なんでもいうこときく券「ココ、これ……」
ある日ソファに座って仕事をしていたら、彼が横に突っ立ったまま目の前に何かを差し出してきた。なんだこれ? とよく見ると、真ん中に汚ねぇ字で「なんでもいうこときく券」とだけ書かれた白い紙だった。元々の紙をちぎって作ったのか、端の部分がヨレヨレになっている。
顔を上げて差出人を見ると、気まずそうな瞳と目が合った。
「……この前の取引、ぶち壊してわるかった」
先週、かなりの大口の取引が山場を迎えていた。進捗はボスにも、もちろん特攻隊長の彼にも伝えていたはずだった。何があっても大人しく、穏便に、とにかくサインさせるところまで持っていくのだと何度も幹部会で確認した。
取引相手のクソジジイは変態趣味で、オレらくらいの未成年に見境なく手を出すようなクズだった。オレの手を撫で回しながらにやける気持ちの悪い面を何度ぶん殴ってやりたいと思ったことが。オレですらそうなのだ。幼馴染の美しい顔、まだ完成しきっていない薄い身体は格好の餌食になるだろう。だから一度も連れて行ったことはなかった。うざいジジイのムカつく挙動についての愚痴だけ聞いてくれたらそれで充分だった。
先週の「大詰め」も、オレ一人で行くはずだった。それなのに、幹部会の最中で突然「オレも行く」と彼は言い出した。我慢の嫌いな彼が今回の取引に向いていないことは火を見るよりも明らかで、オレとボスは散々「無理だ、やめろ」と説得をした。けれどなかなか頑固なところのある彼は、首を横に振り続けた。埒が開かない。ため息をつきながら隣に立つ男の説得を試みようとした、その時だった。
「ココ、頼む」
つれてって、と甘えるような声で彼は強請ってくる。オレの袖口を掴みながら、その美しい瞳でオレの顔を見つめている。彼は頭が悪いのに策略家だった。どうしたら自分の意見を通せるのかをよく知っている。
「ココ、お願い」
真っ赤になって首振り人形みたいにコクコクと頷くオレに向かって、大寿は呆れたように呟いた。「責任取れよ、ココ」
そして、結論から言うと取引は大失敗した。
オレと大寿が散々言い聞かせたからか、イヌピーは相変わらず何考えてんのか分からない無表情で大人しくオレの後ろに控えていた。クソジジイが彼の肩に手を置いたり、掠めるように腰を触っても、彼はしれっとした顔でつっ立っていた。オレの方が神経逆撫でされてぶっ殺してやりたくなったけれど、我慢の嫌いな彼が風俗の女のような扱いをされても耐えている(?)のに、せっかくの努力を台無しにしたくはなかったので我慢した。脳内で100回は殺したけど。
人形みたいに反応がない彼に興を削がれたのか、クソジジイはオレの手を油ぎった手で撫で回し始めた。いつもなら冷たくあしらうが、今日に関しては後ろの彼に矛先が向かうくらいならオレに向けていて欲しい。そう思って目を伏せながら「やめてください」と小さな声で、けれどクソジジイに聞こえるように呟いた。この手のクズは、ちょっとの抵抗に興奮するタイプだ。
想定通り、無反応の美少年から反応を返すオレに興味を移したジジイが、油ぎった顔をこちらに近づけてくる。脳内で散々タコ殴りにしてから、「まだ契約終わってませんよ……」とわざとらしくシナを作りながらジジイにハンコを掴ませた。その瞬間だった。
「テメェ!!! 汚ねぇ手でココに触んな!!!」
目の前にいたクソ野郎は、オレの後ろにいたはずの男にぶん殴られて吹っ飛んでいった。
以降の説明は不要だろうが、結果としてここ数ヶ月間のオレの我慢は一瞬で塵になったのである。
取引後、流石に頭にキていたオレは彼と口をきかなかった。次の日にはコチラをチラチラと伺う様子が可愛くて絆されそうになっていたけど、決してオレから話しかけることはしなかった。珍しく彼の方がオレを気にかけることが嬉しくて、途中から状況を楽しみ始めていたことは認める。
それから一週間経っても「しょうがねぇナ、次は気をつけろよ、イヌピー」といつものように甘やかされないことに焦ったのか、イヌピーはオレに「なんでもいうこときく券」を差し出したというわけだ。
きったねぇ字は間違いなく彼の直筆で、つまり彼は自分の意思で「なんでもいうことをきく」権利をオレに渡そうとしている。なんてバカなんだ。
オレはオマエに、この間のジジイより酷い劣情を抱いているのに。
「……なんでもって、どこまで?」
「! ……ココが、やりたいことなんでも」
「なんでも、ねぇ」
「ダメにした金は、オレじゃ返せねぇ。でもその代わりになんでもする。だから、ココ……」
許して、と訴えかける瞳はキラキラしている。オマエのそういうところがずるいよ。オレはなんでもしてやりたくなってしまうから。脳内のイヌピーには何度も酷いことをしているのに、本物のオマエに見つめられると、大切にしたくて、尽くしたくて、優しくしたくてたまらなくなってしまう。
だからいつも、汚いものに蓋をして優しい親友の顔をし続けている。
オレはわざとらしくため息をついて、やれやれといった体で白い紙を受け取った。
「しょうがねぇナ、次は気をつけろよ、イヌピー」
「うん、ココ、ごめん」
「なんでもいうこときく、なんて他のやつには絶対言うなよ」
「うん、ココだけだ。ココのためならなんでもする」
無表情の中に嬉しそうな色を滲ませながら彼は隣に腰掛けた。体重で少しソファが沈む、横にある熱量の分だけ空気が揺らぐ、何も言わないくせに何よりも雄弁にオレに語りかける瞳がコチラを向いている。
もう、それだけでいいよ。ずっとオマエの隣にいられるなら、オレはそれだけで幸せになれるから。
パソコンに向き直って作業を再開する。イヌピーは何にもわからないくせに、じっとオレの手元を覗きながら横に座り続けていた。
ある満月の夜、イヌピー にツーリングへ誘われた。二つ返事をしてオレの指定席に跨り、イヌピー の荒い運転で夜の街を駆けていく。大型トラックやタクシーがまばらに走る隙間をぬって、風を切りながら無言で走り続ける。
それからしばらくして、街を抜けた先の誰もいない場所でイヌピーが突然バイクを止めた。どうしたんだ? 問うように腰に回した腕を揺らすと、イヌピー は振り返らないままオレに問いかけた。
「なぁ、使わねえの?」
イヌピーは言葉選びが下手で、会話ですらオレに全てを委ねてくる。
何日経っても例の券を使おうとしないオレに、どうやら痺れを切らしたらしい。そんな主語のない会話、オレじゃなきゃわかんねぇよ。
「……無くしたから、もう忘れろ」
使えるわけねぇじゃん、あんな紙切れ。何の拘束力もねぇのに。
後部座席に座るオレからはイヌピーの後頭部しか見えない。金髪が満月に照らされてキラキラ輝く様子はとても綺麗だ。強く抱きしめると、少しだけ肩が跳ねて金糸が揺れた。
背中に身体をピッタリとくっつける。イヌピーの心臓が力強く脈を打っているのが伝わってくる。
そっか、と呟くと、イヌピー は再びバイクを転がし始める。
そうして誰もいない夜の世界を、ただ2人きりで駆け抜けていった。
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閉店後のバイク屋に突然やってきた男は、驚いて言葉の出ないオレを無視して一言だけ告げた。
「……なんでもって、どこまで?」
そう言いながら目の前に差し出された黄ばんだボロい紙切れには、きたねぇ字で「なんでもいうこときく券」とだけ書かれている。オレの字だ。
無言で紙を差し出す男の顔を見る。酷いくまがあり、プラチナブロンドの髪は艶を失ってバサバサになっている。赤いチャイナ服の袖口から見える腕は可哀想なくらい細い。真っ黒な瞳は昔よりもさらに深い闇の色をしていて、まるで知らない男みたいだった。
「……ココがやりたいこと、なんでも」
一瞬で覚悟を決めてそう返すと、目の前の男は幼い表情で少しだけ笑った。