偽装交際2 ラキオがふたりの予定表に印をつけた一番近い日付は、彼らが偽装の恋人関係を結んだ三日後のことだった。グリーゼの学校教育の指針を定め、現場で上がっている問題に対応する教育行政機構に籍を置き、本業の傍ら趣味と実益を兼ねた研究を続けているラキオと、派遣型のメカニック団体に所属し、リスト化された依頼の中から選んだ仕事を日々こなしているレムナンとでは、働き方のスタイルからして随分と違ったが、会議の多いラキオの職に比べると基本は個人での行動となるレムナンの方が時間の融通が利いた。その日もラキオの終業時間に合わせレムナンが職場前までバイクで迎えに来て、そこから一緒にレストランへと向かう……という手筈となっていた。
これまでにもレムナンがラキオの職場まで迎えに来たことは幾度かあったが、グリーゼの将来を左右する決定を下す場だけにその建物のまとっている空気はどことなく重たく感じられ、また、ラキオの同僚にあたる職員達も見るからに優秀な、冗談のひとつも言わなさそうな人達という印象が強かったために、レムナンはこの場所に少しの苦手意識を持っていた。
(いや、決して悪い人たちではないんです。どうにも気後れしてしまうというだけで……)
誰に言うともなく心の中で言い訳を述べながら、ラキオの職場の出入り口に近い場所で愛車を停めて待っていたレムナンの前に、自動ドアの向こうから見慣れた姿が現れた。オフィスカジュアルを意識して考えられているらしいラキオの仕事着はD.Q.O.で着ていた頃の私服よりはずっとシンプルで、今日のラキオもギャザーのはいった淡いミント色のスタンドカラーシャツをパンツインして、五センチのヒールが付いたパンプスをコツコツと鳴らすたびに黒いズボンの裾から細い足首を覗かせながら、堂々とエントランス前を歩いていた。
「おつかれさまです」
「あぁ、君もね」
レムナンが慣れた手つきでラキオの頭にヘルメットを被せ、顎下のベルトをカチリとはめる。ラキオが座席下のトランクに鞄を積み終えたタイミングで、何者かが後ろから呼び止める声が響いた。
「忘れ物をしていましたよ」
グレーのスーツ姿の女性はラキオの同僚で、レムナンも何度か見かけたことのある人物だった。職場内で最も歳が近いと以前ラキオから聞いたことを思い出しながら、レムナンはラキオの後ろで軽く会釈をした。女性も軽く頭を下げながら、右手に持っていたものをラキオの方へ差し出した。どうやら筆記具のようだ。
「あぁ……たしかに僕のものだ。別に明日だって構わないのに。そこまで重要なものじゃないって一目見たら分かるだろうに、君はよっぽどの暇人かお人好しなんだね」
「ラキオさん貴方って人は……!」
職場でもこうなのか、とレムナンは頭を抱えた。一言どころか二言三言余計な言葉が多い。革命軍として活動していた当時、ラキオが作戦会議や報告の場で隊員達にいらざる刺激を与えるたび、ヘイトを買い過ぎたラキオが寝首を掻かれるなんて事態が起きないように陰で必死にフォローを入れていたことを思い出し、レムナンはヘルメットの下で苦笑した。率直でいて、ときに相手をおちょくるような物言いは、ラキオの人となりをよく知った今でこそ一種の個性として好意的に捉えることもできるが、信頼関係が十分に築けていない人間相手にはただの嫌味にしか聞こえないだろう。
彼女の反応を見るのが怖いなと思いつつ、レムナンが恐る恐る相手の女性の様子を伺うと、意外にも彼女は落ち着いていて、腹を立てることもなく、ただ静かに微笑んでいた。
「あなたが忘れ物をするなんてこと自体珍しかったから、てっきりこれにも何か意味があるのかと思って追いかけてみたのだけれど。違ったかしら?」
ふふと笑う彼女を見て、片眉を持ち上げたラキオはへぇ? とお返しのように不敵な笑みを浮かべた。
「君の視点はなかなか面白い。あえて否定はしないでおくことにするよ。肯定したワケでもないけどね」
「そう。ところで後ろの方は? よく一緒にいるところを見かけるけれど……ご友人?」
突然、話題の対象が自分へと移り、ドギマギと視線を彷徨わせていたレムナンに代わり、ラキオがあっさりと答えた。
「僕の恋人だよ。もう長いこと一緒に暮らしてるンだ」
「こ……っ⁈」
思わず変な声をあげそうになったレムナンのブーツをラキオのつま先が軽く踏みつけた。話を合わせろということらしい。
「あ、えっと……僕の名前はレムナン、です。ラキオさんの……こ、恋人をさせていただいています」
どうにか自己紹介を終えたレムナンに、彼女はまぁ、と少し驚いたような声を上げた。
「正直意外だったわ。あなたにお付き合いしてる方がいただなんて」
「どういう意味? 汎は一生孤独に暮らしていろって?」
「違うわよ、悪い意味で言っているんじゃないの。むしろいいことだと思うわ。私達はこの国の新時代に生きる子ども達に世界にはいろんな生き方があって、私達は自由だということを示していく必要があるのだから」
彼女の回答を聞いて、目を瞬いたラキオはまぁ、そういう考え方もあるかと頷いて、彼女へと背を向けるとレムナンに出発するよう促した。
「忘れ物を届けてくれてありがとう。一応礼は言っておこう」
「あら、こちらこそ。貴重な情報を与えてくれてありがとう」
「別に秘密にしているワケでもないからね。君が言いたいのならば誰にでも話してくれたって構わないさ」
「あら、じゃあ明日のランチタイムで話題にあげさせてもらおうかしら」
唇に手を当ててフフと笑いを溢した彼女にフンと鼻を鳴らし、「どうぞご自由に」と言い残したラキオがタンデムシートに跨って躊躇なくレムナンの腰へと両腕をまわしたのを合図に、レムナンはバイクを発進させた。ミラーの中で小さくなっていく彼女を見て、レムナンはラキオの職場に対して勝手に抱いていた苦手意識を少し見直すことに決めたのだった。
「……にしてもあの場で急に僕のことを恋人と紹介するとは、思いませんでした」
一つのメニューを二人で覗き込みながら、レムナンはラキオにだけ聞こえる小声で呟いた。
「どうして? そういう作戦を実行中なンだから、あの場ではああして紹介するのが最適解だっただろう」
「そう、でしょうけど……。ラキオさん、明日から職場の人と気まずくなったりしませんか……?」
「あン? なんで君との交際を打ち明けただけのことで僕の評価が見直されるようなことになるワケ? 意味が分からないよ。あぁ、君の正体があの反政府組織の元リーダーだと、彼女が既に気付いていたならば、ちょっとした噂にくらいはなるかもしれないけど」
ヘルメットを被っていてよかったとレムナンは心の底から安堵した。反政府組織が中心となり起こした革命で旧政権が倒れた際に、実行部門のリーダーであったレムナンと組織の統制者であったラキオの名は一部の報道機関で報じられはしたが、記念像まで建ったラキオに比べれば自分の名前など覚えている人の方が少ないだろう、とレムナンは認識していた。
ラキオからしてみれば、その考えは甘過ぎると言わざるをえない。レムナンは自分自身に対する評価が昔も今も低過ぎるのだ。本気で世間から一般人として扱われたいというのなら、顔を隠して髪色を変えて、名前も偽名を使うくらいのことでもしなければ難しいだろう。異邦人でありながら、グリーゼの国史どころか宇宙史にまで残るような偉業を成し遂げた彼は、もうただの民間人で通すには有名になりすぎていた。それでもこうして、一般人向けの居住船でラキオと暮らし、メカニックとして生計を立て、大衆食堂で食事をしてもまわりで騒ぎが起きないのは、レムナン本人が普通を望み、まわりがその気持ちを汲んでそっとしているだけに過ぎないのだ。もちろん、身分格差をなくす方針へと舵を切った擬知体中心の新政府による政策の成果によるところも大きいだろうが。
「……そんなことより早くどれにするか決めなよ。入店したのにいつまでも注文もせずに話しているだけなンて怪しく見られるだろう」
ラキオに急かされて慌ててオーダー画面を開いたレムナンは、肉料理を中心とした料理名が並ぶメニューの中から、ミックスグリルセットひとつと水をふたつ選択し、左手首に嵌めていたスマートウォレットで決済を済ませた。
料理が運ばれてくるまでの間、ふと自分の横を見てそこでようやくレムナンは違和感に気が付いた。
「ラキオさん。どうして、今日は隣に座っているんですか……?」
家でレムナンが食事中、会話をする——というよりは自分の考えや新たに得た気付きを彼に聞かせようとするとき、ラキオは必ずレムナンの正面の席に座り、彼が物を咀嚼しながら時折話を聞いているという証に頷いたり視線を合わせたりするのを眺めつつ、生き生きと弁舌を振るうのが常だった。だというのに、今夜のラキオはレムナンの座ったソファ席の隣を自ら選び、わざわざ同じシートへと腰掛けてきたのだ。
「どうしてだと思う?」
「またクイズですか」
「そんな難しい問題じゃあないよ。君、何のために僕が今日ここまで来たのか考えてみなよ」
料理人がレムナンの注文した料理をカウンターに置き、給仕の女性がグラスに入った水がふたつ乗ったトレイにその皿を追加して、自分たちのテーブルへと向かってくるのを遠目で確認したラキオは、奥に座るレムナンの方へとそっと近付いた。ぎょっとして身を引こうとする彼を制して耳打ちをする。
「今の僕達は恋人同士なンだから、このくらいが丁度いい」
ラキオの吐息が触れた右耳を思わず片手でおさえながら、赤い顔をして呆けていたレムナンの前に、注文の品が並べられていく。
「お待たせいたしました。ミックスグリルセットと飲料水です。どうぞごゆっくり」
地球のデザイナーに依頼して作ったらしいこの店の制服は、クラシカルな型のいわゆるメイド服というもので、ニコリと笑ってふたりを接客してくれたウエイトレスもその制服を見事にかわいく着こなしていたわけだが、そんなことには全く意識が向かないくらいにレムナンはラキオの言動に動揺していた。
「ど……な……」
「えぇ、君、ひとりで食事をすることもできないの? 仕方がないなァ」
わざとらしい口調でカトラリーケースの中からフォークを一本取り出したラキオは、それで皿の上に鎮座するメインディッシュの肉料理……ではなく、その横に添えられたにんじんのグラッセをぷすりと刺すとレムナンの顔の前に掲げた。
「ほら。さっさと口を開けなよ」
「え、な、何を……」
「あーんだよ、レムナン」
ニコニコと稀にみる機嫌の良さで、こちらに食べ物を差し出しているラキオを見て、レムナンは何が何だか分からず目を白黒させるばかりだったが、ラキオの後ろに見える従業員や、他の客の視線がこちらを向いていることに気付くとハッと我に返った様子でラキオの顔を凝視した。
(この前言ってた『距離を詰める』って、コレのことですか、ラキオさん——⁉)
これもラキオの言う恋人らしく見せるための作戦の一環だというのなら、レムナンに逆らう術はない。ええいままよと目を瞑り、レムナンは勢いに任せてフォークごとにんじんに食らいついた。「おいしいかい?」と楽しそうに尋ねられたところで、今の状況では味など分かるはずもなかろうが、顔を赤くして変な汗で背中を濡らしながら「お、おいひいれす」とレムナンはラキオの求める答えをどうにか絞り出したのだった。