カニバリズム/鋭百「カニバリズムって、あるじゃない」
「……物騒だな」
百々人は天気の話題を出すような気軽さでその言葉を口にした。ミステリを読んでるわけでも、サイコホラー映画を見ているわけでもない。打ち合わせ待ちの会議室、秀とプロデューサー待ちの僅かな時間に、はたして持ち出す話題だろうか。
「両方とも合意だとしたらさ、食べ終わった時に残るのは幸せなのかな」
「……どんな状況かによるだろう。と言うよりも」
百々人の瞳は澄んでいて、しかしその奥を見透かすことは出来ない。底なし沼に足を落としたような浮遊感が胸を襲う。
「そういった行為に、興味あるのか」
「ううん、ただなんとなく」
彼の手元には、時かけの数学の宿題が広がっていた。わからない、というよりは、飽きたのだろう。数学を解くのに飽きて、手持ち無沙汰で、考えることがカニバリズムとは。カニバリズム――人間が人間を喰らう行為。
「もしさ、食べられる方も、そうされることを望んでいたとしたら、どんなに痛くても、幸せで仕方ないのかな」
「……それほどまでに、愛しているのなら、あるいは」
「痛くて、辛くて、苦しくても、嬉しくて嬉しくて、仕方ないのかな」
「……幸せな終わり方が出来るわけだからな」
「好きな人の血肉になれるんだもんね。ひとつになって、ずっと相手の身体の中で生きていられる」
ビルの外の音が嫌に耳に響く。遠くで鳴る救急車のサイレン、信号機の青を知らせるメロディ。街行く喧騒、回る日常。喉が渇く。眩暈がする。
「ねえ、マユミくん。もしマユミくんが僕のことを好きになったらさ」
カメラマンやファンに向けるどの笑顔よりもたおやかな、優しく柔らかい笑顔を向けられる。彼は今、どんな気持ちで俺を見ているんだろう。
「その時は、僕のこと、食べてくれる?」
シャープペンシルを握る掌を、つい、と白い指先でなぞられた。その箇所から熱が冷えていく。背中が粟立つ気配がする。
「その時はじめて、わかると思うんだ。幸せかどうか」
「――食べなくたって、一緒に生きればいいだろう」
「そうだけどさ。絶対に、絶対に忘れられないじゃん。好きな人を食べた時のことなんて。脳裏に焼きついてこびりついて離れないのに、血肉にもなれるんだよ。すごいことだよ」
虚な目は楽しそうに揺れている。俺の掌の中で遊ぶ指の数が、二本三本と増えていた。擽ったいのに、振り払えない。
「……俺は、隣でずっと、笑顔を見ている方が嬉しい。一緒に呼吸している方が、幸せだと感じる。……一緒に、生きていたい」
彼の指先をそっと包み込む。俺の体温が伝わればいいのにと思った。彼の鼓動を止めてはならない。俺の鼓動を分けてやれればいいのに。
「……うふふ、熱烈な告白されちゃった」
「なっ、……言い出したのは、そっちだろう」
「そうだったね、ふふ。嬉しいなあ」
どこまでもどこまでも、虚だ。そこにあるのに掴めない。水中で泡を必死にかき集めている心地になる。
「……俺が求めたら、百々人は、俺のことを食べてくれるのか」
「うーん、叶えてあげたいけど、それは無理かなあ。だって」
お互いにお互いの掌を擦り合わせる。肌が合わさる時、実は皮膚は少し溶けていて、合体しているのだと聞いたことがある。俺たちは今、ひとつだ。
「食べちゃったら、マユミくん、居なくなっちゃうもん。そんなの寂しいじゃん」
「……俺も同じ答えだ」
好きな人を食べたところで、最後に残るのは、虚空だ。体内に生き続ける恋人に、話しかけることは、もうできない。
「一緒に呼吸していてくれ。百々人」
「なんだ、最初から答えは一つだったんだね」
そっと口元に指を運ばれる。ガリ、と歯を立てられ、痛みが走った。
「約束ね。ずっと一緒」
赤い雫が、数学のノートの上に、いくつか染みを作っていった。それは仄かに、生と死の匂いがした。