(燭へし)まだ肌寒い春の日に「ただいま」
外の空気を纏った長谷部の身体からはわずかに春の香りがした。
「春の匂いがする」
「そうだな。まだ桜には早いようだが、すっかり春めいていたぞ」
このコートだともう暑いくらいだな、そう言いながら長谷部が脱いだ黒いウールのコートを受け取ると光忠はしばし外の空気を味わった。
「外に、出たいか?」
さりげなく口にしたつもりだったけれど、声が微かに震えたのを隠すように長谷部は咳払いをした。
「全然。あ、でもそうだね久々に桜は見たいかな」
「散歩にでも行ってくるか?」
「いいの?」
「別に出るなとは言ってないだろう。もう鍵も閉めていない」
ちらとリビングから廊下に続く扉に目をやる長谷部に、そうだったねと光忠は頷いた。
「一緒に行こうよ。今日はもう暗くなるから明日にしようよ」
「ああ。わかった」
17の春にこの部屋に来た光忠はその日から一歩も外に出ていない。
ちょうど5年ぶりになるのか。
もしかしたら明日でこの暮らしも終わるのかもしれないな。
それでいい。
もう潮時だろう。
17からの貴重な時間をこの狭い部屋で過ごさせてしまったことの、時間は取り戻すことはできないけれどできることはしてやればいい。
「あの公園に行こうよ」
まだあるのかなと言う光忠の背に「そうだな」と答えると、着替えるために自室へと向かった。
3月の終わり、早咲きの桜が花を開くころ、二人は出会った。
高校卒業を前に父親が失踪し、就職先を探し始めた長谷部に大学に行くことを進めたのは父親の部下だったという男だった。
取引先から預かった金に手を出したとか、女がいたのだなどと噂する親族たちをよそに、父親から預かっていたからと進学を支援し住む場所を用意してくれた。
家でもぶすりとするばかりでろくに話もしない父親と違って、長谷部を外に連れ出しては知らないことー-食事の所作や音楽や芸術の楽しみ方といったことが多かったー-を教えてくれる男のことを、長谷部は次第に慕うようになっていった。
今思えばそれは恋慕の情ではなく兄や父親に向けるようなものだったけれど、ただひたすらに長谷部はその男の背を追い続けた。
あたりまえのように彼が働く会社に就職し、希望を出し続け彼と同じ部署に配属される頃には彼は役付きの部長になっていた。
彼と数人の力のある役職者がいくつもの大きなプロジェクトを手掛け、そう大きくない会社ではあったけれど勢いがあり、長谷部も忙しくも充実した日々を過ごしていた。
その年、年が明けて大きな物件がひとつ片付いた打ち上げで、男が金を出すからと大人数で飲みに行った。
羽振りのいいことを口にする男は初めてであった頃よりも、ずいぶん飲み方や遊び方も変わったなとふと長谷部はその日気がついた。
こんな人だっただろうか。
酔っているからそんなことを考えるのだと、首を振るとまた酒を口にした長谷部はそのざらりとした感触が間違っていなかったことを翌日つきつけられた。
「お前の会社どうなってるんだ!」
さんざん飲んだ翌日、休みの朝から社用携帯が鳴り響き、取引先の担当者から次々と電話が入る。
男を中心とした役職者数人の詐欺めいたやり口が発覚したのだ。
「うそだろう」
悲観したり悔やんだりする暇はなかった。
弁護士とともに残された長谷部は先のない会社を終わらせるための仕事をし続けた。
「おつかれさまでした。もうあとはこの書類を出せば終わりです」
長谷部のもとには信頼した人間も、一生ここで過ごすと決めた会社もなくし、この先したいことも何もなくなっていた。
もう何も手に残ってない。
そう思う長谷部の前にひらりと白いものが舞った。
雪か。
伸ばした手にひらりと落ちたのは桜だった。
「春、か」
桜はいいな。
綺麗なままひらりと風に乗って、そのままどこかに消えていく。
そんな風に消えてしまいたい。
長谷部の手に落ちた桜がひらりと風にのり、その桜が舞った先に自分と同じ目をした人間がいることに長谷部は気づいた。
黒髪、白い肌、そして長い脚が目に入る。
黒づくめの服に、白い医療用眼帯が痛々しい。
消えたい。そんな声が聞こえたような気がした。
自分でもなぜかわからない。
「なあ、消えたいのか」
長谷部はその男に声をかけていた。
「うん、消えたい。殺してくれる?」
「ああ、いいな。それもいい」
「君も消えたいの?」
そうだな。消えたいな。
この男に殺されるのも悪くない。
でもなんだろう死ぬのはまだ先でいいような気がした。
「俺の気が向いたら殺してやる。一緒に来るか」
「うん」
お互いにどうして消えたいのかも、これまでの人生も何も話さないままふたりは長谷部の部屋で暮らし始めた。
どちらもそれを訪ねなかった。
「逃げるなよ」
「行くところなんてないよ」
「そんなことないだろう」
探せば友達のところでも、何でもあるだろう。
「僕はどこにもいかないよ。君のそばにいる」
信じられないなら、鍵をつけなよ。
外から閉じられるやつ。
鎖でもなんでもつければいいよ。
光忠と名乗った男はそう言って、一切外にでようとはしなかった。
徐々に彼がまだ高校生だったこと、夢を追っていたけれど情緒不安定な母親に巻き込まれるようにしてけがをして夢を断たれたことはわかった。
1年ほどはただ何もせずにふたりして無為に暮らした。
「死にたい?」
「どうだろうなあ。死ぬのも力がいるもんだな」
「はは、わかるような気がする」
時間はたっぷりあった。
光忠にはせっかくだから世界のことを知れと勉強と本を与えた。
長谷部は思いのままに言葉を紡ぎ始めた。
「食事を作りたい」
「なんだ俺が作るものじゃ不満か」
「いろいろやってみたいんだ」
光忠の興味は勉学から料理へと移っていった。
気が付くと玄人はだしの料理を作れるほどになっていた。
長谷部の言葉は次第に外に伝わり始め、気が付くとそれが生業になっていた。
長谷部が外に出るときは鍵を閉め、チェーンをかける。
もし長谷部が外で事故にあえば、光忠はその存在すらも知られずにこの部屋で朽ちる。
自分が命を握っているのだと思うことは、長谷部を生かした。
「おかしいよな」
「まあいいんじゃないの」
これでいいのかと思いながら、長谷部はどうしても光忠を手放せなかった。
これはあの男に向けたのとは違う気持ち、もっと何か違うもの。
そうこうするうちに5年が経っていた。
そしてこの春長谷部はちいさな文学賞を手にした。
潮時かもしれない。
だから
「出かけるぞ」
ふたりは外にでた。
暗い冬の空はいつしか春の柔らかい空に色を変え、ゆっくりと歩くふたりはあの日出会った公園に足を踏み入れた。
「なあ光忠」
そう声をかけたときだった。
「ーーー!ーーーよね」
知らない名を呼ぶ女が光忠の腕をひいた。
「どなたですか」
長谷部が聞いたことがない、冷え冷えとした声が女を拒絶した。
「だって!」
「離してもらえますか?あなたが探しているひととは別の人間です」
骨ばった手をはがすと、もうその人はこの世にいないんじゃないですかと光忠はつぶやいた。
あああという泣き声から逃げるように、光忠は長谷部の手を引いて公園を後にした。
「いいのか」
「ねえ今日は豆ごはんにしようよ」
「光忠」
あとはね、菜の花もいいね。
買うものを一つ二つあげつらいながら光忠は長谷部の手をひいた。
もう知らない女の声はしないし、顔も脳からは消えた。
「長谷部くん、僕はずっとあの家にいるからね」
「光忠」
「いつか君が僕を殺してくれるまで、離れる気はないよ」
僕の世界には君しかいらないんだよ。
君も、そうだよね?
ずっと一緒だよ。
僅かに膨らんだ花から甘い香りが漏れる。
春の匂いがふたりを包んだ。