その日が何の日なのかオレは知らない普段は酒に弱い乾が龍宮寺にお世話されているが、一年に一回、龍宮寺がハメを外す日があることを乾だけが知っている。
前日からやたらテンション高めの龍宮寺が「なぁ、イヌピー明日暇?」と話しかけてくる。毎年同じ言葉をかけられるので、いい加減覚えてしまった。
あぁ、そろそろだったか。乾がそう思いながら「暇だよ」と返すと、「常連さんにいい酒貰ってさ。明後日休みだし、明日の仕事終わりにちょっと飲まねぇか?」といい笑顔で龍宮寺が続ける。
乾は黙って頷きながら、長い金髪を束ねている青いシュシュを外した。
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良いペースで酒を飲み進める龍宮寺の横で、乾は烏龍茶を口に含む。最初に注がれたビールは一口だけ飲んで机に置いていたので、とっくの昔に泡が無くなっていた。薄い麦茶みたいな色をしたそれを横目に色の濃い烏龍茶をコップに継ぎ足して、また一口飲む。それを繰り返しながら龍宮寺の話に相槌を打ち続けた。
「はーー、やっぱ高ぇ酒はうめぇな。イヌピーも飲む?」そう言って日本酒をこちらに向けてくる龍宮寺に「これ飲み終わったらにする」と乾が返す。何度目かわからない会話でも、「コップ空いたら注ぐよ」と龍宮寺は機嫌良さそうに笑った。
楽しそうな酔っ払いはもたれるように乾の肩に頭を乗せる。そして鼻歌を歌いながら、乾の長い金髪を手遊びするように触った。
「イヌピーっていつから髪伸ばしてんの?」
「けっこー前、覚えてねぇよ」
「ふーん、でも手入れしてねぇからかな、枝毛だらけじゃん。トリートメントしてんの?」
「いんだよ、よくわかんねぇし」
「風呂上がりはちゃんとドライヤーしてんのか?乾かさねぇで寝ると髪が痛むぞ」
「ドラケンはくわしいな」
「いやこれくらい普通だろ。実家の女達はもっと色々つけてたぜ、風呂上がりのオイルとか、流さないトリートメントとか、なんかいい匂いするやつ」
そういえば、昔は隣にいた男もなんだかよくわからないものを風呂上がりにベタベタとつけていた。乾は湿らす程度にお茶を口に含みながら、遠い昔の日々を思い返す。
男の寝る前の支度があまりに長いので、いつも乾より先にシャワーに行かせていた。交代して、オレが風呂入ってる間にとっとと終わらせてくれ。そう思いながらシャワーを浴びて浴室から出てきても、男はまだ同じ場所に座って何かしている。いつもそうだった。「イヌピーが烏の行水なんだよ」と言われたこともあるが、絶対に男の方が長すぎるのだと乾は思っている。口では絶対に勝てないので、それを言ったことはなかったけれど。
後ろから「なぁ、もう眠い」と声をかけると「いや待て、髪びしょびしょじゃん。ちゃんと乾かしてねーだろ」とタオルとドライヤーを持った男が近づいてくる。
もう好きにしてくれ、とされるがままになっていると、爪先の整った指先が乾の頭を撫でるように乾かしていく。心地が良くてふわふわウトウトする乾に「昨日買ったオーガニックオイルつけても良い?」と声がかかるが、返事をする前に何だかいい匂いのするものを頭につけられた。いや本当、好きにしてくれ、オマエがやりたいならもう何でもいいから。
昔の乾の髪は、だからサラサラだった。枝毛なんてなくて、手櫛を通しても引っかかったりしなかった。
男の気が済むまでアレコレされて、それからようやく布団に寝転んだ。一つのベッドに二人寄り添い合うようにして眠るのが常だった。「イヌピーがいないと安眠できないんだ」という言葉を聞きながら、乾は男の抱き枕にされていた。それでも良いと思っていた。
「こんなに綺麗なんだから、髪を伸ばせば良いのに」そう言って乾を抱きしめたまま、姉と同じ金髪を愛おしそうに撫でる男に何も返すことができない。だから寝たふりをして逃げた。それが正解だと思っていた。
遠い昔の思い出に浸っていた乾は、龍宮寺に声をかけられて現実に引き戻される。
「イヌピー、次何飲む?日本酒?」
「これ飲み終わったらにする」
「オッケー、コップ空いたら注ぐな」
「うん、ありがとう」
もたれかかってくる龍宮寺に相槌を返しながら、乾は烏龍茶を口に含む。龍宮寺は笑いながら酒瓶を机に置くと、手遊びの延長のように今度は乾の髪で三つ編みを作り始めた。
そういえば、店を始めた頃の龍宮寺は金髪に染めた髪を三つ編みにしていた。いつのまにか三つ編みが一つにくくるだけになって、金髪は地毛の黒髪に変わっていた。それが何年前だったのかは覚えていない。
「三つ編みってさ、人の髪でやる方が簡単なんだぜ」
「ふーん」
「ヘアアレンジ全般がそうだけどな。……できた、イヌピー、ゴム持ってる?」
「ゴムはねぇ、コレはある」
「シュシュじゃん、コレじゃ止めらんねーよ。つーか、なんでヘアゴムはねぇのにシュシュ持ってんの?」
「この前、あゆみにもらった」
「あゆみって、最近来てるギャル?イヌピー相変わらず女子供にモテるな」
「子供はドラケンの担当だろ」
「まぁいいや、髪型変えるワ。シュシュかして」
せっかく作った三つ編みをなんの未練もなく解かれて、今度は前髪がオールバックになるように括られる。「本当はピンがいいんだけど」とブツブツ呟く龍宮寺の好きにさせながら、乾は烏龍茶をコップに注いだ。
できた。と呟く龍宮寺は満足そうに乾の髪を見つめ、日本酒の入ったグラスを手にとって傾ける。乾は視線を避けるように烏龍茶をまた口に含んだ。
「三つ編み作るの好きだっつーから、オレの髪は好きにさせてたんだ」
「うん」
「寝起きでボッサボサの髪を、今のイヌピーみたいにまとめてやってた」
「ふーん」
「自分でやる時より、やってもらった方が三つ編みが綺麗にできるんだよな。女子って手先が器用なんかな」
「そうかもな」
「てか、何回ドライヤーしてから寝ろって言ってもやらねーから、朝起こしに行くと毎日頭が爆発してんの。誰がまとめると思ってんだ」
「やられる方は楽だぜ」
「細い指でさ、器用にスイスイ髪を編むんだよな。口に咥えたヘアゴムで最後は止めて、ケンちゃん、出来たよ、って嬉しそうに笑うんだ」
「へー」
「傍若無人もいい加減にしろよ!って思いながら髪を引っ張ると、ケンチン、いてぇよ、ってキレてきてさ。そっからよく喧嘩になったワ」
「いいじゃん」
オレは喧嘩なんて出来なかった。あの日、別れた時が最初で最後の喧嘩だった。口に出せない言葉を烏龍茶と一緒に飲み込んだ。言うつもりはない、だって今日は龍宮寺の日だから。
乾は何も知らない。一年に一回、龍宮寺が酒を飲んでハメを外すことは知っている。その日が何の日なのかは知らない。次の日になればいつもの笑顔で日常に戻ることは知っている。ハメを外した夜のことを覚えているのかどうかは知らない。
毎年その日が来たら、乾はただ聞いて頷くだけ。