(燭へし)残香いつも通りの朝だった。
時間通りに起き、カーテンを開けると昨日と同じようなどんよりとした冬の空が見える。
顔を洗って時計代わりにつけているテレビを横目に今日のスケジュールを頭に浮かべながらシャツを羽織り、軽く温めた牛乳とミニクロワッサンを咥えながらネクタイを結ぶ。
「ラッキーアイテムは満員電車」
テレビから聞こえる声にあれがラッキーアイテムになるのかと突っ込みながら歯を磨き、ジャケットとコートを羽織るといつも通りの時間に家を出る。
ゴミを出し刺すような寒さにぶるりと震えながら駅に向かうといつもの電車、前から7両目、3番目の扉から乗り込んだ。
毎朝見かける顔ぶれのなかにふと見かけない男の姿が目に入る。
日本人の平均身長よりも高いはずの俺よりもさらに高い背、黒っぽいスーツの上からもがっしりとした筋肉がついた身体が見て取れる。
背を向けているのにそのスタイルだけでも「イケメンなんだろうな」と伺える、そんなパーフェクトな男。
同じ電車に一度でも乗り合わせたら絶対に忘れないだろう。
ガタンと急停車したはずみに車体が揺れたせいで奥へとぐぐっと押し込まれ、よろけた俺の身体はぶ厚い男の胸に受け止められた。
「すみません」
そう口を開いた瞬間、男の匂いがふわりと俺の身体を包みこんだ。
「大丈夫ですか」
そう問いかける声色、頬にあたる胸から伝わる鼓動、そして背に回された手の温度。
そのすべてが俺の身体の奥に潜んでいたモノを引きずり出していく。
「ど、うして」
自分の内側からぶわりと膨らんだものが香りとなって外に出ていくのがわかる。
まずい。
どうして。
いままでこんなことになったことないのに。
どんなαにも反応したことはなかった。
周りにどんな匂いを振りまいているんだろう。
怖い。
「ああ、まだ大丈夫だよ。君と僕しかわからない程度だから」
ぎゅうと背に回された腕に力がこもり、さらに男の香りが強くなった。
「……だめ」
身体の細胞すべてがざわざわと男の香りに反応しているのがわかる。
とろりと身体の奥から溢れたものが下着を濡らす感触がした。
これがヒートなのか?
「うん、ごめんね。でも君の香りをほかの人に感じさせたくないから」
男の強いαの香りにあてられたのだろう。車内の人間たちの気配がざわりと色めき立つ。
Ωだけではなく、αに反応しないはずのβですらもあてられそうなαの圧が車内に満ちていた。
「次で降りるからね」
「……ん、っふ。すま、ない」
「君だけのせいじゃないから。力を抜いて」
「……ん」
もっと寄りかかっていいからねという言葉に甘えて、胸にすりと頬をすりつけると温かい掌が背を撫でてくれる。
彼の香りは細胞をざわつかせるけれど、心はもっともっとと強請るほど心地よかった。
「いい子、そのまま身体を預けておいて」
駅に着いたらしく冷えた空気が車内に流れ込み、ざわついた気配がわずかに落ち着く。
その隙間を縫うように彼に半ば抱きかかえられたまま俺は電車を降りた。
「答えられたら答えて」
「ああ」
職場にΩであることは伝えてあるのか、上司や周囲の理解、そして職場への連絡方法、かかりつけの病院の有無を的確に確認しながら男は改札を出ると、俺を抱えたままタクシーに乗り込んだ。
「-----病院まで」
伝えながらまた男は運転手にプレッシャーをかけた。
おそらくβだろう運転手はあまり感じていないだろうが、それでも俺に目を向けることはなかった。
そしてまた強くなった男の香りにぶわりと細胞がざわついた。
「あっ……んぅ」
「ごめんね」
どうして謝るんだ。
俺のαじゃないのか。
そうじゃないのか。
何か言いたい気持ちがあるのに、今まで感じたことがない身体の内側からの衝動にうまく言葉にはできず、ただ男の胸に顔を擦りつけることしかできない。
「大丈夫だからね」
背を撫でる手はただ優しく、きっと俺が出しているフェロモンも感じているはずなのに動じる様子もない。
ああちゃんと番がいるαなんだな。
今まで一度もヒートもない、αにも反応したことがない出来損ないのΩ、そんな人間の相手ではないのだろう。
「……すまない」
この男が俺のαならよかったのに。
そう思ううちにタクシーはするりと病院のロータリーへと滑り込んだ。
せめて礼を、もう一度会いたいなんて下心ではない、ただ礼を伝えたい。
「連絡先を」
「また、会えるよ」
「名前を」
「光忠、今はゆっくり休んで。おやすみ長谷部くん」
ふっと目の前が暗くなった。
目が覚めると俺は病室にいて、初めてのヒートを病院で過ごすこととなった。
幸いなことにΩに理解のある職場で、これまでヒートもなく休暇を取ったことがない俺には長めの休みが与えられた。
「ありがとうございます」
Ωである上司であり副社長(社長は彼の奥方であるαだ)にそう頭を下げると「次のヒートはたぶん周期通りくると思うけど」
何か違うきっかけがあるかもしれないから、それに応じてシフトを組みなおそうとありがたい言葉をもらった。
でも今回のヒートはどう考えてもあの男、光忠の香りが引き金になった。
光忠にはきっと番がいる、それならばもう一度会うこともないだろう。
ならばもう同じことはないのではないか。
それとも……
そう思いながら自分の腕で自分を抱きしめる。
風呂にも入ったし、シャツもスーツもクリーニングに出したのにあの男の残香が身体にまとわりついて離れない。
ベッドからも部屋からも、服からもあの男の残した香りを感じた。
そのたびにざわりと身体がうずく。
けれどもう会うことはないのだ。
早く、早く消えてしまえ。
ようやく光忠の香りが消え始めたのは数か月のち、次の周期を目前にしたころだった。
ああこれでいい。もとの暮らしに戻れる。
そう安堵した心を揺らすように、社長が交代するかもしれないといううわさが流れ始めた。
「そういう話を聞いたのですが」
聞くべきかどうなのか悩んだけれど、予定通りヒートが来てしまえば社長交代の時期に休むことになるかもしれない。
それならば先にできることはしておきたいと尋ねた俺に「あはは社長はすぐには変わらないよ、でも息子が入社するよ」と副社長は微笑んだ。
大学卒業後、好きな会社で修行していいと伝えたご子息たちは商社や金融などそれぞれに好きな企業に就職したとは聞いていた。
またそれがどれもこれも一流企業で、言い方は悪いがこの会社(知名度はそれなりにあれど大手というには物足りない専門出版社だ)を継ぐことにメリットはあるのかと思うほどだった。
だから頭のどこかでご子息たちは戻らないと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。
「自分のやりたいことをするって言ってたくせにね、急に戻るって言いだしたんだよ」
「はあ」
「反対する理由もないけど、使えなかったらいらない」
だから営業部に入れて使えるかどうか見るから。
長谷部君が見て使えないなって思ったら行ってねと副社長は微笑んだ。
「わかりました」
そんな言葉を忘れかけた数日後、副社長とスケジュールを確認していた俺は背後から感じる気配にぞくりと身体を震わせた。
何だ。
ノックとともに目に入った姿に俺は息をのんだ。
「みつ、ただ」
ぶわりと身体を包む香りが。そしてわずかに体の奥に残った残香が身体の内外から細胞をざわつかせた。
「ひさしぶり長谷部くん」
「なんだお前たち知り合いなのか」
副社長の言葉が耳に入るよりも先に俺の身体は愛おしい香りに包まれていた。
「もう離さないよ。僕のΩ、僕の長谷部くん」