想・喪・葬・相 ④タイル張りの廊下を真っ直ぐ歩き、突き当りの部屋まであと数歩。見計らったように玄関の扉が開いた。サンダルウッドとラベンダーの香りが優しく迎えてくれる。
「いらっしゃい阿澄」
江澄がエントランスのインターホンを鳴らしてからここまで来る時間は、いちいち計らなくても曦臣の身体に沁みついているようだ。
予定がない週末を曦臣の家で過ごすのは、特別なことではない。江澄にとっては正月にしか帰省しない実家よりも、曦臣の家の方がずっと馴染んでいる。
何処に何があるかはだいたい把握しているので、曦臣が茶やコーヒーを淹れ始めれば、江澄が戸棚からカップや皿を用意する。
曦臣の手元を見ると、今日はロイヤルミルクティーにするらしい。このところ沈みがちだった江澄の気分が上がった。曦臣の淹れるロイヤルミルクティーは、どの店のものより美味しいのだ。戸棚を開け、一番気に入っている揃いのカップとソーサーを用意した。
「阿澄、冷蔵庫にパウンドケーキが入ってる」
「ああ」
気分のまま少々厚めに切り、真白な皿にのせていく。
「こうしてお茶をするのも久しぶりだね」
「そうだな」
後ろで茶を淹れている曦臣の声に適当な返事をする。
「元気だった?」
「まあな」
「仕事忙しかったんでしょ?休日出勤してる日もあったって言ってたし」
「異動辞令があると部署がバタつくのは仕方ないけどな」
自然光が照らすリビングのテーブルに、ロイヤルミルクティーとパウンドケーキを並べる。向かい合った二人が「いただきます」と小さく声を合わせた。
「今日はゆっくりしていけるんでしょ?」
「ああ」
ロイヤルミルクティーの味はいつも通り文句のつけようがなかった。曦臣に作り方を教わり、何回か試してみたがどうしても同じようにならない。茶葉も分量も時間も全て一緒なのに。曦臣が淹れてくれたものを、曦臣と一緒に飲まなければ、この味を感じることは出来ないのかもしれない。
(そうだとしたらあと何回このロイヤルミルクティーを飲めるんだろうな)
広々としたリビングだけではない。この味も揃いのカップも真白な皿も、今後は曦臣と彼女を主人にするのだろう。そう思い始めると、優しいロイヤルミルクティーの味でさえも江澄の気分を降下させていった。
「阿澄、どうしたの?眉間に皺が寄ってるよ」
「いや、何でもない」
「何を悩んでいるの?」
「自分で淹れてもこの味にならないから不思議だと思ってただけだ。今度またチャレンジしてみるかな」
「いつでも私が淹れるのに」
「自分でも出来るようになりたいんだ」
「何故?」
「何故って……ただそう思っただけだ」
曦臣は何となく納得がいかないという顔をした。
この男は本当に結婚してからも、このリビングで一緒にロイヤルミルクティーを飲むつもりらしい。しかし、そこには当然妻もいるはずだ。三人で飲む味はきっと今のこの味とは違ったものになる。その変化は自分一人しか分からないのだろうが。
江澄はいつもより時間をかけて、残りのロイヤルミルクティーを味わった。
夕食を済ませ、曦臣が食洗器に洗い物を入れている間に、江澄は映画鑑賞の準備を始めた。
曦臣の家のテレビは、江澄の家のそれよりも四倍以上大きく、音響も上質だ。リビングの灯を間接照明だけに切り替えると、映画館に負けない雰囲気を味わえる。
もともと静かな空間を好む曦臣はテレビを持っていなかったのだが、アクション映画やスポーツ観戦が好きな江澄のためにテレビを買ったらしい。
「テレビを買ったから映画鑑賞をしよう」と誘われ、初めてこのテレビを見た時は「デカすぎだろ!」と思わず言葉が滑り出し、笑ってしまったのを思い出す。
曦臣が隣に座り、操作ボタンを押すと、サスペンス映画のタイトルが画面に映し出された。曦臣が楽しみにしていた映画だったが、上映時はお互い休みが中々合わず見に行けなかった作品だ。「一人で見に行けよ」と言っても、「阿澄と感想を言い合いたいから」と返され、楽しみを一年以上お預けにしていた。
上映中は画面に映る展開をきちんと追っていくことに集中した。難解なストーリーは、一つでも何か見逃すと話が分からなくなりそうで、二人とも言葉はあまり交わさなかった。ラストシーンから画面が暗転すると、横にいる曦臣が「どうだった?」と訊いた。「中々良かったな」と応え、ようやく二人の時間が絡み合った。最初は二人とも少し早口に感想を言い合ったが、しばらくすると曦臣が常のゆったりとした口調になっていく。その声に導かれるように、こちらも淡々とした話し方に戻っていった。
曦臣の穏やかな声が、淡い橙色に照らされた部屋に甘く響く。心地よく流れる時間に身を委ね、ソファの背もたれに体重を預けた。
ぼんやりと眺めていた長いエンドロールもそろそろ終わる。
(このまま目を閉じて、人生を終えてしまいたい)
ほんの思いつきだったが、我ながら何て良い終わりだろうと思った。
嗅覚、視覚、味覚、聴覚。今、こんなにも曦臣に包まれている。それを感じながら眠りにつき、曦臣に愛される夢を見ながら目覚めずにいたい。
深く呼吸し、ゆっくりと目を閉じようとしたその時、膝の上に何かが置かれた。水色と紫色のストライプ柄の紙袋で、中に茶色い包みが見えている。
「はい、これ。阿澄へのお土産」
「ん、ありがとう。なんだ、こりゃ?妖怪の置物?」
「犬の置物だよ」
「また俺の部屋に謎のコレクションが増えるな」
曦臣らしいチョイスに思わず笑みが零れた。が、紙袋の底にもう一つ入っていた物を見て表情が固まった。綺麗な包装をされた小ぶりで高級そうな菓子。今までの曦臣なら選ばないであろう土産だった。
「これ、彼女が選んだのか?」
「うん。阿澄の話をしたら、是非渡してほしいって」
一緒に土産を選んでくれたのだとご丁寧な説明まで添えられた。
きっと二人で幸せそうに笑いながら旅行を堪能したのだろう。もしかしたら夜は身体を重ね愛を囁き合ったのかもしれない。まだそこまでしていなくても、手くらいは繋いでいるはずだ。曦臣に愛を囁かれ、掌で愛でられる。自分が長く切望してきたものを、彼女は僅かな期間で手に入れてしまった。不意打ちのように現実を突きつけられ、目の奥が熱くなり、慌てて瞬きをした。
(俺なんかにも土産を用意して気が利くいい人じゃないか。きっとこれからだってこんな事はたくさんあるんだ。いちいち傷つくな)
瞬きがばれないように少し俯き、前髪で顔を隠した。静かにゆっくりと、息を整える。
決して声が震えないように。
『幼馴染』の仮面が剥がれないように。
「彼女にお礼を言っといてくれ。旅行、楽しめたみたいで良かったな。良い女性だったんだろ?いいよな。俺もそろそろ結婚を考え始めるか」
「……阿澄。訊きたいことがある」
一瞬、聞き間違いかと思う程に暗い声が耳を貫いた。恐る恐る顔を上げると、曦臣の顔からはいつもの柔和さがごっそり剥がれていた。
彼女と何かあったのだろうか、いや俺が何かまずい事を言ったのだろうか。焦りと困惑が脳を駆け巡り、手指が痺れていく。
「ど、どうしたんだ?」
「空港で阿澄と一緒にいた男性は誰?」
「は?」
突然ふられた話題に、一瞬何のことかわからなかった。しかし、先日の件だとわかると固まっていた思考が解けた。曦臣への想いがばれたわけではなかったことに、安堵の息を漏らす。
「あぁ、あいつは会社の同僚だ。前にも何回か話したろ、相方がいるって。そいつが海外転勤になったから見送りに行ったんだよ」
「会社の同僚?本当にそれだけ?」
「どういう意味だ」
「随分仲が良さそうだったから」
「俺にだって仲がいい奴くらいいる」
「そう?」
曦臣はますます無表情になり声も低くなった。不機嫌さを隠そうともしないばかりか、探るような目線を向けてくる。その態度に苛立ちを覚えた。
「何だよ。言いたいことがあるなら言えばいいだろ」
「キスしてたよね、展望デッキで」
途端、強気だった態度は一変した。曦臣に見られていたという羞恥に咄嗟に言葉が出ず、半開きになった口を閉じられなかった。
「どうしたの?もしかして彼のことを考えてる?」
「なっ!曦臣には関係ないだろ!」
「顔、赤くなってるよ。あの日も今みたいな恥じらった顔でキスを受け入れていたね。阿澄があんな子供みたいになって人前でいちゃつくなんて…、知らなかったな」
今まで聞いたことがない責めるような口調に、江澄の心臓がびくりと撥ねた。しかし、驚愕はすぐに怒りへと変貌した。
自分は彼女と旅行していたくせに、あまりに酷い言いようではないか。しかも自分は曦臣の見合いを応援してきたというのに、何故その自分が責められないといけない。
他でもない曦臣に詰られ、傷だらけの心はもう限界だった。羞恥心やら悔しさやら惨めさやらが、体中をぐちゃぐちゃにかき乱した。
「ああ、そうだ!だって好きなんだからな!当たり前だろ!」
「好き?彼のことが好きなの?」
「お前に彼女がいるように、俺にだって彼氏がいる。それだけのことだろ!俺が恋しちゃ悪いのかよ!」
同僚にも曦臣にも酷い嘘を吐いているとわかっていた。しかし脳が熱をおび、理性というストッパーが働かなくなった。思ってもいない言葉が止まらずに吐き出された。
「彼氏…か。私の知らないところで阿澄は『恋人』をつくっていたんだね」
烈火の如く怒鳴る江澄とは対照的に、曦臣の声はどこまでも淡々としていた。羞恥と怒りで身を震わせる江澄の手首に、曦臣の白く冷たい指先が触れた。その手を振り払おうとしたが、決して逃がさないとばかりに強く握り込まれる。
「ねえ、阿澄。今すぐ彼氏と別れて」
「はぁ?何言ってるんだ。まさか同性だから駄目なんて言うつもりじゃないよな」
「まさか。男性も女性も関係ないよ。ただ、阿澄に恋人がいるのが嫌なんだ」
「ふざけるな!自分は彼女がいるのに、何で俺は駄目なんだよ!」
「彼女とは別れたよ」
「…え?な、何で、そんなこと…」
「だってあの日から阿澄のことしか考えられなかったから」
曦臣の目が細められ、鋭い視線が江澄に突き刺さった。
「あの時のことがずっと頭から離れなくて、彼女のことを想う余裕なんて少しもなかったんだもの。阿澄のおかげでね」
江澄は完全に混乱にのまれた。
さっきまでの怒りは波が引いたように消え去り、代りに困惑が打ち寄せる。こんな理解が何一つ及ばない曦臣を見たのは初めてだった。何がここまで曦臣の様子を変えてしまったのか、少しも分からない。だって曦臣は『大事な幼馴染だ』と言ったのだ。まさか、いまだに目の離せない世話を焼くべき弟分だとでも思っていたのだろうか。手元に置いていた弟分がゲイだったという事実に混乱し、それでこんなことを言っているのだろうか。
江澄が黙っていると、掴まれた手首にさらに力が加わった。
「彼氏と別れると言って」
「……別れない」
曦臣の顔から表情が消え去った。江澄はその能面のような顔を睨み返した。
「俺はあいつと別れない、絶対に」
「阿澄」
「自分が彼女と別れたからって俺まで巻き添えにするな!俺は俺で幸せになる。もういつまでも、こんな風に曦臣の横にいられるわけじゃない」
荒い息とともに罪を吐いた。嘘の中にどれ程本音が込められていたのか、江澄自身でももうわからない。ただ、もう曦臣に心乱されるのは終わりにしたかった。曦臣が彼女をつくる度に傷ついて落ち込む生活から、どうにかして抜け出したかった。嘘を重ねてでも救われたかった。
「曦臣、俺がゲイだからってあんたには関係のないことだ。俺が誰を好きになろうが俺の自由なんだからな。彼女と別れて傷心なのかもしれないがさっさと立ち直って、新しく結婚を考えられる彼女でも作れよ」
「……傷心か…傷心ね………ふふっ…そうだね…」
「曦臣?」
「ねえ、阿澄。私は今すごく気分が悪い。目を閉じる度に展望デッキの光景が蘇ってまともに眠れない。結婚も仕事もどうでもよくなってしまうくらいショックだった。阿澄、お願いがあるんだ」
「な、なんだよ。別れないって言ってるだろ!」
「それはわかった。阿澄は彼が好きなんだということもね」
曦臣が微笑んだ。弧を描いた目からは冷たい鋭さがなくなった。しかし、代りにギラギラした危険な光を放ち始める。獲物を逃がさんとする捕食者の目だ。
「お願い、阿澄に傷つけられた私を、阿澄が癒してほしい」
何を意味しているのか分からず、頭を傾げた。曦臣はそんな江澄の腕を引っ張り、有無を言わさず寝室まで連れて行くと、そのまま組み敷いた。
ベッドの上とはいえ無理に押し倒された背中が軋む。体重を乗せて押さえつけられた肩と足が痛い。曦臣に乱暴に扱われたという事実は、江澄にとってあまりにショックだった。長い付き合いの中、怒鳴られたことすらなかったのだ。そんな状況で咄嗟に抵抗できるわけもなく、声すら出なかった。しかし、曦臣は待ってはくれない。シャツのボタンを外しにかかった。三つ目のボタンに手がかかった時になって、江澄は弾かれたように腕を掴んで抵抗した。だが、ただでさえ曦臣の方が体格がいい。混乱して身体の制御が上手く出来ない状態で抵抗しても、大して役に立たなかった。
「曦臣!離せ!」
「どうしたの、阿澄?彼氏がいるんだからこういうことだって経験あるんでしょ?」
「ふざけるのはやめろ!」
シャツが左右に開くように引っ張られ、鈍い音をたてて裂ける。露わになった江澄の上半身。その白い肌には情事を思わせる跡は一つもなかった。
「しばらくお別れだというのに、阿澄は彼氏に抱いてもらえなかったの?」
あけすけな物言いに、江澄の顔が赤くなり、首まで桃色に染まった。うぶな反応を見て、曦臣は顔を近づけた。
鼻が触れる程の至近距離で目を合わせながら静かに、そしてゆっくり囁く。
「ねえ……本当は彼氏なんていないんでしょ?」
「…いる」
江澄が潤んだ目で睨んだ。
曦臣にとってこの問いは最後の賭けだった。
ここで江澄が「彼氏はいない」「あれは悪ふざけだった」と言ってくれれば、この荒れた心もどうにか落ち着く。大事な江澄にひどい事をする前に止まれると思っていた。しかし曦臣は賭けに負けた。あの日から狂い始めていた理性が叩き壊された瞬間だった。真っ黒なコールタールのような欲望がどろりと身体に蓄積していく。酷く気持ち悪い。早く吐き出してしまいたかった。
曦臣は目の前の強気な目をした幼馴染に噛みつくように口づけた。江澄は身体をびくつかせ、身を捩って逃げようとする。体重をかけて動きを封じ、嫌がり逃げようとする唇に口づけを繰り返していく。江澄が呼吸をするには、曦臣が口を離さないといけない。今この瞬間、江澄の呼吸の権利は曦臣が握っていた。初めて感じる征服欲の甘美さ。曦臣はその蜜の味に夢中になった。口づけても口づけてもまだ満足できない。生まれて初めて知った狂暴な欲の前に、道徳心はいとも容易く打ち砕かれた。