紫煙のない夜、キスの星を数えて 出所してから初めてのクリスマスは、幸志朗が子どもの背丈ほどのツリーを買ってきて言った。
「兄ちゃん、てっぺんのお星さま、つけていいよ」
にこにこと純真な笑顔でのたまう弟サマに堅志朗ショックを受けたのは、もはや自分たちが40も過ぎた年齢であるのに子どものように"お星さまを飾る権利"を喜ぶと信じていると思われた(実際、弟は譲られたら喜んで付けるのだろう。「いいの!?」と目を輝かせて……)こともあるし、クリスマスという、堅志朗がムショにぶちこまれる羽目になった日を楽しいイベントの日として割り切らなくてはいけない面倒くささと切なさもあったし、何より子どもの頃から兄の言葉と決まっていた「てっぺんのお星さまつけていいよ」が弟の口から出たことがいちばん、辛かった。幸志朗の中で兄という存在はもう唯一絶対じゃないんだと、思い知らされた。
「だからって俺のとこ来るのはなんなの?弟くん泣いちゃわない?」
勝手知ったる共犯者の家……と堅志朗が上がり込んだのは自分より一年遅れて出所したドブこと溝口恭平の今の住処で、昔のモデルルームみたいな部屋とは違い八畳一間の古いマンションの一室だ。出所して幾許も経っていないドブはまともな仕事にありつけてもいないらしく、スマホを持つに至っていない。堅志朗はそれを知っているから、必ず居ると分かっている夜更けにやってくる。アポ無しで当たり前。もしも居なかったら、恨み言を殴り書いたメモを郵便受けに突っ込んでおけばいいだけだし。
ところで本日ドブはまだ夕方にも関わらず家にいて、カビの匂いとお日様の匂いとともにジャージに半纏を羽織った格好で半べそをかいている堅志朗を出迎えた。
「何それだっせえ。ジジイかよ」
「バカにすんなよ、暖かいぞ?ちなみにうち暖房ないし防寒具もこれだけだから」
「はっ?最悪!寒いわ既に!」
堅志朗のほうは、弟の好意とツテで紹介してもらった会社で勤め始めて半年になる。有閑マダム然としたご婦人が孫に乳歯が生えた記念日に作った会社で、彼女は天真爛漫とした弟のことを「いぬのおまわりさん」と呼ぶ。どうやらくだんの孫が迷子になった折、子どもの泣き声につられて幸志朗がわんわん泣いてしまい、そのおかげでマダムは孫と無事に再会できたのだそうで、今でも彼女の家と孫の中での語り草なんだそうだ。
「お前いい服着てんじゃん。何?俺以外としちゃってるわけ」
「は?何をだよ」
「ゆ・ちゃ・く♡」
堅志朗がドブを蹴飛ばす。そもとっくに警察官としての職は失っているのだから、今更ヤクザとつるんでも癒着ではない。……ドブだってもうヤクザでもないけれど。
「するか、ばか。てか不謹慎すぎ。最悪。臭い。死ね」
「反抗期の娘かよ〜。お前今年四十二だろ?そろそろ落ち着けよな」
「お前だって五十近いのにガキみてえじゃん」
「まだ四十五ですう」
「四捨五入したら五十ですー」
ドブがヤカンで湯を沸かし、堅志朗用のマグカップに入れて紅茶のティーパックを無造作に突っ込む。税込475円で50袋入りの安い紅茶だ。昔のドブなら絶対に買わなかったし、そもそも紅茶なんて飲まなかった。
「おら」
「ん」
「つかマジでいいの、弟。今日はおうちでご馳走じゃないの」
「普通に仕事だよ。年末年始は忙しいんだよ、警察官は」
「ああ、そっか。弟、まだちゃんと警察か」
「まだってなんだよ、あいつはずっと警察だっつの」
「お兄ちゃんと違って?」
「死ね」
堅志朗はどかりと部屋の真ん中に座り、マグカップを受け取る。持ってきたエコバッグのチャックを開けて「土産」とぶっきらぼうに突き出した。
「なになに?いいもの?」
「ハンバーガー。まじでクリスマスってすげえわ。二時間並んだ」
「あは、馬鹿だね〜みんなうどん食っときゃいいのに」
「うどん屋もすげー並んでたぞ」
「わはは、何でだよ、バッカみてえ!」
エコバッグの中には見慣れたロゴが書かれた紙袋が入っていて、ハンバーガーとポテトが突っ込まれている。ドブの家の近くにハンバーガーを取り扱うファーストフード店は建っていないから、電車に乗る前にわざわざ並んで買ってきたのだろう。
「やべぇ、ポテト超しなしな」
「ハンバーガーもパンがぐにゃぐにゃだな。なのに冷めててちょっと固い」
「文句言うなら食うな」
「事実言ってるだけだろ」
隙間風が寒いのだろう、もぞもぞと身体を揺らしながら堅志朗はハンバーガーにかぶりついている。ドブも笑いながら"超しなしな"のポテトをかじる。
「この間弟と行ったんだよ、ケンタッキー」
「はあ」
「久しぶりにチキン食ってさ。昼時だったからハンバーガーのセットも食ったわけ。俺ケンタッキーのハンバーガー初めてだったんだけどすげえ柔らかくて美味くて。味濃いし」
「刑務所の飯、薄くて少なくて不味いよな」
「そうそう。で弟がにこにこしながら言うんだよ。兄ちゃん、いっぱい食べてねって」
「はあ、そんで?」
「だから哀れな独り身のお前に弟の慈悲を分けてやってるって話だよ。俺と幸志朗に感謝しろ」
「いやこれマックじゃん、ケンタじゃねーじゃん」
「ケンタッキーはクリスマスはバーガーやってねえんだよ!知らねえのか!」
「知らねえよ!」
「俺も今日知ったわ!」
「……は?じゃあ何?大門くん、ケンタ寄った後マクドナルドにわざわざ行ったの?俺にハンバーガー食わすため?」
「……まぁ、そうだな……」
堅志朗が、もぞもぞと身体を揺らす。これは寒さからではなくて単に恥ずかしいのだろう。分かるぐらい、堅志朗とドブは長く付き合いが、あった。
「……んだよ、悪ィかよ」
「悪かないけど」
ドブはしなしなのポテトをつまみながら、足を組み直す。自分の分の白湯をすすり、そういえば出所してからハンバーガーを食べたのは今日が初めてだと思い出した。元々そんなに好きな食べ物というわけでもなかったし……。
「堅志朗くん、こっち向いて」
「ン?んっ!?なんっ、なんだよ!」
狭い部屋だから、少し身を乗り出すだけで簡単にキスができた。ティーンの子どもたちみたいな軽い、触れるだけのキス。昔はこんなキス、しなかった。いつでも唾液と性欲に塗れていたけれど、でも。
「んー?ケチャップついてたからァ」
「チキンフィレオにケチャップ入ってねえよ!」
「ははは、大門くん顔真っ赤じゃん」
「寒いの!この部屋が!」
もう二人の間に、罪はない。酒もない。金もない。溢れて行き場のない情欲も、罪悪感からくる怒りもない。あるのはボロボロの部屋と、到底美味いと言い難い状態のハンバーガー。それから二人がいるだけ。
「大門くん、もっかいしていい?」
「……いい」
これは愛ではない。罪の共有でもない。悪でも無ければ、翻って改心の道を進む善ですらない。二人の間に友愛はない。恋愛もない。ただ縁がある。星座みたいにどうしようもなく繋がってしまった線で描かれた関係性。
「……ちゅう、してもいい」
だから、仕方ない。堅志朗は頬ぺたを突き出す。てっぺんにお星さま、つけていいよ。そう弟に言う時みたいに、誇らしげな顔でありがとうの声を待っている。