手を取り合って「ココ! やっと捕まえた! もう逃さねえぞ……」
イヌピーの手はオレの腕を掴んで離さない。暖かい手から伝わる体温は冷え切ったオレの身体にはあまりにも熱くて、掴まれた場所からじわじわと何かが侵食してくるようだった。
離別から5年、イヌピーと2度と会うことはないと思っていた。
関東卍會は徐々に勢力を広げていき、そろそろ本格的に裏社会の覇権をとりにいく準備を始めていた。そして明日、組織の方向性を決める重要な取引がある。しかしその取引は相手が約束の時間に現れず、「相手都合」で破談になる。それを引き金にしてオレ達は反社会勢力としてのし上がっていく。そういうストーリーだった。
取引相手の重役は今晩、誰にも知られずにひっそりと息を引き取る手筈になっている。人を殺してもう2度と引き返せないところに足を踏み入れる、つまりそういうことだった。
そしてその引き金を引く大役を、オレが担うことになっていた。もともと顔つなぎとしてオレが相手をしていたので、関東卍會の中で最も警戒されずに近づける。ただそれだけの理由で決まった。
今更怖気付くこともない。これまで散々悪いことをしてきた。ミッションに対して、今更なんの感情も湧かない。
ただ一つだけ、真っ黒な闇に飛び込む前に心残りがあった。
乾青宗。オレの大切な幼馴染。それから、この世でたった1人愛している人。
5年前、愛していたから手放した人。
当時から「仕事」を回していたオレは、あの頃すでに表の世界に戻るなんてできなくなっていた。でもイヌピーは違う。少年院に入ったこともあるし、過ぎたヤンチャもあった。けれど、まっすぐで純粋な彼はまだ引き返せるところにいた。そして彼を引き戻してくれる、「良い奴ら」も揃っていた。オレは彼の夢も、願いも、彼を取り囲む環境も、イヌピー以上によく理解していた。
それから、彼がオレの手を離そうとしないことも知っていた。
だからオレは別れ際に呪いをかけた。
「もう支えてやれねぇから、道、間違えんなよ?」
そう言えば、素直な彼が約束を守ることをオレは知っていた。バカみたいに一直線で、駆け引きなんて知らなくて、オレとの約束を決して違えない、そんなイヌピーをオレは愛していたから。
予想通り、オレと別れてからイヌピーは真っ当な道を進んでいった。なんで知ってるかって? 世の中にはカメラとモニターという便利なツールがあるだろ。
モニター越しに見守る中、イヌピーはすくすくと成長? 独り立ち? して行った。オレはそれに満足していたけれど、オレじゃない男と2人で店を始めた時は流石に悔しくて、自室の物という物を壊してしまった。パソコンも壊してしまったおかげでいくつかファイルが消し飛び、その後1か月間は地獄みたいに働かされた。バックアップ前に壊したことを少し後悔した。
それからもイヌピーはマイペースに、そして楽しそうに暮らしていた。イヌピーの笑顔をモニター越しにみるだけでオレは三徹で仕事をすることもできた。関卍の連中はそんなオレをみてドン引きしていたが、オレの頭が無ければ組織は瓦解してるのだからむしろ感謝してほしい。イヌピーに。
けれどイヌピーはズボラなところがあるので、時折ヒヤヒヤさせられることもあった。怪我や風邪を引いてもなんの対処もせずに店に出て悪化させたり、考えなしにバイクパーツを買って飯を買う金が無くなったり、防犯意識の薄い古いアパートに暮らしていて空き巣に入られたりしていた。一度、夜寝ている時に暴漢が侵入しようとしていたこともある。あの時はマジでビビった。
それでもイヌピーはなんとか暮らしているようだった。昔のことを楽しく話せるダチができて、休日はツーリング仲間と海を見に行って、職場では大好きなバイクいじりをしながら仲のいい同僚と笑い合う。イヌピーが夢見ていた、理想の生活を手に入れていた。
オレはそれがとても嬉しい。愛している人が、幸せな顔で幸せに暮らしている。それがわかれば、それだけで、オレも幸せになれたような気がした。
5年間、オレはとても幸せだった。けれど、だからこそ、今度こそ本当にお別れなのだとオレは知っていた。一度でも一線を超えてしまったら、オレはもう2度とイヌピーと交わらないと決めていた。今までみたいに見守ったり(ストーカーって言うな)、それとなく助けてみたり(足長おじさんはセーフだろ)、そう言うことはもうしないと決めていた。
だから、本当に最後のつもりだった。最後に一目、カメラ越しじゃない生の乾青宗を、遠くからでもいいから見たかった。
イヌピーが住んでいる古ぼけたアパートの門の影に身を隠して彼の帰宅を待つ。バイクを駐輪場に停めてから家に入るまでのほんの数秒、後ろ姿を見れたらそれだけで満足するつもりだった。
ブロロロロロロ
懐かしい排気音が遠くからこちらに近づいてくる。それだけで涙が出そうになった。
バイクが止まる音がする。コツ、コツ、と足音が門を通り過ぎて、古いアパートに向かってイヌピーが歩いていく。5年前より襟足が伸びて、夜の闇の中で満月に照らされて輝く金糸は本当に綺麗だった。
ほんの数秒で、彼はアパート一階にある部屋のドアにたどり着いた。あぁ、終わってしまった。このたった数秒をオレは胸に抱えて、これから何十年と言う長い時間を闇の中で生きていくんだ。それでも良い、最後にオマエを見れたから。
……などと詩的な感情に浸るオレをよそに、イヌピーは一向に家に入ろうとしない。ドアノブを掴んだかと思うと首を捻って、今度はキョロキョロと辺りを見渡し始めた。
まずい、門の影に隠れているとはいえ、イヌピーの家の位置から完全な死角になっているわけではない。イヌピーはオレと違って目がいいので、じっくりとこちらをみられたら見つかってしまう。
かと言って、今門の影から飛び出てしまえば絶対に見つかる。クソ、なんで今日は満月なんだよ。夜なのに明るくて、動いたら丸見えになるじゃねぇか!
イヌピー頼む! こっちみないで、そのまま家に入って…!
願い虚しく、イヌピーはついに後ろを振り返った。オレは必死に門の柱にへばりついたが、オレ達は完全に目があった。
パチ、青くて綺麗な目がオレを見つめている。宝石みたいに綺麗で、どんなパワーストーンよりもオレに力をくれる瞳が、5年ぶりにオレを映している。
「……! ココ!!」
キラキラした金糸が、満月の光を反射しながらこちらに駆けてくる。
大好きな人にまっすぐ求められて、オレの身体は金縛りにあったようにぴくりとも動かなくなってしまった。
ガシッ、と音がするくらい強く腕を掴まれた。
「ココ! やっと捕まえた! もう逃さねえぞ……」
イヌピーの体温はとても暖かくて、冷え切ったオレの身体に染み渡ってくる。掴まれた場所からじわじわと何かが侵食してくるようだった。それはオレの恋情かもしれないし、イヌピーがオレを想ってくれている気持ちかもしれない。後者だったらオレは嬉しい。
「イ、ヌピー、久しぶり、元気そうでなにより……」
「元気だ。ココは?」
「オレも元気だよ。……たまたま近くを通ったから」
「そうなのか? てっきり、今月の飯を持ってきてくれたのかと思った」
「え?」
「??? だって、いつも給料日前は飯をくれたじゃないか」
「え?」
「オレの好物ばっかだから、ココだろうなって思ってた」
「え…」
「それに、前に空き巣とか、なんかやべーやつがウチに入ってきた時も助けてくれただろ?その後、時々うちの前をスゲーがたいの良い男がウロウロするようになって……あれさ、ご近所さんがビビるからもっと普通のやつに変えてくれよ」
「ご、ごめん……次は普通体型のやつをつけるね……」
「……もっと細いやつがいい」
「え?」
「今のココみたいに」
そう言うと、イヌピーは有無を言わさずオレの腕を引っ張った。引きずられるようにして歩きながら、オレは恥ずかしくて恥ずかしくて頭から火が出そうになっていた。
全部バレてた。オレがイヌピーをずっと見ていたことも、金欠でひもじくなったら可哀想かと思ってそっと好物の入った弁当を差し入れていたことも、古びたアパートが不法侵入された時に部下に警察のふりをさせて助けたことも、それ以来ガードを配置するようになったことも、全部。足長おじさんのつもりでこっそりやっていたのに、バレバレだったのかよ。間抜けすぎるだろ、オレ。
未練タラタラなこともバレてたんだろうな……あまりに自分が痛すぎて、かなり恥ずかしくて穴があったら入りたかった。
けれどイヌピーがオレの手を離してくれないので、オレは穴の代わりにイヌピーの家に入っていった。
イヌピーはオレの手を離さないままキッチンでお茶を入れようとしている。片手で2Lのペットボトルの蓋を開けようとして苦戦していたので、オレは空いている手でペットボトルを押さえてあげた。「サンキュ」と言いながらイヌピーは蓋を開け、グラスにお茶を注いでいく。「一個持って」と言われたので大人しく持つと、同じく片手でグラスを持つイヌピーは足で冷蔵庫を閉めた。手を繋いだまま部屋の中央にあるちゃぶ台に向かって歩いていき、イヌピーが床に座ったのでオレも座った。ワンルームしかない狭い部屋はものが少なく、必要最低限の家具とバイク雑誌くらいしか置かれていない。しかも敷きっぱなしの布団にスペースが圧迫されているので、より狭く感じる。
「ココ、顔が赤いな。暑いのか?ワリィ、今エアコン壊れてて……窓開けるか?」
「暑くない、大丈夫、適温」
「なんでカタコトなんだ?」
窓を開けて、誰かに会話を聴かれても困る。オレは今日、関卍の幹部にも、部下にすらも秘密にしてここに来たのだ。万が一があって、イヌピーに被害が被ってしまったらオレの5年間は全て無駄になってしまうと思ったので。
ちなみにこのアパートは一見壁も薄いし窓も普通のガラスに見えるが、実は防音•防弾性の壁と窓に取り替えてある。当然鍵も最新式のものに取り替えた。暴漢侵入事件の後、イヌピーが仕事に向かってからオレは少しずつこのアパートに手を加えていた。突然始まった工事だったが、イヌピーは何とも思わなかったらしくいつもと変わらぬ日々を過ごしていた。
そう言うわけなので、窓が閉まっている限りは会話を聴かれることもないし、敵対組織に襲われることもない。セキュリティレベルだけならこのアパートは日本でも指折りの状態なのである。
そんなことを考えていたら、イヌピーの顔がオレに近づいてきた。キスされる、と思ってしまうほどの至近距離まで近づいてきて、おでこをコツンと当てられた。オレの心臓はありえない心拍数を叩き出し、爆発して死にそうだった。
「なぁ、ココ、本当に暑くないのか?顔はずっと赤いし、手も熱いぞ」
「あつくない、だいじょうぶ、てきおん」
「なんでカタコトなんだ?」
イヌピーのまつ毛がパチパチと上下する。イヌピーの前髪がオレの頬に当たる。イヌピーの吐息がオレの唇に当たる。
なんの拷問かと思った。オレは今日、イヌピーの後ろ姿を見れたらそれで良いと思っていたのに。その程度の覚悟できた結果、ほとんどゼロ距離で大好きな顔を拝むことになってしまった今、オレは大パニックに陥っていた。
「だめ、いぬぴー、はなれて……」
「どうして? オレのこと嫌いなのか?」
「きらいじゃない、だからだめ……」
「じゃあオレのこと好き?」
「すき……だからはなれて……」
フフ、とイヌピーが笑った拍子に、甘い吐息がオレの唇を掠めた。
…………オレは今、何て言った?
「嬉しい、ココ。オレも好き」
呆然としたままのオレに笑いかけるイヌピーはとても綺麗だった。こっち、と服の袖を引っ張られて布団に誘導される。イヌピーは万年床の布団にコロンと仰向けに横たわり、それからオレに向かって両手を伸ばしてきた。
「ココ……」
大好きな人が、大好きな金色の髪を布団に散らして、大好きな青い瞳を潤ませて、オレに向かって手を広げている。オレのことを待ってくれているみたいに。
もう何も考えられない。心臓の音に全てを支配されたみたいになって、耳元で爆音が聞こえている。誘われるがままに手を伸ばし、暖かい身体に抱き寄せられるようにしてのしかかる。
「ココの可愛い声、いっぱい聴かせろよ。どーせ防音なんだ、誰にも聞こえないだろ?」
……アパート改造もバレバレだったらしい。
それから一晩、オレはイヌピーと触れ合えなかった5年間を埋めるみたいに、ぴったりとくっついていた。隙間を埋めるくらい、というかイヌピーにオレを埋めて、幸せな夜を堪能し尽くした。
……そう、オレは幸せな一晩をイヌピーの家で過ごしてしまった。
その日はとてもとても大切な、関卍にとっては始まりの日になるはずだったにも関わらず。
前述の通り、イヌピーに会いに来たことは関卍幹部にも、部下にすらも伝えていなかった。肝心の瞬間に携帯がなってイヌピーにバレたらまずいと思ったので、携帯の電源も切っていた。ほんの数秒間だけイヌピーを堪能したら電源を入れていつもの日常に戻るはずだった。ところがどっこい、気がつけば一晩中愛を育んでしまったのである。
オレは慌てて身体を起こして窓の外を見た。とっくに夜が明けて、太陽が顔を出し始めていた。全身から血の気が引いていくのを感じる。
「ココ……はよ……」
真っ青なオレと対照的に、イヌピーは顔を赤くして嬉しそうにオレの腰に抱きついている。チラチラと覗く首元にはオレがつけた後がたくさん散っていて、その向こうに見えるピンクに色づいた乳首は柔らかそうで可愛くて、現実逃避をしたオレの目は釘付けになっていた。「どこ見てんだよ、ココのすけべ」と言いながらイヌピーはオレに跨り、腰の上にペタンと座り込んだ。服を着ていないままのオレ達は、まるで昨晩の再現のような体勢でピッタリとくっついている。当然、オレの身体は馬鹿正直に反応してしまった。
「ココ、朝から元気だな。もっかいする?」
「イヌピー、だめだ……今すぐ離れて、オレ、行かなくちゃ」
「どこに行くんだ? もう逃さねぇって言っただろ」
「オレはもう、裏の人間だ。オマエと同じ世界は生きられない。これっきりだ」
昨晩の失態の責任をとって、オレは今日にでも死ぬのかもしれない。そんなことにイヌピーを巻き込みたくはなかった。
幸せな世界で幸せに笑うイヌピーが生きている、それがオレの救いだった。それどころか、ほんの数時間でもイヌピーをオレのものにすることができた。
それだけでいい。それだけで、オレは幸せになれるから。
「地獄に落ちるのはオレ1人でいい」
イヌピーをどかして、脱ぎ散らかされた服を手早く羽織っていく。その間、できるだけイヌピーを見ないようにした。決心が鈍ってしまいそうだったから。
「じゃあ……、これでサヨナラだ」
イヌピーを見ないまま、背中を向けてドアに向かった。最後に玄関脇に落ちていた携帯を拾い、電源ボタンを押そうとした、その瞬間。
トス、
後ろから暖かいものに抱きしめられた。オレを引き止めるみたいにぎゅうぎゅうと締め付けてくる。
「ココ、もう逃さねぇって言っただろ……オレも地獄に連れてって」
鼻がツンと痛む。目が熱くなってじわじわと何かが昇ってくる。目の前がぼやけて、ポタリ、ポタリと携帯の画面に水滴が落ちていく。電源が落ちたままでよかった、感電せずに済んだから。
振り返って、優しい熱を抱きしめる。カタン、携帯が床に落ちる音がした。いつのまにか手放していたらしい。そんなものどうでもいい、オレは今、目の前の幸福を抱きしめるので手一杯なのだから。
それからどうしたかって?
オレが愛しい愛しい、大切で大好きなイヌピーを死なせるわけないだろ。
いくらでもやり方はある。オレが抜けた関卍を別ルートで潰す、国内外の逃亡、顔を変える、身分証偽装、関卍に戻って取引をしたっていい。作戦が一つ潰れても、大抵はバックアッププランを用意しているものだからな。どうとでも言い訳はできる。まぁ、最後の案は普通に殺されそうなので採用可能性は低いが。あと、やっぱ顔を変えるのもなし。イヌピーの美しい顔は絶対にいじりたくない。
まぁ、そっから先は神のみぞ知る展開ということで。
一つだけ確かなことを言っておくと、オレとイヌピーは最後まで一緒だった。
地獄の底でも、2人で手を繋いで歩けばそこが幸せの道だったというわけだ。