その名はなぎこさん 土方さんには嫉妬という概念がないんだろうか、と思う時がある。
僕が学生生活を送るに際して、どんな友人知人がいるか、バイト先の人間関係はどうか、なんてことにはほとんど頓着しない。たまに様子を聞いてくることもあるけれど、それは嫉妬ではなく僕が対人関係でしくじらないようにという気遣いだ。
ゼミ飲みやサークル(土方さんと逢って以来、ほぼ幽霊部員だけれど)の飲み会への参加許可を取ろうとしても、
「そんなのいちいち俺に許しを乞うな。自己判断くらいできんだろ」
と、うっとうしげに返される。
もしかして、土方さんは僕と別れたがっているのだろうか、と思ってしまうのも一度ではない。
そんなことはない、と口では言ってくれるけれど、僕らの間にある十歳以上の差が、僕の焦りを駆り立てる。
だから今日は、取っておきの厄ネタを持ってきた。
「土方さん、見てくださいよ」
土方さんちのこたつの、家主の斜め前に座って、僕はスマホのカメラロールから一枚の画像を見せる。
それは、男性の片手と女性の両手が机の上でがじゃりこを囲んでピースサインを作っている写真だ。女性の爪には和テイストカラーのマニキュアが塗られ、さらにラインストーンでデコられている。
「――なんだこりゃ」
土方さんは片眉を上げた。
お、これはいい感じかも。僕は、この後土方さんが「俺以外のやつと親しくするな」と怒ってくるシナリオを脳裏に描いた。
「こないだ、ゼミ室でなぎこさんと二人っきりになったんですよ。二人でいろいろ話して。まぁ、やましいことは何もなかったんですけどね!」
僕は謎の女性の名前を口にする。恋人が自分の知らない人に触れたら――しかも二人っきりで過ごしたと聞いたら、土方さんだって落ち着きをなくすはずだ。
もちろん、身の潔白をアピールするのも忘れない。僕はあくまで嫉妬されたいだけで、土方さんから心変わりすることはありえない。
けれど土方さんは、僕がなぎこさんの名前を言ったとたん、明らかに安堵した。僕としては面白くない。
「……俺が誰と何しようが、土方さんには関係ない?」
よろしからぬ感情が、胸から湧き上がる。やっぱり、土方さんは僕と別れたがっているのだろうか。もしくは、僕のことなどたいして好きでもなく、ただ性欲処理の相手としてキープしているだけではないのか。
そんな最悪の想像が、目の前をぐるぐるする。
そんな僕に、土方さんは驚くべきことを言った。
「これ、清原なぎこだろ。文学部の」
「えっ」
「俺の時は准教授だったと思うが……まだ元気に『あたしちゃん』とか言ってんのか」
土方さんの口から『あたしちゃん』という単語が出ると、なかなか衝撃的だ。
――じゃなくて!
「なんで土方さんがなぎこさんのこと知ってるんですか 政経とはキャンパスも違うのに!」
僕の学校――土方さんの母校でもある――は、文学部だけが他のキャンパスと離れて建っている。歩いて行ける距離ではあるけれど、学生は用事がなければ行き来しない。
「そうか、今のやつらは知らねぇのか……俺らの頃、清原なぎこは有名だったんだぜ、エッセイがベストセラーになってな」
初耳だ。
確かになぎこさんは雑誌などで文章を書いているとか一般書の著作もあるとか聞いていたけれど、売れっ子だったとは。
「今、清原なぎこに習ってんのか。あの女、ああ見えて面倒見いいから安心だな。それに『ご主人様』もいるからな、二重に安心だ」
「なぎこさん、結婚してるんですか? そんな話聞いたことないですけど」
「『ご主人様』って、戸籍上の夫のことじゃねぇぞ。本当に『やんごとない方』に『お仕え』してるんだと」
「……それって、SM的な何か?」
「そうじゃねぇとは書いてたけどな」
僕のような若造には、まだよくわからない世界だ。
「っていうか、エッセイ読んだんですか」
「あぁ、同級生が貸してくれた。読みやすかったし、『感受性の豊かさ』ってのが少しわかった気がしたぜ」
土方さんにも大学生の時があった。当たり前のことが、ひどく恋しい。僕はその頃田舎の小学生だった。運命の人がもう東京で大人として生きているだなんて、想像もしていなかった。
どうして僕はもっと早く生まれて、土方さんの前に現れることができなかったんだろう――。
僕の堂々巡りは、デコピンによってさえぎられた。
「いてっ」
土方さんのデコピンは痛い。僕がおでこをさすっていると、土方さんはふいに顔を近づけてきた。
「お前、俺に嫉妬されたくてこんな写真撮ったんだろ」
図星を突かれて、どきりとする。
「ちょっとだけ成功したぜ、それ」
その言葉に、土方さんの言動を思い出す。
僕がなぎこさんとがじゃりこの写真を見せた時、確かに土方さんは片眉を上げた。普段はあまり見せない表情だった。
そして、『なぎこさんには「ご主人様」がいるから安心』した。
それってつまり……。
いっぺんに赤面する僕の頭を、土方さんはくしゃくしゃと撫でた。
「あんまり自分を過小評価するな」
土方さんは、片頬を歪めて笑った。
普段土方さんは、恋愛感情を言葉にするのを好まない。態度で示しているのだから察せ、という姿勢だ。
けれども未熟な僕は言葉が欲しい。はっきり表明される言葉で安心したい。
時折、土方さんは僕に合わせて言葉をくれる。歳上の恋人が甘えさせてくれることに、嬉しさと罪深さを同時に感じる。
僕のわがままで、土方さんの主義を曲げさせている。そのことが申し訳ないし、こんなことが続けば、土方さんが「ガキのお守りはごめんだ」と思って僕の前から去ってしまう可能性もある。
我慢したいのにできない。日常生活でもベッドの中でも、これは僕の悪い癖だ。
それでも、今は――今だけは喜びたい。言葉にしなくても、土方さんが僕を愛してくれていることを。
「好きです、抱きたい」
「メシと風呂の後でな」
「手、握ってもいいですか」
僕の懇願に、土方さんはこたつの中で僕の膝に手を伸ばした。
男らしい、骨張った手をそっと握る。この手が、僕をねぎらってくれる。愛してくれる。そう思うだけで、愛しさが連鎖的に爆発する。
「あぁ……好き」
そう口にすれば、赤い目が僕をいたわるように見る。
外で見るいかにも大人らしいたたずまいも、ベッドの中で見せる嫣然(えんぜん)とした笑顔も好きだ。けれども、僕を包み込む、この慈母めいた視線も大好きだ。
僕は己の手の中の男らしい手を抱きしめるように握り直した。
……そういえば、土方さんが学生の頃、既に准教授だったというなぎこさんは、今いくつなんだろう?