ある野心家の夜ざわざわと木々が揺れる。
辺りはすっかり夜に呑まれ僅かな月光が手元を照らしていた。
町から少し離れたここにひとの気配はなく、それどころかけものの気配も虫の気配すらも感じられない。
感じられるものといえば湿った土のにおいとすえた風のにおいだ。
聞こえてくるのは木々のざわめきと己の呼気、そしてざくざくと土を掘り返す断続的な音。
近くの民家から拝借した鍬を振り上げ、削るように土を掘る。そうしてまた鍬を振り上げ土を掘る。
もう何時間と同じ事を繰り返していた。
手足は土にまみれ、身体中に疲労がのし掛かる。
それでも汗を滴らせて土を掘る。
闇に紛れひとりきり、ただひたすらに土を掘り続ける。
それはひとつの噂のためだ。
二百年の昔、この地で吸血鬼退治人をしていた男。
高等吸血鬼を傍らに置き、害を為す吸血鬼を共に退治してまわった退治人。
どんな高等吸血鬼にも怯まず果敢に立ち向かい人々を守り戦った退治人の武勇は、同じく退治人を生業とする者なら誰しも知っていた。
二百年も昔の人物とはいえ自伝はあまりに有名なのだ。娯楽の域を出ない、創作だと言う者も少なからず居るが全てが虚構でないことは当時の吸血鬼事件について調べればすぐに分かる。
男は確かに存在していた。
高等吸血鬼を傍らに置き、この地で吸血鬼退治人をし、この地でその生涯を閉じた。
町を一望できるこの場所に男は眠っている。
葬儀は質素に行われたらしい。
共にあった吸血鬼は退治人が眠りにつくとこの地から姿を消したという。一族の元にかえったのだとも、何処かで退治されたのだとも言われているが真偽は定かでない。
ざくざくと土を掘り返す。
身体は疲労で重く、息苦しい。
けれど口許に浮かぶのは確かに笑みだ。
いつの頃からか、退治人の間でひとつの噂が囁かれていた。
曰く、その吸血鬼退治人の墓には退治人にとって大事なものが納められているのだと。
件の吸血鬼退治人は確かに凄腕であったのだ。
請け負った仕事は必ず完遂し、高等吸血鬼すら使役するほどに。
ただの噂だと言うものいるが、到底そうだとは思えない。寧ろ二百年前のことを調べれば調べるほど信憑性が増していた。
創作の域を出ないと言われる自伝が多少の脚色がされているにしろ事実を書いているように、当時のこの地では非現実的な事件が乱立していた。
そんな地で凄腕と称される退治人をしていたのだ。
恐らく下等吸血鬼を瞬時に一網打尽にするような、高等吸血鬼と対等に渡り合うような武具、秘術の類い。そういったものが隠されているのだ。
それを手に入れることが出来たなら、あの退治人の祖にも引けを取らない名声を得られるかもしれない。
少なくとも今よりもずっとましな生活が手に入るだろう。
ざくざくと土を掘る。
湿った土を掘り起こし、墓を暴く。
滴る汗も重い身体もそのための投資だ。
吹き抜けていく生暖かな風が、じっとりと汗ばむ身体に纏わり付くようでひどく不快だった。
滴る汗を拭い、鍬を振り下ろす。
時折雲がかかり辺りが闇に覆われ、また月明かりが辺りを照らしていく。
生きものの気配はない。
聞こえてくるのは木々のざわめきと己の呼気、そして土を掘る音だけだ。
かつんと、鍬の先に何かがあたる。
知らず小さな呻きが漏れた。
どくどくと打ち付ける心臓が煩い。
煩いのは呼気だったのかもしれない。
震える手で慎重に土を退かしていく。
ついに姿を表したのは黒い棺だった。
この中に二百年前の退治人が残したものがある。
高等吸血鬼すら畏怖させる何かが、この中にある。
棺に手を掛ける。
ぎちぎちと硬い蓋を力ずくで外していく。
この中に、あるのだ。
ばきりと音を立てて壊れた蓋を放り投げ、棺の中を覗き込む。
月明かりに照らされ辺りは真夜中だというのに奇妙に明るい。
月光の下、照らし出された棺の中には所々崩れた人骨が横たわっている。
恐らく触れれば風に乗って散っていくだろう古い人骨が纏っていた布は既に襤褸屑同然だ。
人骨に混じり、塵のような砂のようなものが大量に散っている。
だが一見して秘匿された何かは見当たらない。
秘術の類いなら人骨か布を調べなければならないかもしれない。
更に呼吸が乱れる。
この人骨の下に何かが隠されているのだろうか、それとも棺自体に仕掛けがあるのか。
吐き出す息が震える。笑いだしたいくらいに愉快だ。
遂に手に入るのだ、名誉も富も。
あぁ、ひどい夜だ
声が、聞こえた。
身構えて辺りを伺うが、やはり生きものの気配はどこにもない。がさがさと木々がざわめくばかりだ。
幻聴だと断じようとした時、再び何かが聞こえる。
何かが蠢く音。
何かが蠢き、ざわざわと奇妙な気配を形作る。
棺だ。
眼下の棺に散る塵が山を作り、形を成していく。
散り散りの塵が集まり蠢きなにかを形成していく。
異形だ。
ずるりとこちらに向かい伸びてきたものはひとの腕の形を成す。
黒い服を身に纏った男の姿。
ひとではない。
大きく裂けた口許から覗くのは鋭い牙。
気付けば棺の中にひとりの男が立っていた。
眠りから覚めてしまった
目覚めた気配を気とられてしまった
男は嘆いている。
焦点の合わぬ目が彷徨っている。
途端にざわりと木々が蠢く。
いや、それは木々ではない。木々の合間、闇を縫うように何かが蠢いている。
どくりと心臓が跳ねる。
冷たい汗が頬を伝い落ちていく。
あぁ、なんとひどい夜だ
棺に佇む吸血鬼はひたりとこちらを見た、気がした。
(2021.11.27~2021.11 .28)