偽装交際4(終) ラキオはいつも決まった時間に床に就き、決まった時間に起床する。先日、レムナンの相談に乗ってやったあの夜のような例外を除いて、自身のパフォーマンスを良い状態で保つためにも、無意味な夜更かしも逆に惰眠をむさぼるようなこともしないというのがラキオのポリシーだ。今朝も午前六時きっかりに自然と目を覚ましたラキオは、わずかに乱れた寝具を元通りにセットし直したのち、ロールスクリーンを上げて窓から明かりを取り込んだ。室内履きとして使用している踵のない靴をつっかけて、廊下へと出たラキオは洗面所で顔を洗うと、その場で服をすべて脱ぎ、生まれたままの姿になって鏡の前に立った。こうして、毎朝自身の体に不調がないことを確認するのは、まだラキオが学生だった頃に毎週学内で行われていた旧グリーゼ式の健診と面談の名残だ。特に異常がないことを確認して、下着から順に普段着を身に纏ったラキオは、まだ自身の体温がわずかに残っている寝間着を洗濯籠へと放り込み、その場をあとにした。
「おはようございマス、ラキオ様」
玄関からラキオの方に近づき声をかけてきたのは、この家の管理を任せている擬知体だ。近頃、急激に普及率が上昇している人型や動物型等の最新モデルではなく、初期のロボットらしい無機質的なデザインをしたその擬知体はある日レムナンによって拾われてきた。……正確に言えば、彼の職場で性能低下により処分の赤札が貼られ、ゴミ処理場に捨て置かれていたのを見つけたレムナンが、勝手に持ち帰り修理をして、この家に置いている。彼がコレを連れてきた夜、その経緯を聞いたラキオは職務規定違反にあたるのではないのかと眉を顰めたが、それから何日経とうと彼の職場から追及や叱責の連絡が入ることはなく(まぁ、それなら特段僕が気にするようなこともないか)とラキオもこの存在を黙認していた。
「おはよう」
「本日のご予定はラキオ様はA社と学内食堂設置についてのご商談、レムナン様は午前に一件個人依頼、午後に二件企業依頼が入っておりマス」
「そう」
「今晩のお食事はおうちでなさいマスカ」
「あぁ、そのつもりだよ」
「承知いたしマシタ。ところで本日は……」
「相変わらず朝からおしゃべりだねぇ君は。先日は宇宙平和デーで、その前は手話言語の日だっけ? 君のおかげで僕の頭にいらぬ雑学知識が日に日に増えていくンだけど」
この擬知体を修理する際、レムナンは余計な機能をいくつか追加したようで、毎朝レムナンよりも先に起きてくるラキオを捕まえては、挨拶の後「今日は●●の日デス!」と心なしかどこか得意気に頼んでもいないどうでもいい情報を披露していくのがいつからかお決まりの流れになっていた。
「最後まで聞いてクダサイ。いつもと違って特別なんデス! なんと本日は——」
擬知体が続けて開示した情報を聞いて、ラキオは少し驚いたように目を見開いた。
「……それ、正しい情報なの?」
「もちろんデス。レムナン様自らカレンダーに登録された記念日ですから」
その返答を聞いたラキオはふぅん……としばしの間何事か考える素振りを見せ、その次に擬知体へと再び話し掛けた。
「今日の予定を追加する。情報を送るから君はその通りに予約を取ってくれる?」
「はい、分かりマシタ。お祝いしたらきっとレムナン様も喜ばれマスヨ」
「どうだかね……」
感情が乗らぬはずの電子音声で明るい言葉を発する擬知体と、その様子に呆れながらもなんだかんだで相手を続けるラキオの早朝のやりとりを、まだベッドの中で眠りの世界にいるレムナンは知るよしもなかった。
「今日の帰り、寄りたいところができたから迎えに来てくれる?」
今朝家を出る直前にそうお願いをしてきたラキオに「分かりました」と返事をしたレムナンは、午後二件目の依頼を終わらせて職場への業務終了報告を済ませた後、約束通りラキオの勤め先へと向かった。
(何の用だろう。買い物かな)
予定表の今日の日付には例のピンク印はついていなかったので、外食予定日ではなかったはずだ。寄り道の理由は気になったが、今朝はレムナンがお願いを承諾するやいなや、そのままラキオが家を出てしまったために結局行き先は聞けずじまいだったのだ。まぁ、この後本人に直接聞けばいいだろうと軽く考えて、レムナンはいつもの場所にバイクを停め、ラキオが出てくるのを待っていた。先日のこともあり、なんとなくヘルメットはそのまま被ったままでいる。
「こんばんは」
すっかり油断していたところに後ろから突然声を掛けられてレムナンは飛び上がった。
「あら、ごめんなさい。驚かせてしまったかしら」
「あ、あぁ。あの時の……」
そこに立っていたのは先日ラキオの忘れ物を届けに追いかけてきてくれた例の同僚だった。
「すみません、変に驚いてしまって……。どうも、こんばんは」
「いえ、気にしないで。急に声を掛けた私が悪かったんだもの。今日もお迎えに?」
「えぇ、まぁ」
「ついさっき上長に議事録を提出しにいくところを見かけたから、もうじきに来ると思うわ」
「そうなんですね。ありがとうございます、教えてくださって……」
親切に情報を与えてくれた彼女にレムナンが礼を述べると、ヘルメット越しにじぃとレムナンの目を見つめてきた彼女は意味ありげにフフッと笑った。ラキオをはじめ、この国の人達は皆真っ向から目を見て話をする。音声を使わず、概念伝達のみでコミュニケーションをとっていた時代が長かったからだろうか。目で相手の真意を探り、目で自分の意思を主張しようとしてくる節があるようだ。グリーゼにやってきてすぐの頃、目を合わせて概念伝達をするということになかなか慣れることができず、ラキオに叱られてばかりいた頃の自分を思い出しながら、レムナンは彼女の視線を受け止めた。
「あの……なにか?」
「いえ、おふたりが交際されているって話、本当なんだなぁと」
「えっ」
(まさかここに来て、あの時ラキオさんがした恋人宣言を蒸し返されるとは。しかも、よりによって僕一人の時に)
レムナンは内心焦りを感じながらも、自身の顔色をうまく隠してくれるヘルメットの存在に感謝しながら、彼女の言葉を待った。
「ごめんなさい、別に疑っていたわけではないのだけれど、ラキオさんがああいう人だからすぐに百パーセント信じきることが難しくて。……でも、週末あなた達を見かけたから」
「え?」
「移動遊園地、私も行っていたの。なかなか愉快なところでしたね」
「え、あ、あぁ。そう、なんですか」
遊園地デートの日、自分は人前でなにかおかしなことをしでかしてやいなかっただろうか、と脳内でグルグル自身の行動を振り返っていたレムナンを彼女の追撃が襲った。
「ラキオさんのピンチに駆けつけて悪漢を退けたあのときの貴方は、なかなかに格好良かったですよ」
「えっ……⁉」
あの時の、必死過ぎてまわりが一切見えていなかった自分の様子を知り合いに見られていた。そのことが分かった瞬間、レムナンは恥ずかしさのあまり、今すぐこの場から逃げ出したくなった。しかし、まだ迎えに来た本人が不在のままではここを離れるわけにもいかず、レムナンは心の中でか細い悲鳴をあげながらどうにかその場を持ちこたえていた。
「あぁ……すみません、お見苦しいところを……」
「そんなことないわ。皆あの光景を見て、お似合いのふたりだと納得していたもの」
「……皆?」
聞き捨てならない単語が聞こえたような気がして、思わずレムナンが聞き返すと、彼女は平然とした調子でその言葉に補足を加えた。
「えぇ、職場仲間の皆です。私はここのランチメンバーと一緒に行ってきたので」
「わぁ……。それは、素敵ですね……」
(僕の希望に反して、目撃者の人数がどんどん増えていく……。いや、作戦の本来の目的は達成されているからこれでいいのかもしれないけど、でもあの場を見られたのはやっぱり少し、いや大分、恥ずかしい)
はは、と乾いた笑いを漏らしながら遠い目をして相槌を打っていたレムナンの前にようやく待ち人が現れた。
「待たせたね」
「……恨みますよラキオさん」
「はぁ?」
僕ひとりにこんな恥ずかしい思いをさせて……という気持ちでヘルメットの中からじとりとラキオをねめつけたレムナンに対し、事情を知らないラキオの方はいきなりなんなんだといかにも迷惑そうな顔をした。
「ふふ、ごめんなさい。少しからかい過ぎました」
そう言ってクスクスと笑う彼女を見て、やはり、からかわれていたのかとレムナンは肩を落とした。
「何の話?」
「遊園地が楽しかったというお話を少し」
「あぁ。その節は教えてくれてありがとう。もう一度行きたいかと聞かれると肯定しかねるけど、興味深い場所ではあったよ」
「えっ」
そのやりとりを聞いたレムナンは地面を見つめていた顔をがばりと上げ、ふたりの顔を交互に見遣った。彼の視線を受け、ラキオは呆れの表情を浮かべ、彼女の方は静かに微笑んでいる。
「この方から、遊園地のことを、教えてもらったん、ですか……?」
「そうだよ。僕自身がデートスポットに詳しいワケないだろう」
ラキオの回答を聞いて、たしかにとレムナンは納得した。今思い返してみれば、あのタイミングですぐに、先週からオープンしたばかりの最新娯楽施設の情報を提示してきたラキオには、どこか違和感があったのだ。はじめから、恋人としてデートに行くという作戦を実行するために、前準備として同僚にデートに適した場所をヒアリングしてきたというのなら、ラキオ自身が興味を持たないであろう情報を知っていたことにも合点がいく。
「あの……僕からもお礼を言います。ありがとうございました」
「いいえ、あなた達が楽しめたのなら紹介した私としても嬉しいわ」
おしあわせにね、という台詞を最後に彼女はその場を去っていった。互いを想い合う恋人達をただ純粋に応援してくれているのだろう彼女が送った何気ない言葉は、少し重たくレムナンの心に跡を残していった。おしあわせに、も何も、実際のところ僕達は恋人でも何でもないのだ。では、何なのだと聞かれるとレムナンは答えに窮するしかない。
ラキオのことは、尊敬している。彼の人の生き方は内側から光を放つ蛍石を見ているようで眩しい。知識という名の外光を目一杯取り込み、今度はそれを知恵として自身の武器へと昇華させ、自分の存在を証明するかのようにより強い輝きを見せる。そんな生き方は、極度の競争社会だった旧グリーゼで生き延びていくために、ラキオが自然と身に着けた防衛本能から生まれたものかもしれないが、その原因が取り除かれた今でもラキオは変わらず、レムナンの目には眩しく映った。自分の身を守ることだけに精一杯だった国民の中で、真っ先に母国の現状を変えようと立ち上がった人。そして、行き場のない自分に手を差し伸べてくれた人。それだけでレムナンが革命の一翼を担うには十分すぎる理由になった。
(今更だけど、どうしてラキオさんは革命を終えた今でもなお、こうして自分を傍に置いて、未だに力を貸してくれるんだろう)
「着いたよ。そこで降ろして」
考え事をしながら、ラキオの道案内に従ってバイクを走らせていたレムナンは、ブレーキをかけてはじめて、その場所がどこかということに気が付いた。
「あ……ここって」
白い柱に緑の看板。店先にはスイーツのテイクアウト販売を始めたことを知らせる宣伝ポスターがポップな字体で張り出されている。その店はちょうど三週間前、レムナンが逃げ出したレストランだった。
「あの、ラキオさん」
「そう怯えなくとも今夜ここで食事をしようというほど、僕も鬼ではないよ。声を掛けるから少しそこで待っていて」
ラキオはそう言い残すと、レムナンをその場に残し、ひとりでさっさと店内に入っていってしまった。
(待っていろと言われても、あの人はいったい何をどうするつもりなのか)
その場でただじっとしているというのも躊躇われて、レムナンは向こうから気付かれるリスクを意識しながらも、ドアのガラス部分から中の様子を覗くのを止められなかった。
店内に人影はふたつ。そのひとつはラキオで、もうひとつは件の女性のものだった。彼女はあの日会った時につけていたのと同じ深いグリーンのエプロンをつけて、何も知らない様子でふつうに接客をしている。久しぶりにその姿を目にすると事件の晩の記憶が蘇り、胃の辺りが途端にムカムカしてくる感覚を覚えたが、あのとき背中をさすってくれた手の感触を思い出すことでレムナンはその不快感をなんとか抑え込むことができた。
彼女から箱状のなにかを受け取ったラキオはそれを胸の前で抱えた状態で、扉の方を振り返った。先ほどからずっと店内の様子を伺っていたレムナンの気配に気付いていたのかいないのか、ラキオはガラス越しに目が合った彼に手招きをして、中へと入ってくるよう促した。
「あ……」
ラキオに呼ばれ、おずおずと店内に足を踏み入れたレムナンの顔を見て、彼女の顔色がサッと変わった。顔を青くして、怯えたように自身の両手を胸の前で握っている。か弱い小動物のような仕草を見せている彼女が、本当にあの晩自分を傷つけた女性と同一人物なのかとレムナンが疑ってしまうほどに、彼女の様子は前と違っていた。
「君、この男を知っているだろう? そう、君が先日悪戯を働いた被害者さ。僕が先程話した今日記念日を迎える恋人というのが彼なんだよね」
記念日というのがレムナンには何を指しているのか分からなかったが、ラキオが恋人という偽の立場を利用して、これからこの女性を糾弾しようとしていることはレムナンにも察せられた。
「君は……」
「待ってください」
突然横から言葉を遮られたラキオは不服そうにレムナンを見上げた。その碧眼を真っ向から見つめ返して、レムナンは自分が平静であることを伝えるようにひとつ頷いた。
「僕からも少し、話をさせてもらえませんか?」
「……いいだろう。当事者は君なンだ。泣いて同情を買おうが、罵倒の限りを尽くそうが、好きにするがいいさ」
フンと鼻を鳴らし、それきり口をつぐんだラキオを見て、わざわざそんな言い方を選ぶから誤解されるんですよ貴方という人は……とレムナンは苦笑しつつ、前に向き直った。女性の正面に立ち、視線を合わせる。昔の彼なら、他人の目を真っ直ぐ見ることなんてできなかっただろうし、自分を傷つけた相手を前にして普通に立っていることすら難しかったはずだ。でも、今のレムナンと過去の彼はもう違う。この六年間、彼が眩しい存在と称えるラキオの隣で、レムナンだって多くの光を享受してきた。もちろん、得るものだけではなく、革命という名の戦いの中、制限されたこと、失われたことも多くあったが、その経験を含め、彼はこの世界で受け取った全てを人生の糧とし、自分でも気付かぬうちに成長を遂げてきたのだ。
「どうして、貴方はあんなことをしたのか……聞いてもいいですか?」
レムナンの真っ直ぐな問いかけに、女性は目を見張り、少しの間口をもごつかせた後、絞り出すように答えを返した。
「……誰よりも私の料理をおいしそうに食べてくれるあなたのことが好きだったから」
先程まで青くしていた顔を今度は赤く染めて、そう打ち明ける女性にラキオは意外そうな顔をした。てっきり、レムナンの外見や、元反政府組織のリーダーという肩書に釣られたものと思い込んでいたが、彼女が彼に向けていた好意はもう少し本気寄りのものだったらしい。
「でも、あなたには既に大切な人がいて、私ではその位置におさまれないと知って……つい、許されないことをしました。……本当にごめんなさい」
深々と頭を下げる女性に「頭を上げてください」とレムナンは声を掛けた。
「貴方のしたことはいけないことです。でも、貴方がそのことを自覚して反省していると知れただけで今日ここに来てよかった……と思います。僕は、事情があって少し普通の人よりも、誰かから好意を寄せられることに敏感で……そのことで知らず知らずのうちに貴方を傷つけてしまうことがあったのかもしれません。すみません」
まさか、レムナンの方から謝罪をもらうと思っていなかったのであろう女性が慌ててそれを否定した。そんな彼女をもういいんですと静かに制止して、レムナンは最後に気になっていたもうひとつの疑問をぶつけることにした。
「あの、ちなみにあの時あなたが料理に入れたものって……」
彼女からその答えを聞いたレムナンとラキオは、口をポカンと開けて、思わずたがいに顔を見合わせた。
***
「ちょっと……いい加減笑い過ぎですよ」
バイクを降りて、家の中に入ってもなお、思い出したように何度も笑いを繰り返しているラキオを、レムナンはじとりと睨んだ。
「だって、君、媚薬かなにかを仕込まれたのかと思いきや、ほ、惚れ薬って……ッ! アハハッ、やっぱり駄目だ! 傑作すぎる……っ」
何がそんなに笑いのツボを刺激したのか、ソファに身体を埋めて未だにヒィヒィと喘ぎながら大笑いしているラキオを見て、レムナンはもう好きにしてくださいと拗ねたように口を尖らせた。
彼女がレムナンに好意を抱いた理由を聞いた時から薄々感じていたことではあったが『薬で強引に性的関係を結ぼうとした』という前提自体が実は誤りで、彼女はただ単にレムナンの気を惹きたい一心で、他所の星の占い師だかなんだか知らないインチキ業者からまんまと騙され売りつけられた惚れ薬とは名ばかりのただのシロップを、料理に混入させただけにすぎなかったのだ。レムナンの早とちりと、真面目な牽制に向かった先で突如飛び出てきた非科学的な名称。約一か月もの間振り回された事件のあまりにもお粗末な結末がとにかくおかしくてたまらないようで、店を出てからラキオはずっとこの調子だった。
「もう、ラキオさん! 笑い過ぎによる酸欠で貴方が窒息したとしても、僕は病院に連れていきませんからねっ!」
ついに本格的に怒り出したレムナンの言葉を聞いて、目元に浮かんだ生理的な涙を拭いながらソファから身を起こし、彼の方に振り向いたラキオはまだ口元に笑みを残しながらも一旦は笑い声を静めることに成功したようだ。
「はぁーあ、笑い疲れた……。危うく君に殺されるところだったよ」
「いっそ、そのままくたばってしまえばよかったんです」
「おやおや、そンなことを言っていいのかな? 三週間も無意味な君の悩みに付き合ってやっていた僕のやさしさを無下にするつもりかい?」
「ぐっ……」
これについては本当にラキオの言う通りで、あの事件で自分が必要以上に騒ぎ立ててしまったせいで、ターゲット不在の意味のない作戦に三週間も付き合わせてしまっていたのだ。自分の早とちりと思い違いが原因だったレムナンとしては耳が痛い話である。
「……どうもすみませんでした、恋人役のラキオさん」
「フン、分かればいいんだよ。それに全く無駄というワケでもないだろう。今回はたまたま君の勘違いだったけれど、この先似たような面倒事が起きる可能性もゼロではなかったワケだし。それを未然に防げたと思えばいいンじゃないの」
ふふんと笑って、ソファの定位置でくつろいでいるラキオは、一応レムナンをフォローしてくれているらしい。それを受けて、少し機嫌を直したレムナンは、ふと先ほどラキオから預かった紙箱の存在を思い出し、それを手にラキオの傍へと近付いた。
「ラキオさん。そういえばあの店で何を買ったんです? これ、なにかの食べ物ですか?」
「あぁ、すっかり忘れてた。開けていいよ、君のものだから」
「え?」
質問に答える様子のないラキオをちらりと横目で見たのち、観念してラキオの横へと腰掛けたレムナンは、箱の開け口を止めていた金色のテープを剥がして蓋を開けた。箱の中には白いクリームにいちごの乗ったケーキがひとつだけ、保冷剤と共に収まっていた。
「……なぜ僕にケーキを?」
「呆れた。自分で登録しておきながら覚えていないのかい? 今日は君がこの国にやってきた記念日なンだろう?」
「……? あぁ!」
首を傾げ、壁に掛けられた時計で今日の日付を確認したレムナンは、やっと得心がいったというように声をあげた。それと同時になぜそのことをこの人が知っているのだろう、と心中に新たな疑問が湧いた。
「どうしてそれをとでも言いたげな顔だね。物忘れの激しい君のために教えてあげよう。君、端末のカレンダーをこの家の擬知体に同期させただろう」
「あぁ、それで……」
「そうだよ。君が余計な機能をつけてくれたおかげで毎朝絡まれて困ってるンだ」
「僕が起きるまでの話し相手に丁度いいでしょう?」
「そンなワケないだろう」
口ではそう言いつつも、なんだかんだで毎朝無視することもなくやりとりを続けているあたり、ラキオもあの擬知体のことは別段嫌ってはいないのであろう。
「でも、ありがとうございます。わざわざ貴方が僕にケーキを用意してくれるなんて……嬉しいです」
言葉の通り、はにかみ嬉しそうな様子を見せるレムナンに「じゃあさっさと食べたら?」とラキオは箱に同梱されていた使い捨てのフォークを取り出して、彼の手に握らせた。
「よかったらラキオさんも一口だけ。いちごだけでも食べてみませんか?」
「なんで君の記念日だって言ってンのに僕がそれを食べることになるのさ」
「だって、僕と貴方が一緒に暮らし始めた記念日でもあるじゃないですか」
「……ああ言えばこう言うな君は」
仕方ないなと言わんばかりにはぁと大きく息を吐いた後、ケーキの上のいちごに手を伸ばしたラキオをレムナンがそっと制した。
「今度は何?」
「一度僕もやってみたかったんです、これ」
そう言って、フォークで刺したいちごをラキオの口に近づけ、彼は笑った。
「あーんですよ。ラキオさん」
***
グリーゼに起きた革命を祝う二周年記念の日、夜に開催される記念式典への参加支度を進めていたふたりの元にいくつかの便りが届いた。D.Q.O.で出会い、縁あって未だに連絡を取り続けている友人達からの電子メッセージだった。それはいずれもグリーゼの革命記念日を祝い、今後の平和を願う書き出しから始まり、これからもふたり仲良くね、末永くお幸せにね、といった内容で締めくくられていた。後半の内容にそろって首を傾げていたふたりにその答えを示してくれたのは意外にも沙明で「おいおい、随分見せつけてくれンじゃねーの! ヒューッあっついねぇ!」という、今や全宇宙でもそこそこ名の知れた動物学者の第一人者とは到底思えないふざけた文章の後ろに添えられたリンクをクリックすると、そこには先月ふたりが一緒に受けた取材記事が掲載されていた。これもまた、革命記念日である本日付で公開された記事のようだが、スイスイと画面をスクロールしていたラキオの指が記事の一番下に辿り着くと同時にピタリと止まった。その横でレムナンは目をこれでもかと大きく見開き、おまけにあんぐりと口を開け、画面を凝視している。
『グリーゼに在住するAさん(匿名)によると、かつて革命の統制者とリーダーであったお二人は現在恋仲にあり、同棲をされているとのこと。失われるはずだった多くの命を救い、平穏な日常をもたらしてくれた英雄たちの幸せを願って、街中でのふたりの仲睦まじい様子を国民一同あたたかく見守っているそうです。』
二人してたっぷり三十秒ほど絶句した後、眉間をおさえたラキオが呻くようにして呟いた。
「……いつからこの国の人間はこんなに口が軽くなったンだろうね」
「はは……」
宇宙規模の報道で、交際関係をバラされてしまったとあっては、もう笑うことしかできない。
「どう、しましょう……? もう約束の一か月は経ちますけど……」
「……こうなってしまった以上、嘘を貫き通すしかないだろう。人の噂も七十五日という言葉もあることだし、半年もすれば皆こんな記事のことは忘れてしまうよ」
「あの、僕は元々嘘をつくのが得意ではありません。敵対している相手ならまだしもそうでない人を相手にした嘘は……特に」
「じゃあ、やめておくかい?」
遠回しにラキオが定めたこの先の方針を断ろうとするレムナンに対し、じゃあどうするっていうんだと言わんばかりにラキオはイラついた様子で彼をねめつけた。
「いえ、僕が言いたいのはそうじゃなくて……」
先程からうつむいていたレムナンは、そこで一度言葉を切ると、顔を上げてラキオに視線を合わせた。その眼にはなにか覚悟のような色が見える。
「いっそ事実にしてしまいませんか? この交際を」
思ってもみなかった彼からの申し出に、ラキオは目を瞬かせ、少しの困惑を表情に浮かべながら口を開いた。
「……僕に君の恋人になれって言うの? 本物の?」
「はい」
「なンで、そんなこと。君だって、べつに僕のことをそういう目で見ているワケじゃないだろうに」
「この一ヶ月普段と違う距離感で接してみて、ラキオさんはどう、思いましたか? なにか、嫌な思いをしましたか?」
そう問われて、ラキオは偽の恋人として過ごしたこの一か月の出来事を頭の中で振り返ってみた。人の目を気にして誇張した演技をしなければいけないという一種の不便さは付きまとったが、それも遊びの一環だと考えてしまえば大したことではなかった。それどころか、自分一人では普段足を運ばないレストランも、この先も行く予定などなかった遊園地も、行ってみればそう悪くはなかった。
「……特にこれといって思いあたらないけど」
「僕もです。だから、いいかなと思って」
「いいかなって……」
革命軍として活動していた頃も活動を終えて日常へと戻った後も、育った環境も築いてきた価値観もまったく違うレムナンは、あまりに飛躍した考えを述べてラキオを呆れを通り越して困惑させることがこれまでにもたびたびあった。今がその最たるものだとラキオはレムナンの突飛な発想にどう対応したものかと考えあぐねていた。
「……ねぇ、僕は恋愛に関してはまったくの素人だけど、世の恋人達は皆こんな感じで交際をスタートさせるものなの?」
「どちらかが告白してそれを受け入れて始まるのが一般的だと思いますよ」
「今の状況と全然違うじゃないか」
「でも、こんな始まり方もある意味僕達らしいと思いませんか。元はと言えば、貴方が僕をこの国に誘ってくれたきっかけだって、きっと些細なことだったんでしょう。だけど、こうして今でも何故か一緒にいる。……そういうものですよ」
レムナンの主張は先ほどからまったく筋が通っていない。論理的思考を放棄した、ただの感覚の露出だ。そう思うのに、なぜかそれと同時に彼に「そういうものです」と言い切られてしまうと、それを一蹴しがたい気持ちもラキオの中には存在した。
「……まぁ、正直なところ、君との関係がどういう形で落ち着こうと、僕としてはどちらでもいいンだ」
「僕も同じです。大事なのはあなたがここにいて、僕がその隣にいる。それだけのことなんですから」
「じゃあ、なに。僕達本当に付き合うの?」
「いけませんか?」
「いけなかないけど。なンていうかこう……普通の人間が好む雰囲気だとか色気だとかそういうものがこの場には全くないね。ま、僕達にそんなもの不要か」
決心がついたのか、先ほどまで見せていた戸惑いの表情を引っ込め、いつもの自信に満ちた勝気な態度へと戻ったラキオは片手をレムナンへと差し出した。
「いいよ、レムナン。僕達は今日から本当の恋人同士だ」
行くあてがないなら僕と一緒にグリーゼに来ないかとD.Q.O.で誘ってくれたあの晩。
慣れない夜更かしをしてまで、レムナンの相談に乗ってくれたあの晩。
かつての思い出の中の姿と同じように、再び目の前に差し出された右手。
レムナンはその右手を握らずに、そっと両手で包んで下ろさせた後、口元にやわらかな笑みを浮かべながら、ラキオの目を見て静かに説いた。
「ラキオさん。恋人同士の挨拶が握手というのは少し、違和感があります」
「ふぅん? ……じゃあ君が正しい恋人同士の挨拶ってやつを僕に教えてよ。先程も言った通り、僕は恋愛に関してはひとつも分からないンだから。言い出しっぺの君が責任をもってリードしてよね」
レムナンの出方を伺っているラキオはすっかりいつものペースに戻ったようで、どこか楽しげだ。その表情には未知の世界へと足を踏み入れることへの恐怖も、恋人としてレムナンに身体を預ける不安も、どこにも見られなかった。
「分かりました。……ラキオさん、いつまでもこちらを見てないで早く目を閉じてください」
「どうして?」
「そういう、作法です」
「そう。分かった」
存外聞き分けよく、指示に従い瞼をおろしたラキオの唇に、レムナンはそっと自身の唇を押しあてた。
『こうして、本物の恋人となったふたりがはじめにとったスキンシップはファーストキスだった』
このエピソードはのちにまた別のゴシップとして取り上げられ、新たな反響を呼ぶことになるのだが、まだ交際一日目の彼らはそんな未来を知る由もないのだった。
終幕