30万の犬「オマエを一晩買った男がいる。逆らわずに、大人しくしていられるな?」
イザナからそう言われた時、「ハイ」とだけ答えた。一晩を買う、それが何を意味しているのか分かっていたけれど、それがボスの言うことなら従わない理由なんてなかった。
男同士でセックスできることも知っていた。
族のセンパイ達が「下手な女よりイイ」って言っているのを耳にしたことがあったし、シンイチロウくんやワカくんからもそんな感じの話を聞いたことがあったから。
「青宗にはまだ早いかな〜」
「もう少し大きくなったらワルイコトなんでも教えてやるよ」
そう言って笑う2人に「チビイヌに何を教えてるんだ」とベンケイくんがゲンコツを落として、パチンコで有り金をスったタケオミくんにもついでにグーパンしていた。「その金は家計に入れる用だったんじゃねぇのか」中々に最低なやり取りだ。最低だけれど、オレにとっては最高だった。たった一つの心が休まる大切な場所だった。一度知ってしまえば、失う事が怖くなった。
だから初代のみんなが去ってしまっても、憧れたものがかけらも残っていなくても、オレは黒龍という箱にしがみつき続けた。
どんな命令にでも従う忠犬、周りからそう揶揄されようが関係ない。当時のオレはそれが黒龍のためになると本気で信じていたのだ。
ある日の集会後、側近としてそばに控えていたオレに向かってイザナはニコニコした笑顔を向けた。ニマニマだったかもしれない、どっちでもいい。
機嫌が悪いと理由なく殴られることがしょっちゅうだったので、今日のイザナを見て腹パンされずに済むことがわかった。少しだけホッとする。痛いのは普通に嫌だし。
けれど、同時にものすごく嫌な予感がしていた。ここで嫌そうな顔をすると殴られるので、表情には出さないようにしてイザナを見つめる。相変わらずニヤニヤとした顔のままイザナはオレの肩に腕を回して耳元で囁いた。
「オマエを一晩買った男がいる。逆らわずに、大人しくしていられるな?」
主人に問われたことに対して「ハイ」以外の答えなんてない。予定通りの答えを返すオレに満足したイザナは手のひらに白い紙を握らせてきた。
カサカサと音がするそれを覗いてみると「××ホテル、1504、23:00〜」とだけ書かれてたメモだった。
集会が始まったのが21:00、それから1時間は経っている。今から向かったらちょうど良いかもしれない。そんなことを考えているオレをよそに、イザナは耳元で囁き続ける。
「よかったな乾、黒龍の役に立てるぞ」
「ハイ」
「金もらってんだ、少しくらい綺麗にしておけよ」
色々な感情や思考がオレの頭の中に渦巻いた。
けれど、最終的には一つの綺麗な映像に落ち着いた。図書館で本を読む幼馴染の姿だった。夕陽が差し込み、オレンジ色の暖かい光に包まれて、彼は真剣な顔をしながら難しい本を読んでいる。時々、顔が上がってオレと目が合う。嬉しくて見つめ続けていると、ぷいと視線がそらされる。
寂しいけれど、目が合うだけでもよかった。顔を見れたらそれでよかった。気まぐれに寄越されるその視線のためだけに、オレは何の興味もない図書館に通っていた。好きだったから。
そんなことを考えていたら、痺れを切らしたイザナに頭を叩かれた。
「オイ、テメェなにボケっとしてんだ」
頭をさすりながら目を瞑り、もう一度だけ幼馴染の端正な顔立ちを思い出す。それから、思考から追い出すように頭を振って「すぐに向かいます」とイザナに答えた。
オレの呟きを聞いたイザナは機嫌良さそうに背を向けて歩き出す。オマエにはもう用がない、そんな声が聞こえた気がした。
手の中にある白い紙を握りつぶす。オレの手元には1円も入ってこないと知っていたけど、それが黒龍のためになるならそれでいい。その時のオレは本気でそう思い込もうとしていた。
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指定されたホテルはとても大きくて高そうな場所だった。今日は抗争こそなかったが、綺麗とは言えない特攻服で来たオレは間違いなく場違いだ。
周りの大人達から向けられる視線に居心地の悪さを感じる。この感覚は覚えがある。火事の後に向けられた周囲の視線とよく似ている。あぁ、早く帰りたい。視線を避けるように俯いた。
ピカピカに磨かれた床が目に入り、ふと、あまり綺麗とは言えないバイク屋の床を思い出した。
工具がたくさん転がっていて、時々つまづきそうになったことがある。それを見たベンケイくんが「使ったら元の場所に戻せ」とシンイチロウくんに注意していた。工具だけじゃなくて、昼間から酒を飲んだくれたワカくんも時々転がっていた。散らかっていてあまり綺麗じゃないけど、ソコはなんだかキラキラと輝いていた。帰りたい、かえりたい。あの頃の黒龍にかえりたい。
けれどもう帰る場所なんてない。じゃあ、前に進むしかない。床から顔を上げて真っ直ぐフロントに向かい、受付の人に部屋番号を伝えた。
あらかじめ話を聞いていたのだろうか、特に何も言われることはなく鍵を渡された。
「お先にお部屋でお待ちいただくよう、言伝をいただいております」
エレベーターに乗り、黒いセンサーにカード式の鍵を押し当てる。15階のボタンを押すと扉は静かに閉まった。重力に押さえつけられる感覚がするので静かに上昇しているらしい。このまま落下してしまわないかな、そんなありえない妄想をした。
チン
エレベーターを降り部屋に向かう。エレベーター同様、ドア横にある黒いセンサーにカードを押し当てると、ピー、ガシャン、と音がして鍵が開いた。
部屋は真っ暗で人の気配がない。カードキーをドア横に差し込むと、パッ、と明かりがついた。
急に明るくなった世界に追いつかず、目をパチパチさせる。ぼんやりする視界のまま見回すと、高級そうな建物の外見に負けない広くて綺麗な部屋だった。奥の部屋に大きなベッドがあり、その上にバスローブが二つ置かれているのが目に入る。
大きなベッドは整えられていて、シワひとつないシーツが目に入った。
その瞬間、現実を突きつけられたオレは体が動かなくなってしまった。
立ち尽くしたまま呆然としていたら、部屋の外から鍵が開く音がした。ピー、ガチャン、バタン。オレじゃないなら、別の誰かが部屋に入ってきたのだ。
どうしよう、来てしまった。目の前の白いバスローブを見つめたままイザナの言葉を思い出す。
「金もらってんだ、少しくらい綺麗にしておけよ」
ヤバい、何にも準備していない。そのせいで、金、ちゃんともらえなかったらどうしよう。この後、どうしよう。オレ、今から、どうなるの。
コツ、コツ、と知らない誰かが近づいてくる音がする。振り向けない。振り向く勇気がない。
背後で足音が立ち止まった。後ろの気配は迷うように一呼吸おいた後、そっと声をかけてきた。
「イヌピー 」
知っている声がして、幻聴かと思った。
びっくりしたまま勢いよく振り返ると、そこにはほんの一時間前に頭に思い浮かべ彼が立っていた。どうして、も、ココ、も出てこなくて、パクパクと口を動かすことしかできない。
パチリと視線が合う。切れ長の目がそらされることなくオレを見つめてくれている。喜びが身体中を駆け巡った。あの夕暮れの図書館にいるみたいだ。こんなことでほんのり心が暖かくなるなんて、オレは単純なのだろうか。
「イヌピー、風呂入った」
「ううん」
「そう、じゃあオレも入るから、一緒に入ろ」
「うん」
当たり前のように続けられる会話に、ふわふわした頭のまま流される。ココはバスローブを二つ手に取るとオレの手を引いてくれた。手のひらから伝わる体温にまたひとつ心臓が跳ねる。
ココが玄関近くのドアを開けると、広めの洗面台と、ガラス張り向こう側に風呂場が見えた。
汚れた特攻服を脱がされて、頭の上からシャワーをかけられる。
体にまとわりつく汗や埃が流れ落ちていき、スッキリした気分で頭を振る。水滴がココの顔まで飛ぶので、「ハハ、イヌピー、本当に犬みたい」と笑われた。犬でいいよ、ココに頭を洗ってもらえるのなら。何もかも委ねるみたいにしていたら、ココは何もかもを丁寧にやってくれた。
身体中あわあわにされて、もう一度頭から温水で流される。だからまた頭を振ると、ココは楽しそうに笑った。
シャワー室から出る時、ココは浴槽にお湯を貯め始めた。「いまさら?」と聞くと、「あとで入れるようにしておくの」と返される。風呂場の蛇口からジャージャーと水が流れてくる。溢れる前に止めなきゃな、忘れるなよ、そっちこそ。そんなことを話しながらココに体を拭いてもらい、オレ達は部屋に戻ってきた。
2人でベッドに座る。ふかふかしていて柔らかい。高いベッド、すごい。ここに寝転んだら気持ちがいいと思う。
ポフポフと跳ねてみたりして感触を楽しんでいると、ココにそっと手を握られた。
「ねぇ、イヌピー、どうしてこんなところにいるの?」
真剣な顔にそう問われて、ハッとした。そうだ、オレは何を浮かれていたんだ。此処には金をもらって一晩の仕事をしにきたのだ。
気まずい気持ちでいっぱいになって、目線が泳いでしまう。そんなオレの手を、逃さないとでも言うかなようにココが強く握りしめてくる。しぶしぶ口を開いた。
「此処に来いって書いた紙を、イザナに渡されて」
「そうなんだ。でもイヌピー、オレが聞いてるのは『どうして』であって、此処に来るまでの経緯じゃないよ」
「それは……」
言い淀んでしまった。オレを一晩買った男がいる。そんなことを目の前にいる綺麗な男に知られたくなかった。
そこでふと思い出す。オレは男に買われて此処にきた。じゃあ、オレを買った男は何をしているんだろう。ベッド脇にある電子表示の時計を見ると日付を超えそうになっている。約束の時間はとっくに過ぎている。じゃあ、男はどこにいるんだ? というか、そもそも、
「ココ……ココはどうしてこんな所にいるんだ?」
そう聞くと、目の前の男はニコッと笑った。その笑顔があまりに胡散臭くて、背中に冷たい汗が流れていくのを感じる。
思わず後ろに身体を逸らして後ずさろうとしたけれど、ココに握られた手がそれを許さない。
ニコニコと人の良さそうな顔で笑いながら、男は手の甲に爪を立ててきた。ガリッ、と音がするくらい強く引っ掻かれて、痛い。
これまで、図書館で会う時はずっとココに視線を逸らされてばかりで寂しかった。今、目の前にいる男はまっすぐオレを見てくれている。それなのにオレはその視線を受け止めきれなくて、ぷい、と目線を切ってしまった。まるでいつもの彼みたいに。
「どうしてオレがここにいるかって?」
不意に、目の前が暗くなった。天井のライトを遮るように目の前の男が近づいたからだ。血が出るくらい引っ掻かれた手を離されて、その代わりに頬にココの手が添えられた。キスをするくらい近い距離で、唇が触れそうな場所から、ココはオレに教えてくれた。
「オレが今日、30万円で犬を買ったからだよ」