爪ひらりとイチョウの葉が本の合間に舞い降りた。
男は風のいたずらに軽く笑うとふっと息を吹きかけてご退場願う。
昼というには早く、朝というには遅い時間。次第に昇りゆく日差しがもたらす暖かさと、吹き抜ける風のかすかな冷たさが相まって何とも言えない心地よさに文字を追う視線が止まり、しばし目を閉じる。再び目を開き、今度はすぅっと視線を上へと移す。風に乗って空を流れる薄い雲の動きに、なんとはなしに今日も一日晴れるだろう、夜には星も眺められそうだなどと他愛もないことを思い浮かべる。
口の端がわずかに上がり、男の端正な顔立ちが一層際立つ。
一級の石珀を想起させる瞳は男の思慮と智謀をたたえ飲み込まれそうなほど美しく、魔よけのために眦に引かれた朱の一線は近づきがたい峻厳さを感じさせる。総じて雰囲気は知識人ともあるいは武人とも取れ、掴みどころのなさに粟立つ者もいよう。
往生堂客卿・鍾離。
法律家の煙緋が「歩く図書館」と評したようにその知識量は突出しており、璃月の民たちが相談事を持ち掛けることも多い。その点では彼女の商売敵とも言えるかもしれない。
容貌は先に述べたように整っている。しかし整いすぎていてどこか浮世離れした美貌で、そのせいか返って顔立ちで騒ぎになることがない。あくまで彼が酒場の肴になるのは膨大な知識を披露してその場の食事代をツケて去っていったという行動のみだ。もっともそれが彼の狙い通りであることは言うまでもない。
目立つことなく市井を渡り歩く。それこそ彼の望みであり楽しみである。
再び彼は本に視線を落とす。
だがその耳に聞き覚えのある高い声が入ってきて集中力を奪われた。
ゆるりと視線を動かすと予想にたがわずふわふわと浮かぶ仙霊・・・というにはサイズの大きいモノがわいわいと傍らの少年に何かを訴えているようだ。
しばし二人の行動を観察していると視線に気づいたのか少年が「あ」という形の口を作る。
「こんにちは先生、何してるの」
「あ、しょーりーーほんとだ、なにしてんだ」
ゆっくりと近づいてくる友に鍾離も軽く挨拶を返す。
「見ての通りだ」
「いや、見てもよくわからないから聞いてるんだぞ・・・」
恨めしそうな声を上げるふわふわ物体・・・パイモンの言葉に軽く笑う。
確かに店先にゆるりと腰かけて本を読んでいるとまではわかるが、なぜこんなところで読書をしているのかとなると旅人…空にもよく分からない。
「爪を磨いてもらっている」
見れば右手には本を、左手は傍らの台に預け、店の者らしい女性が丁寧に爪やすりを使いゆっくりと磨いている。かと思えば小さな壺・・おそらく香膏を取り出して一本ずつ丁寧に塗り込んでいるところのようだ。
「爪磨きの専門店なんてあるんだ・・」
「いや、ここは髪結いの店だ。爪の手入れもしているというだけだな。もちろん爪の手入れを専門としている店もあるが今日は万文集舎で面白そうな本を見つけてな。それを読むついでに軒先で気軽に受けたい気分だったからな」
「むー爪の手入れっていうとなんか凝光あたりがやってそうなイメージだぞ」
腕を組んでくるりと宙返りを決めるパイモンにふむと軽く頷くと、
「凝光か・・確かに彼女のように何かを指し示す必要のある人間は指先にある意味「仕掛け」を施す必要があるな。指先に集中させ話を優位に誘導する。それも戦略の一つだろう。また爪を美しく飾るというのは自己を奮い立たせるのにも効果があるそうだ」
ほへぇ・・と気の抜けた相槌を打つパイモンと比べ、感心したような息を漏らす旅人に苦笑する。
「お前も、剣を振るうのであれば爪の手入れは怠るものではない。商売もいくさならお前が立つ場所は正に命のやり取りをいる戦場だ。爪というものは体の部位としては小さいが些細なひび割れでも気になる厄介なものだ。割れれば当然激痛をもたらす。剣を握るのに一瞬の躊躇いがあればそれが命取りになる」
知識人としての物腰の柔らかさから一瞬にして武人としての険しさが見え、空はすっと背筋に冷たいものが走るのを感じた。
友人が緊張した面持ちになったのを察した鍾離は相好を崩し、
「何、たまにはこういう店できちんと手入れするのも悪くないという話だ。ところで先ほどは何を騒いでいたんだ」
問われて打たれたようにはっとすると手にしていた袋を軽く振る。
「すぐ近くで商隊がヒルチャールたちに襲われてたんだ。それを助けたらお礼にって、杏仁をもらったんだよ」
「そうそう。なんか質のいい杏仁らしくて、だったら魈に杏仁豆腐作ってやろうって話してたとこだったんたぜ」
自分が倒したわけでもないし、作るわけでもないだろうに、パイモンが自慢げに鼻を鳴らし腰に手を当てている様に鍾離は目を細めて笑う。
「なんだよー。旅人の勝利はオイラの勝利なんだぞー」
「はいはい。そうだ、先生も一緒にどう 魈も喜ぶと思うよ」
不意の誘いに鍾離は何度か瞬きをし、そして、
「いや、遠慮しておこう。あの子はどうもまだ俺を前にすると緊張するようだ。せっかくの杏仁豆腐の味も分からなくなるかもしれない」
苦笑いをする鍾離にそれ以上誘い掛けるのも悪い気がして、二人は大きく手を振りながらその場を去っていった。
荻花洲の中央に位置し国境の要所であり旅人たちの邂逅の場でもある望舒旅館。
古くからあるこの旅館は表向きごくごく普通の宿場だが七星が管理しているという点に重きを置けばそこはとある仙人がひそかにその羽を休める場でもある。
翡翠の風が岩王帝君より賜った和璞鳶を携えて天より舞い降りれば、蠢く妖魔を一陣のもとに一掃する。
降魔大聖・護法夜叉大将。外見は年端もいかぬ少年の姿かたちながら、優に二千歳を超える仙人である。
黄金色の瞳はすべてを射抜くがごとく鋭く、小柄な体躯からは想像もつかない仙力と膂力をもって魔を屠る。
しかしその顔立ちはあどけなさと妖艶さが入り交じり、息をのむといえば陳腐だが、今まさに妖魔によって命を奪われんとしていた人間たちからすれば、疾風とともに現れ魔を一掃し助けてくれたその少年の容姿に、ある意味「お迎えの仙女が来た」と錯覚してもおかしくない美しさを放っている。
当の本人は外見には無頓着、というより仙人ゆえか些末なことと関心を抱いていない。
身だしなみは法具が身のこなしの邪魔にならなければいい。身に着ける物は仙力に干渉しなければよい。身を清らかにするのは仙術の障りになるからで、そうでなければ血にまみれていても雨でそのうち落ちるなどと豪語されたこともある。
そういう過去があるからこそ…
「爪…」
「藪から棒になんだ」
望舒旅館の最上階、普通に訪れただけでは「何もない」部屋が存在し、降魔大聖…魈が時折羽を休めている。
過去の約束で呼べばどこでも駆けつけるというが、今日は友人として食事を振る舞いに来たのだからと訪ねてみれば運よく在室中で、声をかけると仙術を解いて部屋に招き入れてくれたところだった。
寝台と机が一つ、椅子が二つ…本来彼だけの部屋で一つだった椅子はこのところ不意の来客が訪れることもあり用意されたものだ。あとは引き出しがいくつかついた棚があるぐらいでおよそ生活感がない。
だからこそ余計に魈が手にしていたそれに旅人とパイモンは思考を奪われた。
「あ、いや、魈も爪を整えるなんてことあるんだ」
「うん、なんか、魈の爪切りって、噛みちぎってそうだもんな」
「…仙人を愚弄するとはいい度胸だ」
言葉とは裏腹に呆れたような物言いに二人は小さく謝る。
ことりと爪やすりを置く音が響く。つられてそちらを見やると、およそ彼が選んだとは思えない緻密な飾りの入った代物だ。瞬時に誰が用意したのか察したし、彼が丁寧にそれを扱っている理由も悟った。
「何用だ」
「あっ、ごめん、えーと…あー…ははっ」
ぼうっとする旅人にしびれを切らし問いかけるも、考えあぐねた挙句笑いだした少年に、魈が怪訝な表情を浮かべる。
「用がないなら…」
「ごめんごめん。ここに来る前にね、鍾離先生に会ったんだ。ちょっと話をしただけなんだけど、その時先生も髪結いの人に頼んで爪を整えてたから、偶然ってすごいなーって思ってさ」
「そうそう。ここにきてまさか魈も爪をきれいにしてるなんて、ちょっとおもしろいだろ」
ふわふわくるりと回るパイモンに「どこが」と淡々と切り返す。
「鍾離様は凡人となり戦場を離れたとはいえ、本質は武人だ。爪というものは小さな傷でも障りになる厄介な部位だ。得物を握る手に些細な違和感があれば須臾の油断に繋がる。我と同じ…というには畏れ多いが、鍾離様も常々そういった懸念をお持ちなのだろう」
膏を取り出して仕上げを済ませた魈は手袋を嵌めて具合を確かめている。
その言葉が浸透して…二人は顔を合わせて笑い出した。
「お前ら…」
「いや、ほんとにごめん だって鍾離先生と同じこと言うんだもん」
「なっ…」
「先生も爪の傷は小さなものでも気になるから、ちゃんと手入れしろって。やっぱり長年一緒に戦ってきたから考え方も似るんだね」
指摘を受けて、魈は軽く息を吐く。
「武人の常識だ。お前も鍾離様にご指導を賜ったのであれば、以後肝に銘じることだ」
はーいと間延びした返事をする旅人に真面目にしろと釘を刺す。
「それで、結局何をしに来たんだ」
「あーそうだ、お前に杏仁豆腐を作ってやるためにきたんだった。オイラ腹ペコペコだぞ」
「そうだった。いい杏仁をもらったんだ。鍾離先生も誘ったんだけど、えーと…都合が悪かったみたい」
彼の言葉をそのまま伝えると気落ちするだろうと踏んで言葉を飲み込む。
「そうか」
固い、短い返答にやはり「そう」らしいと思う。
「すぐ作ってくるから待っててね、行こうパイモン」
騒々しく去っていく二人を見送りながら、戻ってくるまでの間に余計な来訪がないように再び仙術で部屋を閉ざす。
そして置いたままだった爪やすりを恭しくそっと手に取り、引き出しの中へと丁寧に戻した…。
それから数日後、璃月港にて。
冒険者協会から頼まれた依頼をいくつかこなし、昼時も近まったことから旅人とパイモンは昼食の相談をしながら万民堂を目指していた。
その後ろから聞き覚えのある低くもよく通る声に呼び止められる。
「先生」
「ちょうどよかった。これからお前を探しに行くところだった」
そう言う彼の手には両手で包み込めるほどの大きさの袋がある。
「先生、何持ってるの」
「ああ、これで杏仁豆腐を作ってもらおうと思ってな」
ぽんと袋を渡され、旅人は不思議に思いながらも受け取る。
「いいけど。どうしたの急に」
ぼんやりと、魈へのお土産にするつもりだろうかと考える。
「いや、なに、この前のお前が作っただろう杏仁豆腐、味見だけでは物足りなくてな、どうしても食べてみたくなった」