明日の朝はパンを食べよう「レムナン。ねぇ、聞いてンの?」
馴染み深い声が自分を呼んでいるのに対し、その名の持ち主は振り向くことすらせずスンと黙りこくっている。同じ室内にいて聞こえないほどの声量ではない。むしろ、日常的にこの家に騒がしさを加えるゲーム音楽も電動工具の駆動音も鳴っていない現在の空間は、終業時刻を過ぎた今の時間帯にふさわしい静寂に満ちており、普段より声が届きやすいくらいだ。
それにもかかわらず、背を向けてだんまりを決め込んでいるレムナンは、意図的に自分の声を無視しているのだということ、そしてその原因はおそらく先程彼に渡した手土産にあるのだろうということにラキオは既に気付いていた。気付いて、そのうえで彼の選択した行動の幼稚さと狭量具合に呆れかえり閉口していた。
これ以上は時間の無駄だ。放っておこう。朝になれば多少は相手の頭も冷えているだろう。
潔く気持ちを切り替えたラキオが、リビングの片隅にあるボールチェアの中で膝を抱えじめっとした空気を放っているレムナンを残して、自室に戻ろうと腰をあげたそのとき、軽快な電子音が鳴り響いた。ラキオが腰掛けていたソファの前にあるテーブルに放置されていたレムナンの端末がチカチカと光っている。他人の個人情報を覗き見る趣味はないが、音に釣られたラキオがなんとなしにそちらに視線を落とすとそこには数少ないふたりの共通の知人……ラキオは否定するだろうが、付き合いも長いのだからいい加減友人と呼んでもいいかもしれない——の顔写真を元に生成されたのであろうアニメ調のアイコンが表示されていた。アイコンの下に表示されているメッセージには今夜一緒に一戦やらないかとオンラインゲームフレンドであるレムナンを誘う気安い一文が載っている。ラキオは少しの間その画面を眺めたのち、慣れた手つきで端末を操作し、メッセージの送り主へと星外通信を繋いだ。
「もしもーし……ってラキオか!? なんだおい、久しぶりだな! 元気そうで何よりだ!」
「あぁ、君も相変わらず歳のわりに溌溂としているね。落ち着きがないと言った方が適しているか」
「おま……ほんとそういうトコ変わってねぇのな……。なんか安心したわ、逆に」
ラキオの言葉通り、宙に投影されたしげみちの姿はD.Q.O.での出会いの頃からちっとも変わっていなかった。しげみちからしても、ラキオの性格は相変わらずと捉えらえたようなのでお互いさまだ。
「今日はお前も一緒にゲームするんか? 珍しいな」
「しないよ」
「んん? ひょっとしてレムナンがどうかしたんか?」
「どうかしたっていうか、どうかしてるっていうか。くだらないことでへそを曲げてさっきから一言も言葉を発さないンだよ。前から自他ともに認める口下手ではあったけど、ついにコミュニケーション手段の一つを放棄して貝になることにしたらしい。ハハッ、笑えるだろう?」
ラキオの視界端に映るボールチェアからわずかにはみ出ている白い毛先がピクリと動いている。今頃さぞ見事な渋面を浮かべていることだろう。僕だって君のせいで気分を害されたんだから、君も少しくらい僕の感じている不快感を味わえばいい。そんな気持ちを込め、フンと鼻を鳴らしたラキオを画面の向こうのしげみちは怪訝そうな表情で見つめていた。
「オイオイ……。お前、またレムナンのこと怒らせたんか? イカンぞ~喧嘩は!」
「まるでいつも僕が悪いみたいな言い方やめてくれる?」
「それもそうだな、スマンかった。にしても、近頃はレムナンも前より表情が明るいっていうか、幸せそうなオーラ纏ってるし、てっきりお前と平和にうまくやってそうだと思ってたんだがな……。いったい何があったんだ?」
レムナンとの間で時折オンラインゲーム通信を楽しむ程度のゆるい交流を続けているしげみちでさえ感じ取っている彼の変化は、この七年あまりの短くない歳月を共に過ごしてきたラキオも勿論知っていた。グリーゼで得た経験、革命という大事の片翼を担ったことでつけた自信、そして何よりもラキオの隣に見つけた自分の居場所が、レムナンの抱える大きな傷をやわらかく塞ぎ、その痕はようやく瘡蓋と呼べるほどになったのではないかと思う。そのくらい、他者の目から見て近年の彼は精神的にも安定した様子を見せていた。それなのに。
「知らないよ。向こうが勝手に拗ねて口も利かないンだから、こちらから解決しようがないだろう。お手上げだね。もうこのまま放っておいて先に寝てしまおうかなと思ってたンだけど、どう思う?」
「いや~それすると余計悪化すると思うぞ……。喧嘩なんてもんはな、その場で謝ってサクッと解決! 次の日に持ち越さない方がイイんだって!」
「そんなこと僕だって分かってるさ。分からず屋はあっちだろう。君からもなんとか言ってやってよ、彼のオトモダチだったらさ」
「うーん……。本当は第三者が首を突っ込むのもどうかと思うんだがなぁ……。まぁ、事情くらいは聞いてやってもいいか。で、いったい何があったんだ?」
しげみちに促され、ラキオはレムナンが貝になるまでの経緯をざっくり語って聞かせた。大筋はこうだ。
以前に比べれば飲食店や食料品店の数はぽつぽつと増えてきてはいたが、食文化そのものに馴染みが薄く偏食の人間も多いグリーゼにおいて、一種の食べ物だけを扱う専門店と呼べるような店はまだ片手で数えるほどしかなかった。そんな中、焼きたてのパンだけを販売するベーカリーが近くにオープンするという広告を見て、レムナンは目を輝かせていた。彼は興奮した様子で画面に表示された広告を見せ、開店したらいっしょに行きましょうねと鼻息荒くラキオを誘った。
後日、仕事で部下を伴い街中を歩いていたラキオは偶然例のパン屋の前を通りかかり、その店が昨日オープン日だったことを知る。時刻はちょうどお昼時。別区画の区長を複数名招集した会議で弁舌を振るい、若干の喉の渇きを覚えていたラキオはちょうどいいとばかりに部下を誘い、そのパン屋へと立ち寄り小休憩を取った。レムナンへの土産として彼の好みそうな見た目と味付けのパンを何点か見繕い、それが詰まったいい香りのする袋を帰宅早々彼に差し出した。
「君の言っていた店、今日ためしに寄ってみたんだけどまぁ悪くはなかったよ。といっても僕はドリンクしか注文してないし、肝心のパンは一口分けてもらっただけだから他所よりおいしいという保証はないけど、君の口には合うンじゃない?」
さぞ喜ぶだろうと思い土産を手渡した相手は、ラキオが袋から顔を上げたときにはもうぶすくれていた。
「僕に先を越されたことがそんなに嫌だなンてさ、ちょっと幼稚にもほどがあると思わない?」
これでもなるだけ感情的な表現を用いず、事実だけを羅列しようとしたラキオだったが、レムナンに対する苛立ちと不満が言葉の端々に浮かんでいた。声色だけは落ち着いたトーンを保ちながらも、あえて刺刺しい締めくくり方で話を終わらせたラキオに対し、しげみちは困ったような……あるいは呆れたような表情で反応を返した。
「いや、そりゃおまえ……先を越されたことが嫌だったんじゃねぇだろ……」
「は?」
「一緒に行こうって言ってた場所に他の奴と行ったのが嫌だったんだろ?」
画面には映っていないが、既に同じ室内にレムナンが存在しこの会話を聞いていることを察していたしげみちは、なかば彼に問いかけるようにそう投げかけた。思わずラキオも通話画面から目を離し、暫く放置していた彼の方へと顔の向きを変えた。ラキオの視線が自分に向けられていることに気配で気が付いたのか、ソファに対して完全に背を向けてたボールチェアがわずかに回転し、約十分ぶりに話題の中心人物の顔が現れる。未だ機嫌の悪さを物語るかのように唇をわずかに前に突き出し、尖らせた形のままで彼は器用に口を開いた。
「……僕が先に誘ったのに」
ラキオはレムナンがようやく発したその言葉に瞠目し、続いていかにも面倒だといった表情を隠しもせず半目を作り、何事か反論しようとしたところを慌ててしげみちが割って入った。
「あーもうレムナン! 今度一緒にその店でデートすりゃいいだろっ、な! それにラキオも約束を忘れたことは悪いかもしれんけど、お前が喜ぶと思って買ってきてくれたんだから、それについてはちゃんとお礼言わんと」
「それは……、たしかに……」
「あのねぇ、僕はべつにレムナンの言っていたことを忘れていたわけじゃないし、そもそもあんなの世間話の一環で約束じゃ」
「ラキオもなんでもかんでも正論で叩こうとすんなよ! せっかく丸くおさめようとしてるのに長引くだろ!」
「一応きっかけは作ったからな、お前らちゃんと仲直りしろよ!」と最後に念を押してしげみちは通信画面ごと消えた。
再び部屋に静寂が訪れる。先に沈黙を破ったのは意外にもレムナンの方だった。
「ラキオさん……あの……、僕のために買ってきてくれたんです……よね。ありがとうございます」
「……フン、最初から素直にそう言って受け取っていればよかったンだよ」
「でも……僕、悔しくて……。すみません、つい、怒ってしまいました」
「それについてはもう少し詳しく聞かないことには君の事情が分からないよ。……とりあえずいつまでもそんな狭いところに籠城してないでこっちに来れば?」
レムナンが普段座っているソファの左側をポンと叩き自分を呼んでいるラキオの手の動きを見て、しばらく逡巡する素振りを見せたのち、結局観念したようにレムナンはのそりとボールチェアから足を下ろして立ち上がり、ラキオの隣へと座った。
「それで? なんだっけ? 僕が先に誘ったのに? 期間限定ショップや特設会場ならまだしも、あの店は常設店舗だろう。この先いくらでも行く機会はあるのに何をそこまで機嫌を損ねることがあるのさ」
しげみちの仲介とレムナンの態度が軟化したこともあり、ラキオの口調も先程と比べるといくらか棘が抜け、今は苛立ちよりも何故彼が怒ったのかという疑問の方に比重が傾いているようだった。
「パン屋に行くのは初めてだったでしょう。僕も、ラキオさんも。だから……」
「……つまり? はじめての体験を僕と共有したかったのにできなかった。それで拗ねてるの? そんなことで?」
「……」
「やれやれ……僕はどうやら君のことを甘やかしすぎたみたいだ。まるで駄々をこねる幼児だね。いや、先ほどまで言葉を忘れていたあたり赤ん坊に例えた方が適切かな?」
ソファの肘掛けに頬杖をついたまま隣の男を揶揄するラキオはレムナンより一足早く通常運転に戻りつつある。そんな喧嘩相手……もとい会話相手をじとりと横目で見遣り、レムナンは続きを述べた。
「それに、ラキオさんに自分の食事を一口分けるのも、僕だけだ……って勝手に思ってたから。人から一口パンを分けてもらったって聞いて……ちょっと嫌でした」
レムナンが自身の心情を打ち明ける間落としていた視線をあげると、今度こそ、ラキオは心底呆れ果てたような表情を分かりやすく顔にのせていた。
「君って奴は……本当に厄介な性質だな。扱いにくいったらないよ」
「すみません、我が儘を言っているという自覚も……一応、あるんですけど」
「でも改善する気はまるでないだろう? 君はいつだって僕が最後には許してくれると慢心して甘え切っている」
「う……はい、その、……すみません、でした。調子に乗り過ぎました」
ようやく今の状況を冷静に分析し、自身の反省点に目を向けるだけの落ち着きを取り戻したレムナンからついに謝罪の言葉が出た。先ほどまでのかたくなな態度とは打って変わって、今は反省の意を全身で表現するかのように背中を丸め小さくなっている。いつもより座高が低くなったその姿を見て、はぁと小さく溜息を吐いたラキオはふたりの間に残していた距離を詰め、ぴたりと彼のすぐ横へと身体を寄せた。
「僕を独占したいなンて物好きは君くらいのものだから、少しは心に余裕を持ったら?」
「いや……でも……」
「そもそも『はじめての体験を共有したい』という君の願望だって僕は今までに何度も叶えてやっている筈だけど」
「え」
「自覚がないならここに君との初体験を羅列してあげようか? まずは」
「あ、わ、わぁ……っ!? い、いいです、言葉にしないで……! お、お気持ちだけで十分、ですから……っ」
動揺から途端に顔を赤く染め、慌てふためくレムナンを見て、冗談だよとラキオは笑った。
「明日の朝食はパンにします。せっかくラキオさんが買ってきてくれたので……」
「ふぅん」
「あの、いつもみたいに一口、もらってくれますか?」
レムナンは返ってくる答えを知っていながら、期待を込めた眼差しを向け、おずおずとすぐ近くに座るその人に尋ねる。
イートフェチで、趣味も価値観も合わず、扱いづらい、だけど最も自分と深い関係にある相手の顔を見て、ラキオはいつものように仕方がないなと表情を緩めた。明日の朝食メニューは水とサプリと、彼の手が差し出す一欠片のパンで決まりのようだ。