欠けた月(後編) 完全に戴天の意識が落ちたことを確認してから、宗雲は立ち上がる。本当は水を飲ませたいし、何か腹に入れて薬も飲ませたい。ただ、今はせっかく眠った戴天を起こしたくなかった。
冷たい水を絞ったタオルをそっと戴天の額に乗せる。そのまま頭を撫でて、作り物のように整った戴天の寝顔を見つめていた。
申し訳ない、とは思う。記憶が全てあるわけではないが、確実に戴天を傷つけた自信はある。高塔の秘密を暴くために生きている自分では、この男と共に生きることはきっとできない。それでも欲しいと思うのもまた真実だった。どうしても手に入れたい。隣に居た頃も今も。戴天への執着を、真実を知るためだと自分に言い聞かせでもしないとこの男に何をしでかすか分からない。二重にも三重にも真実に鍵をかけている戴天の、簡単には手に入らないであろう心の奥底を素手で掴んで引き摺り出してやりたい。高塔という檻の中で生きているこいつの羽を全て毟り取って飛べなくなった時に縋るのが自分であってほしい。
「……だめだ」
日頃あまり表には出ていない暴力的な心が現れそうで、一心に見つめていた寝顔から目を逸らす。掛けた布団から出ている手をそっと握り、布団の中へ戻すと戴天の唇に自らの唇を重ねて、宗雲は部屋を出た。
ライダーフォンを取り出し、雨竜に連絡を入れる。さすがに家に戻らない兄を心配するだろうと思って、調査のための聞き込みをおこなっていることを伝える。まだ確証が持てなくてエージェントには知らせていないから、進展があったら報告する、ということを併せて知らせておく。兄から直接連絡がないことを不思議に思うかと思ったが、「分かりました」とだけ返信がきた。
すっかり夜も深まり、ソファーに座り本を読んでいると、寝室の扉が開く音がした。
「……あの、」
控えめに声をかけてきた戴天がどこかソワソワと辺りを見回している。
「私のスマホ、どこにありますか?雨竜くんに連絡をしないと」
「体調は?」
「もう問題ありません」
掠れた声で答えた戴天に、まずは水を渡す。コップいっぱいに入れた水を全て飲み干すのを確認してから、スマホを渡す。
「雨竜には俺から連絡して、エージェントにもまだ知らせていない調査をおこなっていることになっている。辻褄を合わせてくれるか?」
「はい。雨竜くんに余計な心配はかけたくありません」
受け取ったスマホで早速メッセージを送っている戴天の額に手の甲を押し当てる。熱は下がっているようで、寝る前のような鬼気迫る雰囲気はなく、顔色も良い。本当に回復したのだろう。
額に押し当てられた手を振り払うこともなく、メッセージを送り終えた戴天がチラリと宗雲の顔を見る。
「なんだ」
「いえ、実は寝てしまう前の記憶が曖昧で……。おかしなことを言ってませんでしたか?」
「どこまで覚えている?」
「タクシーを降りて、あなたの自宅に入ったところくらいまでで…何か怒っていたような気もするのですが」
「熱に浮かされていたからな。帰ろうとしていたが引き止めて強引に寝かせた」
「そうですか。……ご迷惑をおかけしました」
「いや、それは構わない。あんな状態のお前を1人で帰せなかっただけだ」
この家で起きたことを覚えていないのなら無理に知る必要はない、そう判断して何があったかは話さなかった。戴天が感情を露わにするのは珍しい。さらに人の目の前で弱りきった姿を見せたとなれば今後弱みを見せることは恐らく無くなる。どれだけ苦しくても何でもない顔をしてやり過ごすだろう。
「もうこんな時間だ。今日は泊まって行け」
「タクシーを呼べば帰れますので。あなたにこれ以上迷惑をかけるわけには」
「こんな時間に帰ったら弟が……雨竜が心配するだろう」
「……そう、ですね」
まだ迷うそぶりを見せる戴天には気づかないフリをして、決定事項かのように話を進める。戴天は迷っている時、道を作ってやると案外素直に乗ってくる。
「明日の予定は?」
「明日は午後からの出社になっています」
「分かった。朝8時に起こしてやる」
「じっ……自分で起きます!」
「そう言って起きられたことがないだろう。いいから、8時で間に合うのか?」
「……はい、叩き起こしていただいて構いませんので」
ようやく決心がついたのか、戴天が諦める素振りを見せた。先ほどまでは大人しくさせることを最優先として、しっかり休めないようなシャツにスラックス姿で寝かせていたが、今からはそうはいかない。少しでもこいつには休んで欲しい、と思う。
「とりあえず、もう寝るか?」
「汗をかいたので…お風呂をいただいても?」
「あぁ。着替えは準備しておく。廊下の左側がバスルームだ」
大人しくバスルームに向かう姿を見届け、水音が響き始めたのを確認すると、自室からスウェットを取り出す。着慣れない寝巻きだろうが仕方がない。ついでに新品の下着も準備しておく。使うかどうかは本人に任せることにした。
髪の長い戴天の髪を乾かすのが、サラサラと滑り落ちるように柔らかい髪に手を遊ばせることがたまらなく好きだった。離れてから触れることのなかった髪は今も綺麗に手を滑り落ちるのだろうか。あの頃より更に伸びた髪に触れたくて、ドライヤーとヘアオイルをソファーに準備する。きっと嫌がるだろうが押せば戴天は必ず折れる。あぁ見えてあいつは押しに弱い。
「着替え、ありがとうございました」
風呂から上がった戴天が長い髪を拭いながらリビングに姿を現す。いつも自分が着ているスウェットを戴天が着ていて少しおかしな気分になる。
「このような服は着慣れなくて、少し変な感じがします」
「まぁそうだろうな。……ここに座れ」
戴天が着ているスウェットの袖をつまみ、ソファーへ誘導する。トスン、と腰掛けた戴天の背後に回り、ヘアオイルを手に馴染ませると、毛先から塗り込む。そして傍にあるドライヤーのスイッチをオンにする。
「あなた、何を」
ドライヤーの音で聞き取れないフリをして、そっと髪に指を差し込む。髪の柔らかさは昔のままで、櫛を通すように指を滑らせた。1箇所に熱が集まらないようにドライヤーを揺らしながら髪を乾かしていく。やめろと抵抗されるかと思ったが、意外にも戴天は大人しくしている。抵抗がないことを是と捉えて、黙々と指を差し入れては揺らし、熱を与える。おおよそ10分。髪が長く、量もそれなりにある戴天の髪は乾かすのに時間がかかった。
「終わったぞ」
「……ありがとうございます」
複雑そうな顔をして戴天が礼を言う。こちらも楽しませて貰ったと言うと怒られそうな気がして、何も言わずにドライヤーとヘアオイルを洗面所に仕舞う。
「さぁそろそろ寝ないと明日に響くな。お前はベッドで寝てくれ」
「あなたは……」
「俺はソファーで寝る。たまにやることだ。気にするな」
「でも」
この会話になることは想定済みだった。たとえ過去に因縁がある男だとしても、戴天が気を使うだろうと予想するのは簡単だ。そして宗雲は戴天をソファーで寝かせる気は無かった。
「言い争う時間が無駄だ。はやく寝室に行け」
「いえ、私は先程まで寝ていたので大丈夫です。あなたこそ私の看病などしてお疲れではないのですか?」
「疲れていたらとっくに寝ている。いいから、」
肩を掴んで寝室の方へ押しやろうとした宗雲の手に、掴むには弱く気のせいと思うには強い力で戴天の手が重なる。
「では……」
「なんだ」
「一緒に」
その先の言葉は発せられることは無かった。しかし戴天の手が、顔が、目が訴えかけていた。本人にその気はなくても、その容貌で見つめられるとおかしな気を起こす人間がいることを自覚していない。冷ややかに見えてトパーズのように輝く瞳。吸い寄せられるようにその目から視線を外すことができない。
「いいのか」
「あなたは私にソファーを譲る気は無いのでしょう。しかし私も私のせいであなたが窮屈な思いをするのは嫌です」
「……分かった」
肩に置いていた手を外し、ぐっと握る。今の自分には手を出して良い理由などない。いつか手に入れたいと切望しながら、今はその時ではないと理性で抑え込んだ。
揃って潜り込んだベッドは大人の男2人が寝るには狭く、背を向け合っていてもすぐそばの温もりをありありと感じる。そういえば確か戴天のベッドはキングサイズだったか…と思い至る。先程までは1人で寝ていたせいか戴天はこの狭さのことを考えていなかったんだろうと思う。
「狭くはないか?やはり俺はソファーで」
「大丈夫です。あなたこそゆっくりと寝られないのではないですか?私が出ます」
「お前に問題がないのならこのままで良い。電気を消すぞ」
本当はお互いにこのままでという気持ちがあるにも関わらず、相手の意向を探ることはやめられない。ここに居てとも一緒に居たいとも言えずに不毛なやりとりが続きそうで無理矢理に会話を終わらせ、側のリモコンで電気を消す。
明かりがなくなってしまえば、いよいよ相手の息遣いがダイレクトに伝わる。起こしてしまいそうで身動きも取れずに、ただ目を閉じた。
ドサッと何かが落ちた音で、宗雲は目を覚ます。一緒に寝ているはずの戴天を見ようと振り返ると、その姿が無かった。こんな時間にまた帰ろうとしているのかと半身を起こす。2人で掛けていたはずの布団がなく、まさか…と思いベッドの向こう側を確認すると布団に包まった戴天の髪の毛が見える。
「大丈夫か…?」
声を掛けてみても返事は無かった。仕方なく覗き込んでみると、緩やかに上下する布団と目を閉じたままの戴天が寝ていた。
「この状況でも寝ていられるなんて、な……」
さすがに床でそのまま寝かせるわけにも行かず、ベッドから降りて戴天の肩を揺らす。
「おい、起きろ……布団に戻るぞ」
「ん……?あさ……?」
「違う」
「あとごふん、ねかせて……」
「おい、寝るな」
「は……い。…………」
「……」
寝起きが良くないことは知っているし、起こしたことも過去に何度もある。揺すっても声を掛けてもなかなか覚醒しないことも知っている。このまま起きて移動してくれるのを待つよりも、強硬手段に出た方が格段に早い。宗雲は戴天の扱いに長けていた。
布団ごと戴天を抱き上げベッドに降ろし、布団を掛けなおす。寝かせた戴天の安らかな寝顔を見て、少し考えたあと自分の方を向かせた。起きたら驚かせてしまうかも知れないと思いつつ、また落ちてどこかを痛めてしまうよりかはよっぽど良いと自分に言い訳をして、戴天の首の下に腕を差し入れ、頭を抱き込んだ。宗雲の胸元に穏やかな寝息がかかる。戴天特有の甘い匂いに混ざって、自らが使うシャンプーの匂いがすることに高揚する。気分を落ち着けるように戴天の髪にキスを落とし、再び目を閉じた。
ピピピ…と鳴る電子音に宗雲の意識が覚醒する。カーテンの隙間から差し込む光に朝を迎えたことが分かった。抱き込んだままの戴天は電子音などまるで聴こえていないようで、穏やかに眠っている。もう少しこのまま自らの腕の中で眠る姿を見続けていたくて、髪や頬を撫でながら見つめる。過去に訣別してから、こんなに近い距離を許される日がくるとは思っていなかった。多少強引にでも引き留めていて良かったと思う。
10分ほど経ってから、いよいよ起こさねばと声を掛ける。しかし、声を掛けただけで目が覚めるとは思っていないので、リビングへ行きコーヒーを淹れる準備をする。同時にトーストをトースターへセットし、スイッチを入れる。戴天が朝食を食べるのかトーストでもいいのかは分からない。要らなければ要らないでそれでも構わなかった。
洗面所に向かい、身支度を軽く整えると再び寝室に戻り、肩を揺らす。よく聞き取れない言葉を発しながら、再び寝ようとする戴天の半身を強引に起こす。頭がまだユラユラと揺れているが、この状態まで来ると目を開けるまであと少し。
「お前、このまま出社する気か?一度戻らないと弟が心配するぞ」
「おとう、と……うりゅうくん……」
寝起きの舌ったらずな言葉で宗雲が言った言葉を繰り返している。そのうち目が開き、その目がこちらを見る。
「あれ、あなた……」
「目が覚めたか?そろそろ起きないと間に合わないぞ」
「あ、あぁ…………。そうですね、おきないと」
回らない頭で必死に考えたのだろう、状況を思い出したようで、ようやく会話になる。ここまで来ればもう二度寝はしないだろう。戴天はパチパチと何度か瞬きをすると、自ら布団をめくり、そっとベッドから降りた。
連れ立ってリビングまで行き、戴天を洗面所へ押し込む。半分寝ているかも知れないが身支度くらいは自分で整えられるはずだ。
戻ってきた戴天をダイニングの椅子に座らせ、その前にコーヒーとトーストをセッティングする。
「すみません。何から何まで……ありがとうございます」
「本当に朝は昔のままだな」
昔、という言葉に苦虫を噛み潰したような顔をしている戴天を無視して、宗雲も向かいの椅子に座る。2人だけの時間を邪魔されたくなくて、テレビを付けることはしなかった。
「本当にお世話になりました。昨日、私が何か言っていたのなら……忘れてください」
朝食を食べ終え、スーツに着替えた戴天が目を伏せながら言う。覚えていないとは言うが何かあったという感覚はあるのだろう。
「何もなかったから、余計なことは考えるな。あと、もっと自分の体を大切にしろ」
「……」
「聞いてるのか?」
「……えぇ。聞いていますよ。でもこれが私の生き方なんです。変えられません」
「おい、」
「では、そろそろ帰らないと。それでは」
短い言葉だけを残して戴天が家を出て行く。追いかける気にはなれなくて、そのまま見送る。2人きりの時間は終わりだ。宗雲の生き方と戴天の生き方は決して交わらず、たった一夜同じ時を過ごすのが限界だ。会えば傷つけ合うのであれば会わなければいい。欠けてしまった月が更に細くなっていくのであれば、また満月になるのを待てばいい。ただ、満ちる月を何もせずに待っていることは出来ない。必ず暴いてその手を掴んでみせる。
戴天が去ったあと、部屋に置いている植物の世話をしているとブチッとノイズが走ったイヤホンをそっと外す。預かった戴天のジャケットの襟に仕込んだ盗聴器が壊されたのだろう。一体どんな顔をしながら壊したのか見られなくて残念だと思いながら、宗雲は何食わぬ顔で植物の世話を続けた。
end