偽装交際3 人間が生まれ持った慣れという習性は逞しいものだ。はじめはあれだけラキオの『あーん』にまごついていたレムナンも、外食のたび同じ行為を繰り返されるうちに、今では自ら口を開けて待つようになった。すっかり今の特殊な状況に順応したレムナンの態度を「相変わらず君は神経が太い」と評して、面白くなさそうに彼の口へとスプーンを差し込むラキオも、恋人役が随分板についてきたようだ。
ラキオが示した恋人として正しい距離感を演じるため、今のふたりの物理的距離は関係を結ぶ前と比べて大分近い。テーブルを挟み向かい合って座っていた食事の席は隣同士に。人一人分の空間を空けていたふたりのパーソナルスペースは拳二つ分にまで縮まった。そして、それと同時に互いの身体が触れ合う機会も自然と増えた。隣に座っていれば『あーん』をしていない時でも、ふとした瞬間に肩が触れ合ったり、相手の髪の香り——同じ洗髪剤を使用しているため、香り自体は自分が纏っているものと同じはずなのだが——を感じたりすることもあるし、すぐ近くで歩いていれば内側にある手同士が意図せず当たってしまうことだってある。
そういった時、本当の恋人同士であれば、肩を抱くなり、手を繋ぐなりといったスキンシップに繋げることもできるだろうが、生憎ふたりの関係はかりそめのものに過ぎない。不意な接触でいつも過剰に反応してしまうのはレムナンの方で、「すみません」だとか「ごめんなさい」だとか言いつつ、その瞬間だけはラキオから少し距離を取るのだが、それに対してラキオの方はといえば、「なにが?」といった具合で彼を訝しげに見やるだけでその原因にすら気付いていない様子だ。そして、そんな自分とラキオとの間に存在する温度の差をレムナンはほんの少しだけ寂しく感じていたのだった。
「種まきは済んだ。そろそろ次の段階に移ろうか」
その日も、レムナン行きつけの店のひとつで、妙齢のウエイトレスや女性客を相手にテンプレート的な恋人演技を見せつけた後、空になった皿を前にしてラキオが言った。
「次の段階ってなんですか?」
元々、作戦の主導者はラキオの方で、レムナンはただそれに付き従いこの数週間言われるがまま行動を共にしているに過ぎない。ラキオの頭の中にある、レストランで『あーん』の次の計画がどんなものなのか、当事者であるレムナンはまだ何も知らされずにいた。
「休日に出かけようか。人が多くて賑わっている場所ならどこでもいいンだけど」
「出かける……? えぇと、なにか欲しいものでも? 僕、荷物持ちくらいしかできませんけど」
「君ね、ただの買い出しじゃないンだから。デートに行くって言ってるンだよ」
「デ……⁉」
恋愛に興味を持ったことすらなさそうなラキオがその単語を知っていたことも驚きだったし、それに誘われたこともレムナンにとっては大きな衝撃だった。驚愕を体現したような表情であんぐりと口を開けたまま固まっているレムナンを気にも留めずに、携帯端末で行き先の候補を検索していたラキオは「あぁ、これなんて君は楽しめるンじゃない?」とそのページをレムナンの顔の前へと表示させた。
「……遊園地?」
「そう、移動型のね。今この国が娯楽系の文化を導入しつつあることをどこからか聞きつけて、わざわざ他所の星から出稼ぎに来るらしい。まったく商魂逞しいね」
「僕、行ったことありません遊園地」
「もちろん僕もだよ。でも、君は機械や乗り物に目がないンだろう。ここなら君がまだ見たことがないような代物にも出会えるンじゃないの」
そう言うとラキオはニコリと笑った。余所行きの、かわいらしい笑顔だ。普段家でレムナンをからかったり、口論になって相手を馬鹿にするときに見せるような笑い方と違い、ほほ笑みという表現が似合う、そんな顔。ここ最近、ラキオが人前でよく作るようになった表情だ。その笑顔を見るたびにレムナンは密かに不安を募らせていた。
(元から容姿が整っていたこの人が愛想まで身に着けてしまったら、対して中身も知らないままにうっかり一目惚れしてしまう人が男女問わず現れるかもしれない。そうなったら……きっと、僕なんかより対処するのは大変だ)
だが、幸いなことにと言っていいのか、ラキオがその表情を見せるのはあくまでレムナンの恋人役を演じているときだけ。つまりレムナンが傍にいるときだけだ。それならば、今のところ大きな問題には繋がらないだろう。
「何を急に押し黙って思い耽っているんだい? 僕を放ったらかして瞑想するなンていいご身分だね」
「わ、」
心配性の性分を発揮して、つい自分の世界にこもってしまっていたレムナンの頬を隣から伸びてきた二本の腕がみょいんと真横に引っ張った。
「ちょ、やめれくらはい……っ」
「あはは、君の皮膚は実によく伸びる。何て言ったか、ジナが昔しきりに勧めていた彼女の好物みたいだねぇ」
ラキオが言っているのはきっと団子のことだろう。ジナが自ら調理プラントで生成したという地球発祥の甘味は、D.Q.O.で行われたパーティー中にレムナンもいくつか口にしたが、甘さの中に塩気もあるという複雑な味わいで、それに加えもちもちとした触感が珍しく、彼女が好物だと主張するのも頷けるおいしさだった。だが、いくらおいしいとは言っても、その食べ物と自分の頬の弾力性を同じに位置づけられるのは少々複雑である。
「……ラキオさんの頬だって、結構伸びるじゃないですかっ」
「あっ」
レムナンの顔から手を放して、油断した様子で笑っていたラキオの頬をレムナンがつまみ返すと、彼の言った通り、指ぬきグローブを纏った手に導かれるがままにラキオの頬はむにゅんと綺麗に伸びた。
「ちょっとっ!」
「仕返しですよ。はじめにしたのはラキオさんでしょう」
「元はと言えば君が僕の話を聞いていなかったのが悪いンじゃないか!」
そう言ってプリプリと怒りながらフンと顔を背けるラキオと、そんな様子を見て眉を下げながら小さく笑いを溢しているレムナンの様子は、張り切って恋人の演技をしているときよりもずっと、周りの目には仲睦まじいカップルとして映っていたが、本人達だけがそのことに無自覚なのであった。
***
「……すごい」
約束通り、二人の休みが重なった次の休日に例の遊園地へと出かけたふたりを待ち受けていたのは驚きの連続だった。
超高速でレールの上を走り上昇と落下を繰り返す尺長の乗り物に、音楽に合わせ回転する作り物の動物たち。個性あふれるさまざまなアトラクションの中でももっともレムナンの目を引いたのは、ゆっくりと回る巨大な鉄の塊——観覧車だった。
「これに乗りたいの?」
「はい。あっ、でもせっかくなら最後の楽しみに取っておきたい気持ちも……」
「まぁ君の好きにすれば。まずはどこに行くンだい」
「そうですね……」
レストランでメニュー表を眺めるときと同じように、互いに顔を寄せて園内マップを覗き込むふたりは、どこからどう見ても息の合ったカップルだ。今日の服装もそれに一役買っているように見える。上を丈違いの白いシャツ、下はジーンズという揃いの格好でまとめ、服がシンプルな分それにアクセサリーで華やかさをプラスしているラキオのメイクも、今日はナチュラル寄りだった。いつも首元まで隠れるインナーを着用しているレムナンは、ラキオから指導された大胆に鎖骨が見えるシャツの着こなし方を最初恥ずかしがったが、「誰も君の胸元なンて注目しないよ。自意識過剰なンじゃない?」とラキオに言われて、それ以上もじもじするのをやめた。
物珍しい乗り物に高揚しているのはレムナンだけではないようで、周りのグリーゼ国民たちも皆一様にこの場の空気を楽しんでいるようだった。回転木馬と呼ばれる乗り物のうち馬車型モチーフの一台に乗り込んだふたりは、回転する乗り物の中からそんな人々の様子をじっと眺めていた。
「みんな、随分と浮かれているね。そンなに楽しいかい此処は。雰囲気に飲まれ過ぎじゃない?」
「いいじゃないですか。娯楽施設はそういうものでしょう」
「まぁ、そうか。……グリーゼでこんな光景を見れる日が来ようとはね。幼少期の僕に未来の出来事を教えたら、頭がおかしくなったと非難されるに違いないよ」
ハハと皮肉を交えて笑いを溢しながら自国の民を見つめるラキオの目は、言葉とは裏腹にやさしかった。そんなラキオを見て、レムナンも同じように目を細める。
「……よかったです。グリーゼを、皆さんが明日に怯えることなく、純粋に今を楽しめるような国に変えることができて」
「……うん」
レムナンの言葉に返ってきたのは短い相槌のみだったが、その一言にラキオの感情がこもっているのを受け止めて、回転木馬が止まるまでの間、レムナンは再び今のグリーゼだからこそ見られるその光景を眺め続けたのだった。
「ラキオさん、すみません。そこの出店でなにか食べ物を買ってきてもいいですか?」
レムナンの言葉を聞き、ラキオが時計を確認するとなるほど時刻はちょうどお昼時だった。
「出店と言わず、どこか適当な店に入って食べたら?」
「いえ、レストラン結構混んでそうなので。あと、あのチキンが美味しそうなので食べてみたいなって」
レストラン前に出来ている行列と、出店の方角から漂う香ばしいタレの匂いとを確認して、ふぅと肩をすくめたラキオは手で追い払うような仕草と共に早く買ってきなよとレムナンを出店の方へと見送った。時間帯のせいもあり出店の方にも数名の列ができてはいたものの、間もなくして無事お目当てのターキーレッグと飲料水の入ったボトル二本を手に入れたレムナンは、先ほどラキオと別れた場所にまで戻ってきたのだがそこにラキオの姿が見えないことに戸惑いを見せた。
「あ、あれ? ラキオさん……?」
キョロキョロと辺りを見回しても、その姿は見当たらない。焦ったレムナンは近くにいた擬知体スタッフを呼び止めると、ラキオの情報を提示して所在地をサーチしてもらった。
「お連れのラキオ様は現在、観覧車付近にいらっしゃるようデス」
数十秒と経たぬうちに見事その居場所を突き止めてくれたここのスタッフは優秀だ。後日、遊園地宛てに高評価レビューを残そうと心に決めながら擬知体にお礼を言うと、レムナンは早速教わった方角へと駆け出した。
「あのね、相当しつこいよ君達。観光者だかなんだか知らないけど、そうやってこの国の人間をかどかわすのが目的なら即刻立ち去ってくれる?」
「まぁまぁ、そうつれないこと言わないでよ」
「そうそう。遊園地すら初めてだなんて相当の箱入りなんだろ君。俺達が遊び方教えてあげるよ」
ラキオとその前に立ちふさがっている見かけない二人組の男達を見て、レムナンの直感が告げた。
(ラキオさんがタチの悪いナンパに引っかかっている——!)
少し離れた場所でわなわなと昼食を持った両手を震わしているレムナンの存在には、まだ三人とも気が付いていないようだ。
「余計なお世話だよ。道案内の親切ならもう十分に働いてやっただろう? 残りの疑問はスタッフに尋ねることだね」
「いやいや、君は知らないかもしれないけど、この観覧車だって本当は三人で乗った方が楽しめるんだ。だから一緒に付き合ってよ」
「そうそう、君にも楽しんでほしいからさぁ」
「だから、連れを待たせているとさっきから何度も言って」
「ラキオさん」
男達とラキオの間に割って入り名前を呼んだところで、ようやくレムナンは彼らから存在を認知された。レムナンの姿を視界に入れたラキオの目がぱちくりと瞬く。
「ラキオさん駄目じゃないですか。勝手にどこかに行っちゃ」
「仕方ないだろう。貴重な観光客を無碍に扱ってグリーゼの評判が下がるようなことになったら困る」
「こんな人たち相手にそんな心配するだけ無駄ですよ」
突然ナンパを邪魔しに入ってきた人物が発した棘のある言葉に、男達は不快そうに眉を顰め、レムナンに向かってガンを垂れた。
「お兄さん困るよぉ。俺達この子と楽しくおしゃべりしてたのに、急に割り込まれたらさぁ」
「名前すら知らない貴方達と、恋人の僕。この人にとってどちらが優先すべき存在か分かりますか?」
口元に控えめな笑みを浮かべながら目はまったく笑っていないという、レムナンの異様な表情に男達は思わずビクッと身を震わせた。
「あ、あの……俺達知らなくってぇ」
「グリーゼには観光へ? まだ観光名所と呼べるような場所は少ないですが、この遊園地以外だと西の第一図書館なんかは他では見られない貴重な資料や本がたくさんあっておすすめですよ」
「いや、あの、ムグッ」
それでもなお、言い訳か何事かを続けて述べようとした片方の男の口に持っていたチキンの足を突っ込み、それを見てあんぐりと口を開けている残りの男の手に水の入ったボトルを持たせると、薄笑いを浮かべたレムナンは突き放す様に言い放った。
「ちょうどお昼時ですからね。これは僕からのささやかな餞別です。どうぞ僕達とは無関係なところで、この国を楽しんでいってくださいね」
それではと強引に話を切り上げたレムナンは、一本だけ残されたボトルを持った手とは反対の方の手でラキオの手をしっかりと掴むと、男達の傍を離れて観覧車乗り場へと突き進み、そのままスタッフの案内で流れるように赤いゴンドラへと乗り込んだ。皆が昼休憩に入っている分乗り物はすいているようで、前のゴンドラも後ろのゴンドラも空席だ。
「……ねぇ、ちょっと」
ゴンドラが地上を離れて、その高度が三メートルに達する頃になって、焦れたようにラキオが先に口を開いた。
「なに怒ってンの」
「……怒ってる、ですか」
レムナンはラキオからの指摘で、ようやくゴンドラのガラスに反射して映る自分の顔が不機嫌な表情を浮かべていることを自覚した。
「たしかに、あの人たちに対しては怒っていますけど……。貴方に対して抱いている感情はどちらかといえば……心配、です」
レムナンがそう打ち明けると、ラキオは怪訝そうに片眉を上げ、質問を重ねた。
「どういう意味?」
「観光事業に着手しはじめたこの国には今までと違って多くの人がやって来るでしょう。そうでなくとも、身分階級制がなくなって開かれたこの国で、貴方は多くの人と知り合うことになる。……僕は、それが不安です」
「だから、具体的に何が?」
少しの苛立ちを声に乗せながら追及してきたラキオから視線を外したまま、レムナンは罪を告白するようなトーンで答えた。
「……人から向けられた好意に、貴方がいつか応える日が来るんじゃないかと」
レムナンの回答を聞いたラキオは、一度目を見開いた後、心底呆れたというような表情ではあと大きなため息を吐いた。
「何をどうしたらさっきの出来事からそンな発想に繋がるワケ? 君の思考回路は一体どうなってンの」
「……」
「あのさ、自覚があるンだかないンだか知らないけど、少なくとも客観的に見て、一緒に暮らして、食事に同席して、こんな疑似恋愛にまで付き合ってやっている……君こそが今僕に最も近い存在だろう?」
「え」
「だから、そんな君を差し置いてまで、僕と親しい関係を築けるような相手、そう簡単には現れないだろうって言ってンの」
「は」
「こんな簡単な予測もひとりで立てられないわけ? あぁ、そうだ。君は自分のことになると途端に評価基準が馬鹿になるンだった。困ったものだね」
自尊心の育て方について今度リサーチでもしてみようかな、などとブツブツ呟いているラキオの顔を凝視して、レムナンは震える唇から言葉を吐き出した。
「ぼ、僕が……? ラキオさんの、一番……なん、ですか?」
「なンだい。君だって誰かひとり選べと言われたら僕を選ぶだろう。同じことだよ」
あぁ、だとか、えぇ、だとか言葉にならない声を漏らしながら視線を彷徨わせているレムナンの顔は、戸惑いからかそれとも恥じらいからか、ほの赤く染まっていた。食べ物をあーんする程度ではもう動じなくなった彼が見せる久しぶりの初々しい表情を目にして、満足げに口元に弧を描いたラキオはいい悪戯を思いついた子どものような口ぶりでレムナンに話しかけた。
「そうだ。そういえば、先程の礼をまだしていなかったね。君があの場に来てくれたことで、僕は職員に通報して事情を聴取されるなンて面倒を避けることができたワケだし、一応君には感謝しているよ。さて、お礼をしたいところだけど、生憎今は何も与えられるような物を持っていなくてね。そこで物の代わりに最近作戦の参考に目を通した映像資料の中にあったスキンシップとやらを試してみようかと思うンだけど」
「す、スキンシップ……?」
身構えるレムナンを気にも留めず、ラキオは向かいの席から彼の隣へと移動してきた。十分なスペースが設けられたレストランのソファ席とは違って、ゴンドラの中は狭い。二人並んで腰かけると、足を開くこともできない。居心地が悪そうにできるだけ窓際へと肩を寄せて身体を縮こまらせているレムナンをにやりと見遣り、その顔の位置を確認したラキオは、彼が逃げられぬようにその肩に片手をかけてきゅっと押さえつけた。
「えっ?」
肩に手が乗せられた感覚に驚いたレムナンがぎょっとして視線を横に向けると、青い綺麗な瞳を持つ、よく知る顔がかつてない近さで接近してくるところだった。
ちゅ。
耳を澄ませていないと聞こえないような小さな音。それでも、それを受けた本人の耳に届くには十分なボリュームがあった。一瞬頬に触れた柔らかで少し潤みを帯びた感触と、先ほど聞こえたリップ音。それらの情報から、自分が今、ラキオから何をされたのかを理解したレムナンは、顔を真っ赤にして声にならぬ声を上げた。
「ラ……っ⁉ い……っキ……っ⁈」
「あははっ、人語を忘れるほどに驚いたの? 面白いな。そンなに気に入ったのならもう一度してあげようか」
「はっ⁉」
「冗談だよ」
そうしてレムナンのすぐ真横で彼の反応を観察していたラキオは「ちゅう一つでこんな大げさな反応が見れるだなンて、興味深い。いいことを知れたよ」などとほっぺチュウという行為そのものではなく、新たな知見を得たことに対してこの先不安の残る感想を生き生きと述べるものだから、レムナンは自ら飛び込んだ狭いゴンドラの中逃げ出すこともできずに、ただ赤い顔で項垂れ、勘弁してください……と力なく訴えるしかないのであった。