move movement poetry 自動じゃないドアを開ける力すら、もうおれには残っていないかもなぁ、なんて思ったけれど、身体ごと押すドアの冷たさが白衣を伝わってくるころ、ガコン、と鉄製の板は動いた。密閉式のそれも空気が通り抜けてしまいさえすれば、空間をつなげて、屋上は午後の陽のなかに明るい。ちょっと気後れするような風景の中に、おれは入ってゆく。出てゆく、の方が正しいのかもしれない。太陽を一体、いつぶりに見ただろう。外の空気を、風を、いつぶりに感じただろう。
屋上は地平よりもはるか高く、どんなに鋭い音も秒速三四〇メートルを駆ける間に広がり散っていってしまう。地上の喧噪がうそみたいに、のどかだった。夏の盛りをすぎて、きっとそのときよりも生きやすくなっただろう花が、やさしい風に揺れている。いろんな色だなぁ。そんな感想しか持てない自分に苦笑いが漏れた。まあ、分かるよ、維管束で根から吸い上げた水を葉に運んでは光合成をおこなう様子だとか、クロロフィルやカロテノイド、ベタレインが可視光を反射する様子だとか、そういうのをレントゲン写真みたく目の前の現実に重ね合わせて。でも、そういうことじゃなくて、こんなにも忙しいときに、おれがこんなところに来たのは、今はいないいつかのヴィクの姿を、不意に思い出したからだった。
そのとき、ヴィクはほとんど朝から晩までの時間を、この屋上で過ごしていた。ベンチのひとつに腰かけて、日がな一日じゅう、ぼーっとしていた。春先の話だ。そのベンチに座る。日ざらし雨ざらしのそれは鋳物で、やわらかくもなく、骨ばっかりの俺の腰や背中にはどうにも痛い。目の前には青々とした芝生が広がっていて、芝生のなかに作られた花壇、道沿いの植木鉢、石碑は少し首を巡らせないと見えないけれど、青空も街の遠景も視界にあった。太陽は頭の上よりも少し左下に傾いて、夕方はかなりまぶしいんじゃないだろうか。風は涼しいけれど、じっとしているとまだ暑い時期だということを、今はじめて知った。草いきれを含んだ空気は少し湿っている。景色は霞みがちだけれど、小さく見える木々の密集の、広葉樹なんだろう、林冠が黄色くなりつつあるところもある。鼻から息を吸えば、夏の盛りとはあきらかに違う、秋の匂いみたいなものが、明確になにとは言えないけれど感じられる。季節は進んでいる。時は進んでいる。
「肌寒いなかでも、陽光の当たる場所に春が感じられますね。日々、花のつぼみは綻んできていますし、新たに顔を出す芽もある。空気に潤いが増してきています」
ヴィクは、抑揚のない声で言った。隣に立っていた俺は、感心して声を上げた。
「へぇ、ヴィクってそんな、詩的なことも言うんだね」
「詩的、でしょうか? 私はただ、感じとったことや客観的事実を述べたまでです」
「そうかなぁ。おれなんか、やっぱ暖房がなきゃ生きてけないなとか、花がなくてさびしいなとか、そんなことしか言えないよ」
今思えば、確かに、ヴィクの言うことは温度や湿度や植物の生長度合い、つまりは感覚神経によって知れる日々の変化でしかなくて、けれどもそれを、あのときヴィクは感じていた。詩的の以前のそんなことを、おれはというと感じてもいなかった。努めて慎重に、おれは五感をはたらかせてみる。温度、湿度、視覚に嗅覚。おれは今、なにを感じているんだろう。ヴィクは今、なにを感じているんだろう。
おれとヴィクは同じものではない、みたいなことを、ヴィクはなかば自虐的に言う。ヴィクの言いぶりには父さんの視点が介在していて、だけどおれに言わせれば、そんなことは当たり前だ。父さんのことなんて関係なく、おれとヴィクはまったく違う生き物。同じ場所で育って、一緒に学んで、今もふたりでこそいろんなことが成り立っていると思うけれど、それはやっぱりおれとヴィクが違うからだ。おれにしか分からないことがあればヴィクにしか分からないこともあって、逆にどちらかが疑問を持つことで手がかりにつながることもある。だから、ヴィクがおれのサポートってのは事実だけれど、ヴィクにしか考えつかないようなことを、おれから見てなにか言うようなことだってある。ふたりだからここまで来られた。それこそ、紛れもない事実だと、おれは思っている。
ヴィクがおれよりも豊かに感性をはたらかせられるのは、ヴィクがヒーローでもあるからじゃないだろうか。今こうして、気づけば夏も過ぎ去っていたとはじめて知るほど、無菌室みたいな研究室に閉じこもっているおれとは違って、ヴィクはパトロールに出れば街の人々とも触れ合い、トレーニングもし、研究者とはまた毛色の違うヒーローたちとチームワークを深めようとしている。エクスペリメントも持っている。その分、おれはおれの仕事や研究に従事しているわけだけど、それによって出てくる違いのひとつが感性ってのは、わりと新しい発見かもしれない。
さっきまで頭頂部に感じていた熱が、額の生え際あたりに移動している。それだけの時がながれて、太陽が移動したんだ。正しくは太陽が移動したんじゃなくて、この地球が回った、その様子を思い浮かべる。広い宇宙では、そんな位相の変化も微々たるものでしかないけれど、そんな小さな動きを、おれも感じとれたんだ。
おれは立ち上がる。視線が高くなって、低い位置の花壇が見えるようになる。伸びをする。背中がボキボキと鳴る中に、芝生を渡る風の音。
ヴィクは今、なにを感じているんだろう。知りようのないその答えを、別に、知る必要はない。おれとヴィクとは違う人間で、だからこそ違う感覚でもって、違う使命に立ち向かっているんだから。
「だけど、もう風はけっこう、涼しかったんだね。ヴィク」
ヴィクが無気力のなかに見つけた春は、とっくに過ぎて、屋上には寒さの影がある。
時がすすんで、事態がうごいて、この空気の中にまた春を見つけられたらいい。そのあたたかさはきっと、おれにとって、ヴィクの存在みたいなものじゃないかと思う。
move movement poerty fin.