偽装交際1『夕飯を食べてから帰るので予定より帰りが遅くなります』
レムナンからのメッセージを受信したラキオは、チラリと横目で通知のポップアップだけを確認すると、つい今しがた目を通していた今年度の宇宙学会で公表された論文へとすぐに視線を戻した。ラキオが休みでレムナンだけが出勤の日、彼が仕事帰りに全国でもまだ数少ない大衆食堂で食事を済ませてくることはこれまでにも時々あったし、大方今日も帰りがけに見た日替わりメニューの看板に惹かれてつい立ち寄ってしまったとかそんなところだろう。彼から届いた短い報せをラキオはそんな風に軽く受け流していた。
それゆえに読んでいた論文が最終章のまとめに入るあたりで、玄関から駆け込んできたらしきレムナンがそのままトイレへと直行し、げえげえと耳障りな音を廊下のこちら側にまで響かせているのに気付いたときには、流石のラキオも何事かと面食らった。
「レムナン?」
扉を閉める余裕もなかったのか、中途半端に開け放されたままの扉の向こうで、クッションフロアが貼られた床の上にへたり込んで、便器を覗き込んでいる後ろ頭をラキオの目が捉えた。その向こうで乱雑に放り出された彼の仕事道具が詰まった鞄を、優秀な擬知体が健気にも回収して玄関の定位置へと戻しているのが、現在の状況と噛み合っておらず少し滑稽だ。
胃の内容物を全て吐き終えたらしきレムナンは、自動洗浄を終え蓋がしまった便器を呆然と見つめ続けている。
「ちょっと……大丈夫? 外で傷んだ生魚でも食べさせられたンじゃないだろうね」
恐る恐る狭いトイレの中へと足を踏み入れたラキオは、まだ酸っぱい胃液臭が残る空間に少し眉を顰めながらも、未だ丸まったままのレムナンの背中をゆっくりとさすってやった。走って帰ってきたのか、その背は随分と汗ばんでいた。もし、本当に彼がこうなっている原因が外での食事による食中毒なのだとしたら、早めに消費者庁に通報する必要があるし、場合によっては病院にも連れて行かなければならない。ラキオの脳内を巡る考えをひとつも知らないレムナンはのろのろと顔をあげると、ラキオの問いには答えずに突拍子もないことを言い出した。
「ラキオ、さん……。グリーゼの人たちは……知性を重んじる傾向にあるんでしたよね」
「……その聞き方だけでは質問の意図を図りかねるけど、まぁ統計的にはそうなンじゃない?」
(少なくともついこの間まで、知力が足りず十分な成果をあげられない個体は簡単に消されるような国だったんだから、ここは)とラキオは心の中で付け加えたが、見るからに調子が悪そうな人間相手に言うことでもないだろうと、その言葉は口に出さぬまま、彼はレムナンに会話のバトンを渡した。
「それなのに、汚い欲を持つ人間もいるんですか……」
「欲? 何の……」
「ひ、人のことをっ勝手に性的な目で見て……っ! 一方的に欲求を押し付けてくるような、そんな人が! どうしてここにもいるんですかッッ⁉」
後半は殆ど泣き喚いているだけに等しかったが長年の付き合いが功を奏し、ラキオはその台詞だけで今日彼の身に何が起きたのかを大体察することができた。
「……食事に変な薬でも盛られたの?」
「は、い……。あ、でも一口で気付いてすぐに吐き出して……今、念のためにもう一度全部出しちゃったので、たぶん影響はないと思います、けど……」
「警戒心の塊みたいな君が油断するだなンて珍しいね。よっぽど魅力的な女性だったのかな」
「まさか! 何度か行ったことのあるレストランで……。今日は帰り道に前を通りかかったところを呼び止められたんです。擬知体の反応が悪いから見てくれないかって」
「……僕、タダ働きで自分の技術や才能を安売りするなって、君には散々忠告したはずだよね」
ジトリとした視線を送り、場合によっては追撃の説教を浴びせかけようと構えているラキオの気配を察して、レムナンは慌てて弁明した。
「ち、違うんです! パッと見ただけですぐに分かったんですけど、背面のコードが一本抜けかかっていただけで……」
ただ抜けかけていたコードを差し直しただけ、それならば確かに金銭が発生するほどの働きとは言えないだろう。黙って続きを促すラキオの様子を見て、レムナンはお𠮟りを受けるのを免れたことにほっと胸を撫でおろしながらその後の出来事を語って聞かせた。
「それで僕はそのままお店を出ようとしたんですけど、お礼に夕飯をご馳走すると言って聞かなくて……。何度もお断りしたんですが、埒が明かず、他にお客さんもいなくて今の時間帯なら邪魔にならないかなと思って……仕方なくラキオさんにメッセージを送りました」
「で、そのお礼の食事とやらに一服盛られたわけだ。最初から下心満載だったその女性店主にね」
「……はい」
その時のやりとりを思い出したのか、レムナンは膝の上で強く握った拳を小さく震わせて、顔を青くしている。ラキオからしてみれば、結果から推察するにその擬知体の不具合をレムナンに相談したこと自体も女の演技だった可能性が非常に高いと見える。つまり、最初に声を掛けられた時点で彼はいい獲物だったのだ。
「僕が……悪かったんでしょうか。でも、僕、何もしていなくて……。そんな、特別好かれるようなこと、べつに、なにも。なのに、どうして……」
「一般的な男女が有している交配本能のメカニズムについて説明するのは容易いことだけど、今君が欲しい答えはそれではないンだろう? レムナン。君はどうやら不思議と一部の女性を惹きつけやすいようだ」
自らすすんで目立ちたがるタイプではないために注目されることは少なく派手さはないものの、比較的容姿が整っていること。
メカニックとして優秀な技能を持っており、更にはこの国に革命という名の新たな風を吹き込んだ革命軍のリーダーとして顔が割れていること。
極め付きはこれだけの経歴の持ち主でありながら、普段は腰が低く一見温厚そうな振る舞いで、いかにも押しに弱そう且つ隙がありそうな人物に見えること。
これだけの要素が組み合わさった結果、顔見知り、知り合い以上には人間関係を発展させる気がまるでないレムナン相手に、既成事実でも作って強引に近付いてやろうと強硬手段に出る者がついに現れたのだろう。
ラキオの見解を聞いたレムナンは、そんなの僕の知ったことじゃないですよ……と苦い顔をして項垂れた。
「にしても、こうも厄介な女ばかりを引き寄せるだなンて、君には女難の相が出ているに違いないね。注意して生活することをおすすめするよ」
「そんなことを言ったって僕がどんなに気を付けたところで今回みたいなのは防ぎようがないじゃあないですか! これ以上僕にどうしろっていうんですか……」
涙こそ流していないものの、情けなく眉を八の字に下げ、べそべそと泣き言を溢す相手を見ていると、まるでこちらが虐めているようでどうにもきまりが悪い。せっかく例の性悪女から逃げおおせてこんなところまでやってきたというのに、移住先の国でまで別の女に悩まされる羽目になるなんて、つくづくついてない男だ。レムナンの境遇を流石に少し哀れに思ったラキオは、彼にひとつの提案を持ち掛けることにした。
「どれだけ君が関わりを避けたところで、少しでも可能性が残されていればそれにかけたいという物好きもこの世には存在するだろう。君はそろそろ別の対策を講じた方がいいね」
「どんな対策ですか……?」
「簡単なことさ。僕と交際しているから、他の人間のことは一切恋愛対象として見ることができないと公言してしまえばいい」
ラキオの出した案を聞いたレムナンは、目を大きく見開き、顔を赤くして、その後青くして、最後に再び真っ赤になった。人間の顔色がリトマス紙みたく早変わりすることもあるんだなという感想を抱きながら、何をそんなに動揺することがあるのかと彼の反応を見たラキオは首を傾げた。
「なに? 我ながらこれ以上ないってくらい名案だと思ったンだけど」
「え、だ、だって……あの、それだと、僕たちがこ、恋人同士だって、まわりから見られるようになっちゃいますよ……?」
「? 当然だろう。それが狙いなンだから。別に僕でなくとも他に適任がいるのならその人物に頼んだっていいと思うけど、自分に好意を向けてくる女性を遠ざけたいというのなら恋人役として男性または汎を選ぶ方がいいだろう。君にはこの対策への協力を持ち掛けられるほど親しい間柄の男や汎の知り合いがこの国にいるのかい?」
「いえ……」
レムナンの返答を聞いたラキオははじめから答えが分かっていたと言わんばかりに鼻先でふんと笑った。
「じゃあ、やっぱり僕しかいないじゃないか。仕方ないから名前くらいタダで貸してあげるよ」
「あの……たしかに、いい案だと思います、けど……。大丈夫でしょうか」
「なにが?」
「いえ……やっぱり、なんでもないです」
恋人役として名前を貸すだけで解決すると軽く考えているらしいラキオの態度を見て、きっとそれだけじゃすまないだろうなとこの先に待ち受ける展開を危惧するレムナンだったが、未だに恋愛感情をただの知識としてしか認知していない汎を相手に、今の不安を言葉で説明するのは難しいと早々に諦め、ひとまずはラキオの提案を受け入れることにしたのだった。
「よろしくお願いします。……僕の、恋人になったラキオさん」
「あぁ、よろしく。恋人のレムナン」
偽装の恋人関係を結んだふたりがはじめにとったスキンシップはただの握手だった。
***
「さて、悪い芽は早めに摘み取るに越したことはない。レムナン、君のスケジュールを見せて。少なくともこれから一か月の間はできるだけ僕と行動を共にしてもらうよ」
「はあ……」
俄然はりきりだしたラキオの勢いに若干気圧されつつ、レムナンは促されるままに自分の予定をスクリーンに映し出した。二人分の予定にざっと目を通し、いくつかの日付にラキオが印をつけていく。鮮やかなグリーンが目立つ人差し指に触れられた日付はポツポツとまわりから浮き出るようにピンク色で強調された。
「この日は外でいっしょに食事を摂ることにしよう」
「……えっ⁉」
革命以前に比べると少しは食事文化が浸透してきたグリーゼでも、相変わらず水とサプリでの生活を続けているラキオの口からは一生聞けないものと思っていた台詞が飛び出たことにレムナンは驚き、自分の耳を疑った。
「が、外食に付き合ってくれるんですか? ラキオさんが?」
「無論、僕は水しか頼まないつもりだけどね。もし店側から文句を言われたら、その時はなにか適当に小皿でも頼んで君にあげるよ」
どうやら食べ物を口にするつもりはないようだが、そんな人が外で食事をする場所に一緒についてくるというだけでもレムナンには十分衝撃だった。
「えぇと、理由を聞いても……?」
「そンなことも分からないのかい君。あぁ、まったくいくら僕が手を貸してやっても、当事者がこれじゃあ先が思いやられるね」
やれやれと肩をすくめながらも、ラキオはレムナンにも分かるよう懇切丁寧に本作戦の説明を始めた。
ラキオ曰く、この対策は現在レムナンに好意を抱いている可能性がある女性、またはこの先その恐れがある女性をターゲットとしたものである。つまり、これらの対象にできるだけ広く、レムナンの恋人はラキオであるということを信じ込ませる必要があるということだ。レムナンが現在所属しているメカニックの派遣会社は従業員の九割が男性であるし、基本は単独勤務のため職場を警戒する必要性は低いと言える。では職場以外でレムナンが女性と接触しうる可能性が高い場所はどこか? その一番の候補に挙がるのが彼が時折利用する大衆食堂というわけだ。
「実際、今回被害に遭った場所だって、行きつけの店のひとつだったンだろう? これに懲りずに今後も君が外で食事をしたいと望むなら、まっさきに叩くべきはここじゃないか」
普段レムナンには到底理解できないような小難しい理論や専門用語が並ぶ論文や研究資料を読み、ときには自分でもそれらを制作しているラキオの説明は、存外分かりやすい。本当に頭がいい人というのは、相手の知識レベルを即座に測定し、相手の理解度に合わせた言葉を選択することさえ上手いのだろう。そんなラキオの態度を感じが悪いと捉えるか、一種の優しさと捉えるかは人によって差が出るところだが、少なくともレムナンは後者の人間だった。
「ラキオさんはやっぱりすごい、です……。僕のためにこんな具体的な案まで考えてくれて」
「君が女性を恐れるがあまり、疑心暗鬼状態に陥ってやたらめったら周りに敵意を向けるようになっても不利益しか生まないだろうしね。君と一緒に暮らしている僕としてもそんな状況は御免被りたい」
「あの、それで、普通にいっしょに食事をしているだけで、こ、恋人と信じてもらえるんでしょうか……」
「そこが次の課題だね。周りから見て一目で恋人と分かるような二人組の共通項は色々あるようだけど、手っ取り早いのは物理的に距離を詰めることかな」
「距離?」
「まぁ、それについては僕に任せてくれればいい。悪いようにはしないからさ」
そこで言葉を区切ったラキオは、今までよどみなく言葉を発し続けていた口を一度閉じ、くぁと小さなあくびを一つ溢した。
「……今日はこの辺でお開きにしよう。僕はもうおネムだよ」
時計の針は既に午後十一時を指している。レムナンはそこでようやく、ラキオが普段より夜更かしをしてまで自分の話に付き合ってくれていることに気が付いた。
「あ、はい。夜遅くまでありがとうございました」
「うん。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
眠たげに瞼を擦りながら、ドアの向こうに消えていった後ろ姿を見て、やっぱり優しい人だとレムナンは顔をほころばせた。握っていたスプーンを取り落とし、咄嗟に吐き出したスープで服が汚れるのも構わずに、件の店から慌てて逃げ帰った時には、レムナンの胸の内は絶望だけが占めていたが、不思議とその影はもう随分と薄れてきていた。この分だと今夜昔を思い出して悪夢を見る心配もそこまでしなくてよさそうだ。
(大丈夫だ。僕にはもう……味方になってくれる人がそばにいる)
その揺るぎない信頼こそが他の何ものよりもレムナンの心に安寧をもたらしているのであった。