トラウマの上塗り乾が初めて「そういうこと」を見たのは、イザナの下にいる頃だった。イザナの指示に従って名も知らぬチンピラ供をボコした帰り道、見知った黒龍のメンツが路地裏でたむろしているのを見かけた。別に親しくもない、仕事のために一時話たことがある程度の関わりで名前も覚えていない。けれど向こうはこちらの顔も名前もバッチリ覚えていたらしい。「乾君、こっち来てみなよ」いつもなら無視するような声がけに、気まぐれに振り向いて近づいた。
裏通りの暗闇を進むにつれて、高くて小さい女の悲鳴が聞こえて来るようになった。まさか数人の男がよって集って女をリンチでもしているのかと訝しみつつ覗き込むと、服がはだけた女が2人、男達の下で柔らかな肢体を淫らにくねらせていた。女はうっとりと蕩ける表情で目元を緩ませ、快楽に顔を歪ませている。男達が身体を動かし女の身体に触れるたび、甲高い声が路地裏にこだまする。
年頃の少年にとって、それは言葉にならないほど衝撃的な出来事だった。
黒龍の男たちはほんのわずかに年上だったが、喧嘩の腕は乾に劣る。普段は乾が群れの上位に位置する力関係だった。しかし、この路地裏という限定的な瞬間においてはそれが逆転していた。乾は彼らに「そういうこと」の知識と経験で劣っていたので、衝撃で固まってしまうのも無理はなかった。
女の裸体を見つめたまま言葉の出ない乾に、顔見知りの男が肩を叩きながら話しかけてきた。「一緒にどう?」善意か、または乾の弱みでも握る目的なのか真意のほどはわからない。けれど乾を「仲間」にするべく彼は声をかけてきたのだ。断れば腰抜け、受ければあの中の一員になる、どちらかを選ばなければならない。動揺したまま迷っていると、誰かがズボンを強く引っ張った。足元を見ると細くて折れそうな女の手がズボンの裾を掴んでいる。「ねぇ、あんた綺麗。しようよ」女の目は焦点があっておらず、口調も舌足らずな様子だった。激しく動いているにも関わらず顔色が悪く、冷や汗もかいている。視界から消すように女から視線を外し、乾は隣に立っている男を睨みつける。
「オイ、ヤクを使っているのか」
「ほんの少しね」
「まさかウチのをくすねたのか」
「……乾君も、どう?」
そう言って握らされたビニール袋は男の体温が移って生暖かい。男の目的がようやく読めた。イザナの側近の乾を言いくるめて仲間にする事で、チームのアガリに手を出したことがバレた時の保険にしようとしていたのだ。
女の手が乾の足に回される。男の手が肩に回される。他の誰かも、乾の腰や腹回りに手を回してきた。
もう、限界だった。
乾は足元の女に蹴りを入れ、横に突っ立っている男の首に肘鉄をかまし、回し蹴りをしてまとわりつく奴らを振り払った。手に持たされたビニール袋を投げ捨てて、そして路地裏を飛び出した。メチャクチャに走って、走って、息が苦しくなっても足を止めずに走った。ようやく速度を緩めたのはアジトにしている建物が遠くに見えてきてからで、足を止めたのはドアに手をかけてからだった。荒れてしまった呼吸を必死で整えて、ゼェゼェと苦しい息を吐き出しながら鍵を開けて中に入る。鍵がかかっていたということは、片割れがまだ帰って来ていないということだ。乾は少しほっとして、2人がけのソファに乱れた息のまま座り込んだ。
はぁ、はぁ。息が整わない。酸素が足りない頭の中に、先ほどの光景が浮かんでくる。薄暗い路地裏、男たちの汚れた手、そこかしこが汚い地面と壁、女の甲高い喘ぎ声、香水とゴミの匂いが混ざった臭い匂い、乾を見つめるねちっこい視線、身体に回された腕、撫で回される感触。全部、全部、気持ちが悪くて仕方がなかった。
「う……おぇぇ……」
湧き上がってきた嘔吐間に、乾は慌ててトイレに駆け込んだ。朝から何も食べていない胃袋から送り出されるのはツンとした匂いのする液体だけで、受け皿のトイレは大して汚していない。けれど汚い何かを吐き出すように、そのまましばらく乾は嘔吐き続けた。このまま記憶も全部吐き出してしまいたかったけれど、こびりついた汚れみたいなそれは何度も吐き出そうとしても記憶から消えてはくれなかった。
しばらくトイレに篭った後、口を濯いでからソファのある部屋に戻ると黒髪の少年がソファで携帯をいじっていた。その後ろ姿を見た瞬間、乾の胃袋がほんの少し軽くなったような気がした。
「ココ」
声をかけると、黒髪の少年は二つ折りの携帯をパチンと閉じてこちらに振り返った。髪の毛はピシッと決まっていて、学校指定の制服はシワもなく、ネクタイは少し首元が緩められているけれど真っ直ぐに締められている。清廉潔白で真面目そうな顔をした、幼馴染の九井一がそこにいた。
「イヌピー、先帰ってたんだ。珍しいね、こんな時間にいるなんて」
「イザナのとこ寄らずに帰ってきたから」
「そっか、メシは?」
「まだ」
「じゃあ、外行こうぜ」
何食いたい?と尋ねながら九井は携帯をカコカコといじる。「この店どう?最近見つけてさ」そう言って自然に乾の横に立ち、携帯画面が2人で見えるように顔を近づけてくる。九井からは整髪料の匂いと彼自身の匂いが混ざった香りがする。その匂いを嗅いだ乾の身体からは力が抜けていった。もたれかかるみたいに頭を九井の肩に乗せると、九井は店のオススメについて語りながら乾の腰に手を回してくる。広いアジトの中で、2人小さくまとまる様にくっついていた。
九井の声が心地よくて言われた言葉に聞き入る様にして「うん、うん」と返し続けていると、九井は額同士をくっつけながら「オイ、聞いてんのか」と拗ねた顔をした。まっすぐこちらを見つめる黒い瞳はとても綺麗に見える。
「聞いてる。ココの食いたいものでイイよ、どーせ端から頼んで、オレは一口ずつつまむだけだし」
「アハハ、まぁね!」
九井は笑って、そのまま乾の腰から手を引いた。「じゃ、ここにしよう。準備してくるわ」着替えのために部屋を出ていく背中を見送りながら、乾はほんの少し寂しさを感じていた。抱きしめられてるみたいに添えられた手に、暖かいぬくもりにもっと包まれていたかった。
気持ちの悪い記憶を、上書きして欲しかったから。
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「待ってたぜ、イヌピー」
出所後に乾を迎えてくれたのはたった一人の大切な親友だけだった。それが悲しいことだとは思わない。むしろ、お互いに無関心でいる両親や、下手に顔見知りの連中がワラワラと集まってこなかったことに感謝しているくらいだ。
一年ぶりに聞いた九井の声は優しくて心地の良い音をしていた。もっと聞いていたくて、九井の隣を歩きながらたわいも無い会話を続けた。黒龍復活の夢を諦めていない旨を告げると、九井は何か言いたげな顔で乾を見つめてから諦めた様にため息を吐き出した。
「アテがある。ウチの学校に化け物がいる」
そうして紹介された柴大寿は本当に化け物みたいな男だった。タイマンの末ボコボコになされた乾は彼に忠誠を誓って、それから気がついたら九井も大寿の傘下に加えられていた。
乾は少しドキリとして、それからすぐにホッとした。自分の大切な幼馴染で親友の彼なら、きっと今までみたいに乾の横にいてくれるはずだと期待したから。
九井が大寿と一言二言会を交わした後、ボコボコにされた乾に肩を貸しながら二人で帰路に着いた。乾は何度も地面に転がされたので砂まみれの泥だらけだったので、触った場所から九井の綺麗な制服を汚していた。
「汚くてごめん」
「いいよ、制服は洗えばいいんだ。イヌピーに手を貸さないなんて、オレがそんなことするわけないだろ」
「ありがと、ココ」
「怪我は痛く無い?」
「殴られたところ全部ぐちゃぐちゃになってる」
「アジトついたら手当てしてやるからな」
「……ココ、本当に良かったのか?お前は黒龍に興味ねーだろ」
「いいよ。いつかこうなる気がしてた。それならオレはイヌピーのそばにいたい」
九井は肩を組んだままこちらに顔を向け、柔らかく微笑んだ。放課後の時間、西日で黒髪がキラキラと煌めいて、まっくろな瞳は真っ直ぐに乾を射抜いている。とても綺麗な光景だった。アジトについて、手当てをしてもらっている間も、キラキラした光に包まれている様な気がした。
シャワーを浴びて汗を流し、傷口を綺麗にしてから九井に手当てをされて、それから髪も乾かしてもらう。優しい手で頭をかき混ぜられながらドライヤーの音を聞き続けるうちに乾はウトウトし始めた。少年院での生活ですっかり早寝早起きが習慣化した事もあるが、格上相手との喧嘩は久々に外に出てきた乾の体力を予想以上に奪っていたらしい。乾のお世話を優先した九井は、一通り終わって布団にコロリと横になる乾を見届けてから「オレもシャワー浴びてくる」と言い残して部屋を出て行った。昔から二人で使っていたダブルベッドは大きくて、大の字で仰向けに寝転んでも余裕で受け止めてくれる。少年院のペラペラの負担とは違う、柔らかく包み込む感触は乾を眠りの世界へ引き摺り落とした。
「イヌピー、もーちょい詰めて、オレが眠れない」
「んー……」
「まったくもー」
いつのまにか九井が戻ってきて、布団を占領する乾の横に腰掛けていた。ぶつぶつ呟く九井に身体を転がされ、背中を向ける形でスペースを半分譲る。背後で九井が寝転んでスプリングが揺れるので、少しだけ意識が現実に引き戻された。
「大寿、強かっただろ」
「ん……」
「いくつか目星つけていた中で、アイツが一番頭がキレて腕っぷしがある。イヌピーの夢を叶えるのに適した人材だ。うまくいきそうで良かったよ」
「ん……」
「マジで眠そうだな。こんな時間に寝るなんて健康優良児じゃん、ウケる。イヌピー、年少の生活はどうだった?」
「どうって…別に…」
九井の声は穏やかで、乾を甘やかすみたいな音をしている。たいした返事ができなかったけれど、彼の声が乾の中に染み込んでくるのが心地よくて子守唄みたいだった。
「喧嘩とかしなかったの?イヌピー血の気多いじゃん」
「してない」
「同室のやつと仲良くしてた?」
「フツー」
「抜く時とかどーしてたの?ヤローが複数人、部屋一緒なんだろ」
「……は、何、いきなり」
一瞬何を言われたのか言葉が入ってこなかった。言われた言葉を理解して、ウトウトしていた頭かスッと冷える。
下世話な話が無かったわけじゃない。生理現象を解消する方法は自分で慰めるか、気の迷いで男同士が営むかの2択だった。同室の奴らが看守の目を盗んで「そういうこと」をし始めるのに時間はかからなかった。乾はその度に部屋の端で耳を塞ぐ必要があったし、トラウマの蓋をキツく閉めて吐きそうになるのを抑え続けていた。誘ってくるやつもいたが丁寧に、または乱暴に何度も断るうちに声はかからなくなった。そうして一年間、あの日上書きした幼馴染の温もりを何度も何度も思い出していた。
「生理現象なんだから、そういうのあっただろ」
「るせーな、ココには関係ないだろ。やなこと思い出させんな」
「ナニソレ、中で何かあったってこと?」
「ねぇよ」
「男同士で?」
「なんなんだよさっきから、どうでもいいだろ」
嫌な事を思い出させられてイライラしながら強い口調で返す。一方で九井は淡々とした口調だった。いつのまにか、それは乾にとって心地よい音ではなくなっていた。
「どうでもよくねーよ」
ギシリ、ベットのスプリングが音を立てる。九井が背後で起き上がる気配がする。
「オレはイヌピーと『そういうこと』したいんだから」
静かな声に何を言われたのか飲み込めなくて、乾の思考は停止した。
「……は?」
「この、細い腰を見るたびに鷲掴んで、好きにしてしまいたいと思ってた」
背中側から伸びてきた男の手が、乾のシャツをめくって腰骨を掴んだ。冷たい手は横腹、腹回り、太腿を撫でまわし始める。鳥肌が止まらない。
「イヌピーはオレのこと、好き?」
「そーゆーんじゃねぇだろ、オレたち」
「言い方変えるわ。黒龍の復活にオレが必要?」
「うん」
「イヌピーにはオレが必要?」
「うん……」
「イヌピーにはオレしかいねぇよな?」
「……うん」
「なぁ、イヌピー、オレのこと好き?」
「………………うん」
乾の下半身を這いずり回っていた手が、今度は肩を掴んで仰向けに引き倒した。柔らかい布団に包まれながら天井を見上げると、冷たい顔をした男がこちらを見下ろしている。真っ青になった乾の頬に手を添えると男はキスをしてきた。
ちゅ、ちゅ、と啄む様なキスが角度を変えて少しずつ深くなっていく。呼吸が苦しいのに、弱い力で男の胸板を押しても強く肩を掴み返されるだけだった。
ガタガタと震える体が止まらない。何度もキスを重ねられて息ができない。酸素が足りない頭の中、遠くの方で甲高い声が聞こえた。あの時の女もこうして男に組み敷かれていた。女は柔らかな肢体を淫らにくねらせて、快楽に顔を歪ませていた。薄暗い路地裏、男たちの汚れた手、そこかしこが汚い地面と壁、女の甲高い喘ぎ声、香水とゴミの匂いが混ざった臭い匂い、乾を見つめるねちっこい視線、身体に回された腕、撫で回される感触。全部、全部、気持ちが悪くて仕方がなかった。
「イヌピー」
あの日トラウマを上書きしてくれた幼馴染の優しさが少しずつ削られていくようだった。柔らかい唇は乾の顔中に降り注いで、時々甘噛みされる。その度に一枚ずつ何かを剥がされていく気がする。
キスの嵐から解放されても男の顔を見られなかった。自分を守るみたいに身体を縮こまらせながら目線を逸らす。乾の顔を挟む様にして手が置かれる。男の影が乾を覆い隠して顔が近付いてくる。
また、キスされる。
「イヌピー」
ガラガラと何かが崩れていく音が、男の声と重なった。
天井を見上げてぼんやりとしていたら、乾の上で動いていた男が息を吐き出しながらぐりぐりと身体を押し付けてきた。しばらくそうして満足したのか、ようやく身体をどかして乾の隣に寝転んだ。ギシリ、スプリングが軋む音から逃げるように背中を向けると、すぐに暖かい腕が追いかけてきて後ろから抱きしめられる。心臓が脈打つ音がダイレクトに伝わってくる。汗をかいた肌が触れ合って気持ちが悪い。
「手に入れても幸せになれないことなんてわかってた。それでも、何かが満たされるような気がしたんだ」
まともに言葉をくれないくせに逃げ道を塞いで、酷いことをするくせに優しさで上塗りする。最低だと思うのに、乾はその手を離せない。この腕以外に乾を抱きしめてくれる人はいないから。
「お願い、オレと一緒に地獄に堕ちてよ」
「……うん」
ポロポロと熱い液体が頬を伝って布団に落ちていく。声も出さずにそうしていると、背後から「泣かないで」と優しい幼馴染の声がした。「泣かしてんのはテメェだよ」と乾は内心キレながら、腹に回された腕に縋り付くことしかできなかった。