鍋を食え今日は全く、何もかもがついていない日だったなとマヨイは思う。朝から髪を束ねているリボンがほつれたし、台本の端で指先に切り傷をつくったし、自転車には轢かれそうになった。極めつけには有名な漫画を原作にしたドラマの現場。マヨイは助演より少し脇役くらいの1話だけで退場する悪役で、彼と相対する主人公の青年は同じ事務所の守沢千秋だった。
彼のまっすぐに強い瞳が恐ろしかった。仕事だからと割り切って気にしないようにしていた。それでも、自分が“悪”で、彼が“正義”として向かい合い、ヒーローの役として見つめられてしまうともうだめだった。
何度もセリフを飛ばしたし、手足は簡単に震えた。千秋は強いだけでなく優しいから彼を苦手にしているマヨイのことすら責めずに解決策を考えてくれたが、結局。最後にはその瞳が、声が、世界を代表してマヨイを断罪しているような気さえして、床に倒れこんでしまったのだ。
このままでは撮影を進めることができないと判断されてマヨイの役には代役が立てられることになったので、これ以上迷惑をかけないで済むだけまだマシだったが。自分が弱いせいでたくさんの人が迷惑を被った、やっぱり私なんかが地上で生きようなんて烏滸がましい、身の程を弁えていないことだったのだ。何よりも千秋に申し訳が立たない。倒れたマヨイを抱えて医務室まで運んでくれたのも彼ならマヨイの代役を見つけたのも彼で、彼は本当になにも悪くないのに何度も謝ってくれて。監督も君のことを考えられていなかったと謝ってくれて。悪いのはプロ意識も足りない上、どうしても耐えられずに脱落したマヨイなのに。その真摯な顔が余計に辛かったから、もうどうしていいのかわからなかった。
そう考えながらフラフラ歩いていくといつの間にか自室の扉の前。冷たいはずの鍵が、しかし手が酷く冷えているせいで温く感じた。温かみのあるオレンジがかった照明に、
「ただいま、帰りました」
と言ったところで同室である真白友也は今日泊まりの仕事だったことを思い出す。同室の方の予定すら把握できない愚図だ、とまた自己評価が下向きになった。しかし、誰もいないはずなのにどうして電気がついているのだろうか?というところまで意識がいったのと、同時。
「おお、お帰りなさい!待ってたぞお」
自室からするにはあり得ない声。意味がわからなかった。顔を出したのはマヨイの宿敵(と書いて親友と読む)を名乗る三毛縞斑。マヨイからすると純度百パーセントの宿敵なのだが。
「なっ、ぁ、どうして…!?」
「風の噂で今夜マヨイさんは一人だと聞いたから一緒に夕食をどうかと思ってなあ!すぐできるから手を洗って待っててくれると嬉しいなあ」
そういえば何処となく出汁のような匂いがする。床には小さめの見慣れない座卓が置かれ、その上には年季の入った卓上コンロが鎮座している。備え付けの小さなキッチンでは白菜が刻まれていた。一緒にとろうという夕食はどうも鍋らしい。
「…いやそうではなく…か、鍵とか…!」
いくら同業者しかいない寮とはいえそれぞれの部屋には鍵がかかるようになっているし、マヨイも友也もマメな方なので戸締りを忘れることはない。鍵を壊したのか?窓から入ってきたのか?という突拍子もない考えがそこまであり得なくもないのが斑の恐ろしいところだった。
「昼の現場が同じだった友也さんに預かったぞお」
「真白さん…!」
まさかの裏切りだった。いや別に彼はマヨイが斑を苦手にしていることを知らないので裏切りも何もないのだが。しかも礼瀬先輩に親友がいるなんて!と嬉しそうだったらしい。保護者みたいなことを言わないでほしい。まあ朝起こしてもらって、最近では食育みたいなこともされているのでもはや保護者みたいなものなのだけれど、それはそれというやつ。
「あと煮るだけだからなあ!」と荷物と上着を取られ、わざわざ廊下に出てまで共有の洗面所に押し込まれてしまったので大人しく手を洗ってうがいをする。火の元は大丈夫なのだろうか。蛇口からのお湯で急に温まった手がビリビリと痺れた。頭に靄がかかるように体が緩む。冷静に考えられなくたって今の状況はおかしいものだし本当に意味がわからないが、マヨイは疲れていたし、気持ちが暗かったので。そういえば昼食も摂っていない。先ほど嗅いだ良い匂いを思い出すと小さく腹が鳴り、もうなんでもいいかなぁとタオルで濡れた手を拭った。
いつの間にやら並べられていた、斑の私物であろう座布団に腰を下ろす。わざわざこちらに紫のものを薦め、彼はマヨイの向かい、赤色のものに座った。年季が入った見た目の割に妙にふかふかとしていて座り心地が良い。
はい、とまるで本当に親かのようにお椀を手渡された。普通のものよりすこし大きいそれには可愛らしいうさぎのプリントがされていて、友也のことを思い出し口元が緩む。
「おお、やっと笑ってくれたなぁ!安心したぞお」
斑もつられて安心したように笑う。どこまでも明るいひとだ。そうしていると部屋のLEDが数段明るくなったような気さえして、マヨイは心もち目を細めた。
「うん、しんどそうな顔してたからなあマヨイさん」