インボブル・ラヴ・ワールドーーー通称KV
社内で使われるその言葉は、稀咲会長担当のVIP級クライアントを意味する。会長直々に接待させて頂く、つまりは会社に多大な影響を与える御相手という訳だ。
そんな、絶対にミスしてはならないアポイントがどうしたわけか九井さん宛になっている。
「ど、どうしよう…」
「…。」
顔面蒼白の新人が助けを求めるように私を見上げる。今更会長に戻ってきてくださいとも言えない。なぜなら会長は今、上海にいるのだ。
「とりあえず九井さんに判断を仰ぐから、急いで会長に連絡して。」
「!」
泣き出すんじゃないかと思った新人は腰が折れるくらいの角度で頭を下げ、慌ただしく秘書室を飛び出て行った。事態は最悪だ。しかも御相手はKVの中でも九井さんが最も苦手なクライアントという最悪の最悪。大抵のアクシデントは文句を言いながらも対応してくれる九井さんだが、このクライアントには素直に首を縦にしてはくれないだろう。最悪会長を呼び戻せと言うかもしれない。そんなことをしたら今度は会長にネチネチ嫌味を言われるーーーだけでなく、クビになる。多分。
「あー…マジで最悪…」
寿退社の目処どころか彼氏すらいない状況でのクビは避けたい。いずれ転職してやるつもりだが、クビによる退職が再就職にマイナスであることくらいはわかる。八方塞がりなこの状況を打破するには、やはり九井さんを引っ張り出す他ない。
私は憂鬱なため息を吐きながら隣接する副会長室のドアを叩く。一瞬の間の後「入れ」と低い声が聞こえ嫌々ながらドアを引いた。
「あぁ…お前か。」
「…あ、あの…」
「?なんだ?早く言え。」
素っ気ないいつもの振る舞いも、テンポ良すぎるタイピングも、責め立ててくるようにしか思えてならない。そもそも私のミスではない。しかしそんなことは関係ないのだ。どうしようもない。考えたって仕方ない。そう腹を決め一呼吸置いて九井さんの目を見据えた。
「本日の午後ですが、急遽城之内様のアポイントが入りました。つきましては九井副会長にお願いしたく」
「ちょっと待て。」
忙しなかったタイピングの手を止め、九井さんが顔を上げる。次に言われることはもう分かっていた。
「稀咲の担当だろ。なんで俺なんだ。」
「今急ぎ会長に連絡をしておりますが、城之内様にご変更をお願いするのは難しいですし、会長が戻るのも時間的に厳しいかと。」
「そんなことは聞いてねぇ。な、ん、で、俺なんだ。」
そんな強調しなくたっていいじゃないか。喉まで出かけた言葉を飲み込む。予想通りの反応に「アポイントミスですね」と他人事のように口走ってしまったことは、些か子供っぽ過ぎたかもしれない。
「…お前のミスか。」
「いえ、違います。」
盛大なため息を吐き頬杖付く九井さんと睨み合う。わかっている。九井さんは嫌なのだ。我儘で高飛車なマダム城之内様に資本金を出して貰っていることも、年下の男に目がないことも、友好という名のご機嫌伺いもーーー俺はやりたくねぇ、と全身で言っている。しかし、それでも私が屈したらミスった新人諸共確実にクビが飛ぶ。副会長第一秘書として、絶賛婚活中の身として九井さんに屈するわけにはいかない。
「…何時からだ」
「え…?」
「アポイントは何時にとったのか、と聞いている!」
苛立ちを隠しもしない。その圧に爪弾きされた私は「14時です」と急いで応える。頬杖ついたまま微動だにしなかった九井さんは不機嫌な息を吐き、立ち上げていたノートパソコンをパタンと閉じると「出るぞ」と腰を上げる。
「もう、ですか?」
腕時計を確認するが、まだ11時を過ぎたばかりだ。いくら何でも早すぎる。
「稀咲の代わりに俺が行く、それだけであのババアは機嫌を損ねる。しかもこっちのミスだ。謝罪代わりのひとつでも持たないで行くわけにいかねぇだろ。」
「なるほど…」
「確かあのババアは…」
独り言の後半は聞き取れないでいるが、出ると決まれば車の手配を急ぐ。途中ミスった新人が相変わらずの顔面蒼白でやって来たが「大丈夫どうにかなる多分!」と、柄にもなくピースをしておいた。
十分経たずにエントランスに横付けされた車に乗り込むと、ネクタイを結び直した九井さんは「S.S モーターズへ行け」と、聞いたことない場所名を告げる。だが九井さんお付のいつもの運転手は事もなげに車を発進させた。
「どこ、行くんです?」
城之内様の会社とは真逆の方向へとひた走る車。苛立ちが諦めに変わっている九井さんを見て、まさかこのまま逃亡する気?と背中に嫌な汗が流れる。
「充電。」
「充電?」
意味がわからなさすぎて、うちの社用車って電気自動車だったっけ?なんて見当違いが頭を過ぎる。
「お前、あのババアに渡す花買いに行け。買い終えたらそうだな…一時間待ってろ。」
「はい?」
聞き返そうとする私をひと睨みして九井さんは窓を向く。これ以上何も訊くンじゃねぇという圧に口をすぼませ、黙る。重苦しい車内から今すぐにでも逃げたいのは私の方だ。まぁそんなこと出来るわけもないのだが。
諦めた私は稀咲会長の秘書に【城之内様って何のお花好きか知ってる?】とLINEを打つ。程なくして既読になり返信がつく。【薔薇かな。あの人の香水もそれ系の臭いヤツだし。】と返ってくるから吹き出しそうになる。薔薇の花束抱えた九井さんーーーを想像し、絵になるなんて思ってしまったのだ。
「…お前のミスならクビにしてたからな。」
「!!」
くだらない想像を叩き割った九井さんを前に大人しく頷いた私は、青山通りを走る車の中でギリ薄皮一枚で繋がっている首を意味もなく摩ってしまった。
「用が済んだら先に車に戻ってろ。」
賑やかな渋谷駅から離れた場所で唐突に車が止まる。道の両脇に新旧の店舗が混在するここを商店街と呼んでいいかはわからないが、確かに店はある。花屋も。
「…なんでも良いんですか?九井さんが選ばれた方が」
「どうして俺がクソVIPの花なんか考えなきゃならねぇんだ?」
「…クソVIP…」
「通称KVだろ。」
「…こ、九井さんは何処へ…?」
「隣の店に用がある。わかったらさっさと行け。」
邪魔者を追い払うがごとくのジェスチャーをかましてくる九井さんに口をひん曲げ、車を降りる。今更の話だが、九井さんはなかなかに口が悪い。
カランコロンと鈴が鳴る店の扉を開けると、女性店員が「いらっしゃいませ」とエプロン姿で振り向く。会社の近くにある小洒落た高いばかりの花屋さんとは違い、ここはごく普通の町のお花屋さんだ。
「プレゼント用ですか?」
近づいてくる店員さんをまじまじと見て、私は思う。この人おっぱい大きいな?!
「あ、あの…?」
「は、はい!そうです。薔薇の花束を作って頂けますか?」
くりくりとした大きな目をぱちぱちさせ、それからふわりと弧を描く。デニム生地のエプロンを翻し「承知しました、こちらへどうぞ」と案内する彼女の後を追う。小さめの身長にやわらかそうな肌質、はちきれそうな胸元を一瞬で網膜に焼き付けそうして勝手に落ち込む。見るからに守ってあげたくなる感じ、それが羨ましかったのだ。
「お色味はどのようなものがよろしいですか?」
「色…」
一口に薔薇と言っても目の前にある薔薇は色とりどり過ぎた。白、赤、オレンジ、ピンク、パープルまである。
「ええっと…」
謝罪のために持っていくなら、シンプルな方がいいだろうか。いや、でもあの派手好きなマダムなら毒々しいくらいの色味が好みだろうか。かといってやり過ぎはアウトな気もする。
「薔薇の花束ですと、こういうかすみ草や緑のものをいれてまとめるのも多いですし、ボリュームを持たせるためにユリなどをいれるのも好まれますよ。」
答えあぐねる私を見てか、彼女はパパっと簡単なアレンジを作り実物を見せてくれる。淡いピンクに同じトーンのユリをあしらい、そこにかすみ草とグリーンをいれた花束は決して悪くは無い。悪くは無いが、城之内様の好みではない気がするという勘と同時に、この花束は九井さんのイメージでもないなと即断する。黙っていればただのイケメン上司に似合う花束ーーー
「パープルの薔薇だけで花束って作れますか。」
「えっ?は、はい、もちろんです。」
持っていた花たちを切れた葉の散らばるテーブルに置いて紫、紫、と繰り返す店員さんを横目に赤でも良かったか?と思うが、それじゃあまるでプロポーズだなと即座に打ち消す。赤い薔薇の花束百本をあの人が贈るのはこの世で一人しかいないことを私は痛いほど知っている。
「こんな感じになりますが、どうですか?」
ざっと見た感じ二十本はあるだろうか。大きめの花は程よいボリュームを出し、女性が両手で受け取るに丁度いい大きさだ。
花束用に仕上げて貰った私は、花を潰さないよう細心の注意を払って店を出る。
「ありがとうございました!」
店の先まで見送る店員さんのマシュマロを連想させるおっぱいにやはり目がいくのは、羨望を通り越し最早僻みだ。
「さて…。」
花束の入った袋を抱え、隣の店を見遣る。九井さんは隣の店に用があるーーーと言っていたが、そこはバイク屋であった。
「…?」
店からはみ出す形で置かれたスクーターと、何故かプラスチック製のビールケースが二つ。外観はごく普通の町のバイク屋だ。店の中はーーーと、覗き込むと私が探している九井さんその人と、見覚えのあるブロンド姿。
「まさかっ、」
車内で交わした九井さんとの会話を思い出す。聞き覚えのない行先、謎の充電発言、どうにも既視感のあるあのブロンドの後ろ姿。それを見つめる九井さんのやわらかな眼差し。さっきまでの不機嫌など微塵も感じやしない。
「ここ…もしかしてイヌピーさんの職場…?」
疑いが確信に変わりつつあったその刹那「お姉さん、どした?」と肩を叩かれた。
「ッ?!」
突然の出来事に飛び上がるほどの勢いでもって振り返ると、つなぎ姿の男性が立っていた。
「えっ、あ、そのっ!」
「もしかしてバイク見に来た?へぇお姉さんバイク乗るんだ。」
直射日光を浴びたんじゃないかと思うほどの眩さに目がくらむ。人好きのする顔、というに相応しいその人は「今何乗ってんの?」とか「カスタムとかする?」と、話を進めていってしまう。顧客にもこういう人はいる。こちらの話を聞く前に「秘書さんはいい人いるの?」と言ってくるタイプのアレ。だがこの人はそういうのとはまた違うーーー純粋に仲間を見つけたといった親しさで近づいてくるのだ。だから困る。
「ちょっ、あの!違うんですッ!!」
「違う…?あ、ゴメン。俺グイグイ行き過ぎた?ダチにもさぁ、気をつけろって言われてんだけど…」
悪い!と、両手を合わせた大層軽い謝罪を受けるがやりづらさは変わらない。つなぎの胸ポケット部分にS.Sモーターズと刺繍がなされているのを見て九井さんが言った店名とピタリと一致し、焦りが増す。覗きしていたことも、中でどう見てもイチャついている上司のこともどう説明したらいいかわからない。
「中入りなよ。いやぁお姉さんみたいな可愛いお客さん珍しいから嬉しいなぁ。」
「ちょっ、ちょっと待って!待ってください!!」
引きずり込まれそうな手を掴んで引き止める私は、もう全力だ。嫌でも見える。あの上司、今キスしやがった!
「中に!中に私の上司がいるんですっ!断じてバイクを買いに来たわけではなく…」
「上司…?」
小首傾げるバイク屋さんがちらりと店内を覗くと「あー…九井くんか…」と、苦笑いが返ってくる。スっ、と身を引き隣の花屋さんの方へと重心を傾けたその人は、おもむろにしゃがみこみ所謂ヤンキー座りをした。
「お姉さん、九井くんの部下なんだ?」
つなぎのポケットをまさぐり、クシャクシャになったソフトパッケージの煙草を取り出すと「吸う?」と一本差し出される。喫煙習慣などない私はそれを丁重にお断りし、代わりに彼に倣って腰を屈めた。
「部下…というか、秘書です。」
「秘書さん!へぇー…なんか、エロい響きだな。」
何が?と思ったが、営業スマイルを浮かべて流す。言われた言葉に不快感を大して感じないのは、この人が醸す圧倒的な好青年感によるところなのだろう。
「あの…九井さんはよくお店に来るのでしょうか。」
九井さんのプライベートに興味があった訳ではい。秘書として、ビジネス上のことさえ把握していればいいのだ。ただ、やはり一度は運命の人と勘違いしたイヌピーさんが絡んでいるとなると、彼については知りたくなってしまう。
「来るよ。と、言っても俺がいない時に来てるから俺自身はあんまり顔合わさねぇけどな。」
「そうなんですか?」
「毎朝青宗のこと送りに来てるし。」
セイシュー、と呼ばれた人がイヌピーさんのことを言っていると気付くのに数秒要した。
「な、るほど…」
「九井くんってクールに見えるけど、青宗のこと溺愛してるんだよな。お陰で俺、出会った時から嫌われてる。」
俺何もしてねぇのにさァ、とカラカラ笑うこの人は別段九井さんに嫌われているーーーということを気にしているわけでは無さそうだ。寧ろ、微笑ましいとでもいうような余裕すらある。その余裕ありげなところが九井さんの機微に触れるところなのだろう。
「変なところで余裕がないんですよ。仕事中とは全く違いますもん。」
「恋愛なんてそんなものだよな。好き過ぎて周り見えねぇっつーか。でも、可愛がってる後輩をあんなに想ってくれる奴がいるってのは嬉しいものだよ。青宗は俺にとっちゃ弟みたいな存在だからさ。」
目を細め煙を吐き出した横顔に、この人とイヌピーさんとの間にある深い繋がりのようなものを見る。職場の後輩というよりも、もっと深い仲間意識ーーー有り体に言えば絆、というもの。
「えっ、と…お兄さん、は」
「あ。俺佐野真一郎。真ちゃんでいいよ。」
「…真、さんは、イヌピーさんと同じ職場の方ですよね?ここのバイク屋さんの」
「そうそう。俺一応この店のオーナーなんです。」
急にかしこまった言い方で今更の自己紹介をし終えると、やることがなくなってしまった。車に戻りイチャついて帰ってくる上司を待つべきなのだろう。だが、じっとこちらを見る真さんの視線がそれを阻む。
「えっ…と?」
「その花、隣で買ったの?」
腕に抱えていた花束を指さされ、忘れてた!と抱え直す。花が潰れてやいないか、折れていやしないか、と焦るのは、城之内様がいちいち嫌味ったらしいことを思い出したせいだ。
「はい。…実はこの後謝罪に伺う予定で…」
「謝りに行くのにその色ってお姉さん面白いセンスだな。」
面白いセンスーーーそれはつまりセンスが悪いと言われているのだろうか。
「御相手の方のイメージで選んだんですけど…やっぱり変ですかね?」
自信があるわけではない。寧ろ、こんなセンスのないものを選んでと嫌味を言われる気がしてならないのだ。自分のせいで九井さんの評価が下がるというのは良い気がしない。会社の面目が掛かっているなら尚更だ。
「いや?綺麗だし、俺は好きだよ。花とかよくわかんないけど、プレゼントって相手のこと考えて選ぶもんだろ?」
煙を吐いて真さんが微笑む。自信のなさをそっと支え勇気にする、そのさりげない言葉に救われたというのは大袈裟過ぎるだろうか。
「…九井さんに選べって言われて選んだだけなので、あの人にも似合う花束っていうだけですよ。」
可愛げの無い私は、こういう時素直になれない。でも、真さんの微笑みはそれすら見透かしているようで、やっぱりやりづらいなんて思ってしまうのだ。
「確かに九井くんが持ってたら似合うな。っつーかさ、カッコイイ奴って、なんでこういうの似合っちまうンだろうな。ズルいわ。」
唇を尖らせ「イケメンはズルい」と言うものだから、年齢不相応のギャップに思わず頬が緩む。
「真さんだってモテるんじゃないんですか?身長高いし。」
「女の子はみーんな俺の身長のことしか褒めないんだよなぁ。」
いよいよ完全に拗ねだした真さんをどう褒めるか褒めポイントを探し出したその時「真一郎くん?」と、誰かが呼ぶのが聞こえた。
「おう、青宗。メンテ終わったか?」
やおら立ち上がった真さんに倣い振り向くと、イヌピーさんが戸惑った顔で私を見ている。戦慄が走ったのは彼の後ろにいる九井さんのドス黒いオーラを見たせいだ。
「…お前、ここで何してんだ?」
薄ら笑いが却って怖い。言いつけを守らず覗きに来ていたことも、真さんを巻き込んでくっちゃべっていたことも一瞬にしてバレたのだ。ギリ繋がっていた薄皮一枚の首は、今まさに切られそうである。
「え、っとですね…」
「俺が引き止めたンだよ。可愛いお姉さんがいたもんだからさ。」
驚くほど爽やかな風が吹いた。そよ風レベルの心地良さ、それは今確かに隣から吹いて私と九井さんの間を吹き抜けていく。
「…コイツ、可愛いですか?」
顰めっ面の九井さんは、やりづらそうに言った。この人は真さんのことも苦手なのだろう。考えてみれば当然かもしれない。真さんはてらいがなく、良い意味でも悪い意味でも含みがないのだ。
「九井さんこそ、何してるんですか。堂々とサボり過ぎじゃないですか?」
俄然強気になった私は生意気にも上司を煽った。関連企業でもない恋人の職場へ行き、仕事を放ったらかして恋人に会いに来ているのだ。挨拶代わりにチュッチュチュッチュとキスまでしていたことを今更「知らねぇ」とは言わせない。
「…ホント、お前可愛くねぇな。」
「九井さんが可愛いと思うのはイヌピーさんに対してだけじゃないですか。」
憮然としたままでいる九井さんを心配してか、イヌピーさんが「ココ?」と顔を覗き込む。見つめ返す九井さんが「大丈夫」と目を細めるだけで、他の誰をも寄せ付けないバカップルワールドが出来上がるのだ。もう驚きもしない。段々と見慣れてきている。羨ましいとも、妬ましいとも思わない。今日も健やかに育まれている二人の世界を横目に「真さんお邪魔してすみません」と、現実を生きる私がいる。
「そろそろお暇しますね。」
「いーえ。また遊びに来て。今度は仕事じゃねぇ時に。」
最後の最後まで爽やか風を吹かす真さんに苦笑いしながら立ち去ろうとすると「これあげる」と懐かしいものを手渡された。
「…いちごみるく…?」
「これから謝罪しに行くんだろ?甘いモン食ってがんばって。」
ころん、と手のひらを転がる一粒の飴玉。学生時代よく食べていたそれ、の可愛い包み紙と味が好きだったことを思い出す。
「あ…りがとうございます。」
ゆっくりと握り込むと、しゃり、と包み紙が肌を擦る。くすぐったくて、そうして戸惑って、でもなんでかうれしいなぁなんて思ってしまう。会ったばかりの人に、唐突に甘やかされたことが。
「お前、真一郎くんに惚れかけてんだろ。」
バイク屋さんから数歩出たところで、九井さんの鋭い指摘が飛ぶ。
「いえ、別に。」
「あっそ。まぁでも、頑張れよ。イヌピーは真一郎くんの事となると容赦しねぇとこあるからな。」
フンっ、と鼻を鳴らす九井さんに内心ウッザと思ったことは秘密だ。
「余裕がない男は嫌われますよ。」
ささやかな反抗心でもって口答えすると、絶対零度の声色で「お前クビになりてぇのか」と言ったのだから本当に私の上司は性悪だ。
▫️
「ーーーていうことがあってさぁ。まぁでも持ってった花束でそのクライアントが機嫌良くなってくれたから事なきを得たんだけど、危うくクビになるとこだったんだよ私。」
いつもの居酒屋でいつメンと飲んでいる私は、最近起きた危機的状況の話をした。幸いあの日の城之内様は終始機嫌がよく、いつもならガン無視する年下の同性秘書の私にまで「今日は来てくれてありがとう」という言葉まで掛けたのである。
「んで?二人は最近どうなの?」
いつもなら矢継ぎ早にする会話が、今日はやけに静かだ。どうかした?と二杯目のビールを飲み干した時「ツッコミどころしかないんだけど」と、上司と不倫中の友人が言った。
「九井さんの話?いやーもうさ、めちゃくちゃイヌピーさんのこと溺愛してて」
「違うそっちじゃない。」
オフの時ですら完璧にメイクする彼女だが、仕事帰りという今日は一段とメイクが濃い。
「あんた、その真さんって人好きでしょ。」
空にしたジョッキを持つ手がフリーズする。九井さんからも同じようなことを言われたが、彼女のそれは断定だ。あんたのことなら解るんだと言わんばかりの、遠慮ない指摘に「悪い人ではないと思うけど…」と口ごもる。
「こないだはマッチングアプリがどうとか言ってたけど、今やってないっしょー?」
ニマニマと揶揄ってくるアパレル店員の友人は、アイメイクバッチリの目を細めて言う。こういう時の彼女たちは私なんかよりもずっと私を知っている気がする。
「好きとかどうとか言えるほど真さんのこと知らないし?あれ以来会ってないからわかんないよ。」
「いーや、絶対好きだね。興味無い男にはボロクソに言うあんたが肯定的なことしか言わないのがその証拠。…何年友達やってると思ってんの?」
不倫中の友人の言葉に「マジそれな」とアパレル店員の友人が頷く。好きな人ができたーーーと打ち明けることは、今までにも何度かあった。だが、今の私ははっきりと言えないでいる。たった一度会っただけで好きな人と言えてしまえるほど、子どもではないのだ。
「ていうか、その真さんとイヌピーちゃんは上司と部下?先輩後輩?ってことでしょ?協力してもらえば?」
閃いたとばかりにとんでもないことを言ってのけるアパレル店員に「それは無理」と、両断する。協力云々以前にイヌピーさんに話をするには、九井さんという大層面倒で厄介な上司を通さなければならないのだ。冗談でも笑えない。
「…っていうか!さっきから私の話しかしてないんだけど!二人はないわけ?」
逃げるみたいに話題を無理やり変えた私は、二人を交互に見遣る。不倫中の友人は顔色こそ変えないが視線を逸らしたから多分今良くない状況なのだろう。
「あ。私あるよ~。」
アパレル店員の友人がへらりと笑う。いつも以上にきちんとメイクをし、なんとなく肌ツヤも良い。なんというか、絶賛恋愛中ですといった類のキラキラオーラ。もしかして、これは…
「彼氏できた!」
「「やっぱりな」」
私と不倫中の友人の声が重なる。聞かずとも知れる幸せオーラ全開っぷりに、羨望と微かな胸の痛みを覚えたことを私は見て見ぬふりをした。