り開くつもりですから」
「そういうところ」
かっこいい、とジュンがニコニコ笑うので、少し重めの腹パンを食らわせてやった。
朝食を終えて、のんびりとメールチェックをしながらチェックアウトの準備を始めた。
「オフなのに、朝から仕事のメール見てるんすか」
「営業ならされている方は多いと思いますよ」
「そんなもんなんすねえ」
茨のラップトップの画面の見えない場所で、ジュンはゆっくり着替えていた。
「もう帰るの寂しいですね。こんないい部屋、滅多に泊まれないし」
「別に、ジュンはそろそろ、いい部屋に泊まることも可能になりつつあると思いますがね。相変わらず公共交通機関好きだし、社用車もあまり使っている様子がないですね」
「うーん、まあ、電車でもあんまり気づかれないし、そんなには困ってないです」
「今日はどうしますか? フロントで解散するか、自分と一緒にES方面に戻りますか?」
「一緒に戻りたいです。電車ですか?」
「社用車ですよ。自分たち二人で変装もなしに歩いたら、さすがに気づかれます」
「オレ、あんまり気づかれないんですけどねぇ」
「それはそれで気にしたほうがいいと思います」
言いながら茨はさくさくとスマートフォンを開いて、運転手に時間と場所を説明している。
「茨は、ほんと余韻も何もないっすねえ」
「余韻?」
「だって、オレも茨も、実質ファーストキスだったんですよ」
そう真顔で言いだしたジュンに、茨は思わず吹きだした。
「まあ、そうですね。自分たち、紛れもなくファーストキスでした。もっとしんみりしたほうがいいですか?」
「そういうんじゃないんですけど」
「自分はもう少し、台本に沿った形の練習をするのかと思っていましたよ。一応頭に入れておいた方が良いかと思って、台本には始める前に目を通しておいたのですが、ジュンは開きもしませんでしたね」
「あ、そうなんですか? わざわざすみません。雑念がないほうが、集中できるかと思って」
「いえ、引き受けたからには、ジュンの意向にきちんと対応したかったので」
正直に言って、非常に眠かったので理性が飛び気味だったことは否めない。
結果的にジュンにとっても良い経験ができたのなら、それでよしというところだ。
「さあ、もう少し時間がありますが、早めに出ますか?」
手元の仕事道具を片付けながらジャケットを羽織ると、ジュンも一緒に立ち上がった。
「ねえ茨、こっち向いてください」
扉の手前で、ふいにジュンに呼ばれて振り返ろうとすると、ぐいと腕を引き寄せられた。
「なんです、っ」
顔が近い、と思ったら、すぐに口づけとともに舌が入ってきた。戸惑いながら唇を開くと、ほんのり震える舌がゆっくりと茨の舌に絡む。
ジュンは緊張の面持ちで、茨の反応を伺っている。
息を継ぐタイミングで、唇を離した。
「……目は、閉じた方がいいのでは」
「あ、はい……。茨、あんまり驚いてないっすね」
「まあ、昨日の今日ですからね。前もって言っていただけると、リアクションにも幅ができると思いますが」
さらに大きく目を見開いて「すみません」とジュンは視線を下げた。
「ああいえ、ジュンは目力が強いですし、強引なアプローチもギャップを感じて悪くはないと思いますよ」
「そう、ですか? あの、もう一度、いいですか」
「まあ、チェックアウトまでは、まだ少し時間がありますので」
いいですよ、と言い切る前に、ジュンはもう一度茨の薄い唇に舌で触れた。それから、こめかみに、耳に口づける。どうしてこんな場所にキスをするのか考えたこともなかったが、実際にやってみるとよくわかる。どれも急所で、感覚が敏感な場所だ。
「茨、やっぱり少し寝不足なんですか? いつもより頬が赤い気がします」
「そうですか? メイクをしていないからかもしれませんね」
「体調よくないなら、ちゃんと休んでくださいね」
ジュンはそう言うと、茨の丸い頭を撫でた。
「……ええ、ありがとうございます。大丈夫です」
「あ、あと……茨、その」
「はい」
「こういう練習、あんまり、他の人とはしないほうがいいと思います」
「土下座して頼まれてもやりませんよ」
「え、そうなんですか?」
「ジュンも、自分以外の人間に頼めないから、自分に頼んだのでは?」
「はい、茨も、もし練習したかったらオレに言ってくださいね。オレも、ちょっとだけ慣れてきた気がしますし」
「……そうですね。自分も、少しキスというものがどういうものかは理解できた気がします。これで、ジュンと自分にBL営業の企画があっても、十分対応できるでしょう」
「ああ、そういえばBL営業って何ですか? 時々Eveのファンが話しているのを見かけるんですけど」
「ジュンにはまだもう少し早いと思うので、また今度説明します」
「? そうなんですか」
只のユニットメンバーというには近すぎる距離で、二人は次の練習に想いを馳せた。