I need to cuddle with you!「今日は、もう、おしまいです」
いつからかは定かではないが、彼女の様子がおかしい。共に暮らし始めて1年が経ち、婚約に向けて順風満帆に時間を進めていたつもりだった。もちろん、家事を一緒にするときも、食事をするときも、風呂に入るときも、眠るときも――彼女はなんら変わりない。しかし、お互いの体温をわけあうように抱き合う時間が、すっかりと減ってしまっていた。その証左として、今も彼女は腕の中でちいさくもがいて、逃げ出そうとしている。
付き合い始めて一番に驚いたことは、彼女が予想以上にスキンシップ――何よりも抱擁が好きなことだった。甘え下手な彼女だが、ときには飛びつくように、ときには腕を広げて迎え入れるように、薄い体を俺の胸板に擦り寄せては、細い腕を俺の背に回す。話を聞いていくと、体温を分け合う瞬間がいっとう好きらしい。
「夜眠る前に、ぎゅってしませんか?」
同棲を始めるにあたり二人でルールを決める中で、恥じらいながら彼女が出した提案に二つ返事で了承した。俺としても、抱擁をすることで彼女のにおいを胸いっぱいに味わい、体温や柔さ、何よりも彼女というかわいい存在をたいそう楽しむことができる。彼女をぎゅう、と強く抱きしめると、ささくれだったこころが滑らかでまるい形になるような気さえする。すなわち、俺も彼女を抱きしめることがいっとう好きだ。今だって腕の中の彼女を離すまいと内心躍起になっている。
「どうして? そもそも、きみは腕を俺の背中に回していないぞ?」
「だから、もう、おしまいなんですっ……」
「まだだ。俺はまだ、離したくない」
さらに腕に力を込めてみると、彼女が体を左右に捩った。このまま無理を強いても解決はしないと察して、ほんの少しだけ距離をとり彼女の顔を覗き込む。背中に回していた両手はやさしく滑らせたのち柔く肩を掴んだ。居心地の悪さを感じたらしい彼女が瞳を伏せると、ベッドランプの光に照らされた睫毛が頬に影を落とす。
「なにか、きみが嫌なことをしてしまったのだろうか?」
彼女に嫌われてしまうようなことを、無意識にしてしまったのだろうか。それで彼女が傷ついてしまっているのなら、心から謝罪して、信頼を取り戻すためになんだってしたい。流れる沈黙に心臓の動きが慌ただしさを増していく気がする。彼女の薄い胸がわずかにふくらんでしぼんだ。
「その……杏寿郎さんは、グラマラスな人が好きなんでしょう?」
押し上げられた瞼から再び現れた瞳はうるみ、今にも決壊してしまいそうだ。予想外の出来事に肩を掴んでいた手に力が入ってしまい、驚いた彼女がかたく瞳を閉じたせいで、寝間着の生地の色が点々と変わっていく。まったくもって、話が見えない。しまいに彼女は顔をくしゃりと歪めて、はらはらととめどなく涙を流し始めてしまった。
「グラマラスで肉付きがいい人に比べたら、わたし、抱き心地よくないです。だから、離してください。杏寿郎さんを満足させることは、わたしにはできません」
「――なんの話だ?」
彼女が二度ほど大きく瞬きをする。濡れた睫毛が光を反射し、彼女の焦げ茶色の瞳をより際立たせて、吸い込まれてしまいそうだ。できるだけ柔らかな手つきで、肩を掴んでいた右手を後頭部へ運び、ひとつ、ふたつと小さな頭を撫でてやる。
「前に、杏寿郎さん言ったじゃないですか。私に『もっと太った方がいい』って」
記憶を手繰り寄せていけば、たしかに数週間前に彼女に言った覚えがある。そもそも彼女は初めて出会ったときから、内臓がどこに詰まっているのかと思うほどに薄い体をしていた。もちろんそれに見合った食事量しか摂ることができず、俺と一緒に過ごすことになってからやっと定食の一人前を完食できるようになったぐらいだ。それでもまだまだ力を入れてしまえば骨は折れてしまいそうだし、これからのこと、彼女の体調を考えればあと少し、いや、かなり体重を増やしてほしいとは、常々思っていた。しかし、今目の前の彼女を見るに、その意図は伝わっていない。
「わたし、グラマラスじゃないから、杏寿郎さんを満足させてあげられません。だから――」
「そんなことは、断じてない!」
不満なんてあるものか。見た目など抜きにして彼女という存在がいとしいというのに。ただ、もう少し、体調のためにふくよかになってほしい。本当にそれだけなのだ。
「今のきみも魅力的だが、ふくよかになったきみはもっと魅力的だという話なんだが?」
「えっ?」
「え?」
彼女の涙はすっかり止まって、代わりに頬から耳にかけてわずかに赤く染まっていく。どうやら彼女の中の誤解は解けたらしい。微笑んで見せれば、ますます肌が赤く染まる。
「すまない、俺の言い方が足りなかった。俺のために、もう少し体重を増やしてほしい」
「ずる、ずるいです。そんな、おねがいのしかた」
「それに、これからもっと魅力的になるきみを、離してやることはできないなあ」
ぷう、と彼女の両頬が膨らんだ。しかし、彼女なりの抗議もむなしく、少ししてしぼんでいく。その様子がなんだかおかしくて、もう一度頭を撫でると次は唇を尖らせた。
「頬を膨らませて大きく見せたのに、効かない……」
どこか不貞腐れる表情を見せた彼女の体を力いっぱい引き寄せる。突然のことに「わあ」と驚く彼女をよそに、胸いっぱい彼女のにおいを吸い込んで、触れ合う箇所すべてから彼女の体温を感じて、これまで不足していたものが満たされていく気がした。
「そんなかわいい顔をしないでくれ」
自制が利かなくなる――耳元で囁いてみると、彼女の体は燃えるように熱くなる。さすがにこれ以上はまずい。あとはもうベッドに横たわって眠るだけだ。ゆっくりと体を離そうとしたところで、今日初めて、彼女の腕が背中に回されて小さな手が寝間着をやわく掴む。
「……週末、ケーキ食べに行きたいです」
「うん。行こう」
「焼肉も食べたいです」
「いいな。魚派のきみが魚料理に寝返らないうちに店を予約しよう」
「もう少し、ぎゅってしててもいいですか」
「っ、もちろん!」
彼女が胸に頬を擦り寄せた。少しだけ腕に力を込めてみる。背中に感じる指先の感触に満たされながら、旋毛にひとつ口付けを落とした。