鬼は外二月三日。世間で言うところの節分。
子どもが夜にまとまって寝るようになってから、季節行事を大事にする余裕が出てきた。
いや、大変は大変なのだけども。
今日だって豆まき用の大豆を準備したり、恵方巻きの前準備をを前日からしておいたり。あとは鬼役である夫が帰ってきたら、娘と豆まきをして、夕飯を食べてお風呂に入れて寝かしつけて……。
片付けは明日になるかなぁと思いながら、時計を見た。そろそろ帰ってくるだろう。
夢中になってテレビの中にいるうたのおねえさんといっしょに歌っている娘を微笑ましく見守る。歌うというか発声をしているだけだが、本人は歌っているつもりなのだ。両親に似て歌が好きな子に育ってくれてよかった。
夫に似た赤い髪をふたつに結わえ、自分に似た赤い瞳を持つ愛娘。周りの人に愛情を注がれてすくすくと育ったその子は最近、歩くようになった。成長が著しいのはうれしいけれど、目が離せなくて大変だ。
携帯で動画を撮り、あとでうたのおねえさん本人に送ってあげようと携帯の録画機能を起動させる。
───ピンポーン
チャイムの音が鳴り、娘は歌うのをやめてこちらを振り向いた。だれかが来たときに鳴る音だと理解しているのかは分かりかねるが、なにかが起きたということは理解しているようだ。
「パパが帰ってきたのかなぁ?」
カメラを回しながらそう言えば、娘の顔がぱっと明るくなる。
「ぱぁぱ?」
ハートマークでもつきそうなほどに甘ったるく、かわいい声。きっと呼ばれた本人がいたら心臓を抑えて蹲っていただろうと容易に想像ができた。
まだ歩きなれない様子で玄関まで父親を迎えに行く娘の後を着いていく。手には枡に入れた大豆も持って。
昼間に鬼の絵本を読んだけど覚えているだろうか。
「ぱぱぁ~おかなしゃあ~い」
娘が扉に向かって呼びかける。それに応えるようにドアノブが動き、扉が開いた。
ゆっくりと。のっそりと現れたのは恐ろしい般若の面を被り、キラキラしい着物を着崩し、金棒を担いだ大きな鬼だった。
大好きなパパが帰ってきたのだと期待していた娘が音を立てて固まる。
(やり過ぎだよ!紅郎ちん!)
スーパーなんかで売ってる豆まき用の豆に付いている、かわいい鬼のお面でよかったのになんでこんなとこで本気だすのかな?!トラウマになったらどうしてくれる!
あとで叱ろうと心に決め、カメラを回したまま、娘の背後にしゃがみこんだ。
「鬼さん、来たから……」
「ぎゃぁぁあ!!まま"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"あ"!!」
「うっ」
勢いよく振り向いた娘の頭が顎に直撃する。
痛いけどそれよりも怖がる娘が最優先だ。
枡を床に置き、娘を抱きしめる。
愛娘に背中を向けられ、泣き叫ばれた鬼は律儀に玄関の扉を閉めてオロオロしている。……怖がられるのは自業自得なのだが?
おれだって正体が分からなかったら怖いのに、まだ赤ちゃんと言ってもいいほどの幼児が怖がらないわけが無い。
激しく泣き叫ぶ娘に呼びかけた。
「よしよし。鬼さんはこのお豆が怖いから、ママといっしょに投げよっか」
「や"ぁ"ぁ"ぁ"あ"!!!」
生まれてからこちら。こんなにまで泣き叫ぶことがあっただろうか。
泣きながら、怖いものから逃げるようにおれの体にぎゅうぎゅうと抱きついてくる。力強さにもうすぐ二歳だもんなぁと感動を覚えた。
それはそうと子どもの全力の泣き声は頭に響く。
「じゃあママがやっつけるぞ~。鬼は外~!」
「ぎゃあ!」
片手で大豆をつかみ、軽く投げれば鬼役の夫は本当に豆を怖がるように身を縮こませた。
大の男が縮こまるの、おもしろい。かわいい。
鬼の悲鳴に、娘は恐る恐る背後を振り返った。おれの服をしっかりと握りしめたままだが。
「いっしょにお豆投げてみよ?」
ぶんぶんと頭をふって拒否する。ママから少しも離れるのは嫌だとでも言うように。
「……ああ~あと一回でも豆をぶつけられたら死んでしまう~」
俳優業もやっているはずなのになんだその棒読みは。
思わずツッコミそうになったのを抑え、娘のちいさな手に豆を握らせた。
「お昼寝前に絵本読んだろ?鬼は外~っ!あっち行って~って」
「……あっちゃっちゃ~っ!」
鬼を見ず、放り投げられた豆は玄関にすら届かなかったがまぁいいだろう。蹲っていた夫にアイコンタクトを送ればコクリと頷いて立ち上がる。
「や、やられたぁ……退散だ」
すごすごと退散する鬼を見送った。玄関の扉が閉められ、家の中にはふたりだけ。
「すごぉい!鬼さん帰ってったよ」
よしよし。怖かったね。えらいね。
勇敢に豆を投げたことを褒めた。
携帯の録画を止めてぎゅうっと抱きしめる。
夫には後でお説教だ。
心に傷がついてしまったらどうするんだよ、ほんとに。
泣き声がおさまる頃、ふたたびチャイムが鳴った。
「あっ!今度はパパかな!」
「やだぁ"ぁ"あ"!」
さっきのことを思い出したのかまた泣き出してしまう。その声を遮るようにまた扉が開いた。
今度はちゃんと"パパ"だ。
「ど、どうした?なんで泣いてるんだ?」
泣いている愛娘に驚いたふりをする夫の背中にはパンパンになったリュックサック。
さっきの仮装一式を急いで詰め込んできたのだろう。力入れすぎだ。
「……ぱぱぁ」
へにょへにょと泣きながら、しゃがみこんだ父親に抱きつきに行く娘を見送る。
「おかいなしゃ」
「ただいま。どうしたんだ?」
彼は娘を抱き上げ、靴を脱いだ。
自分も豆を入れた枡を手にして立ち上がる。
「鬼さんが来たんだけど、いっしょに退治したんだよな」
「おお!すごいな。紅乃は強いなぁ」
退治された鬼はうれしそうに娘の頭を撫でまわした。それがうれしかったのか、娘は頬を濡らしたまま笑う。
「にへへ」
娘の笑顔に夫は目尻を下げた。こんな姿、アイドル鬼龍紅郎のファンは想像もできないだろう。
いや、するのか?
想像したところでこのだらしない笑顔はおれのものなのだけども。
「そうだ、パパ?」
「ん?」
「あとでお話があります」
「……はい」
本人もやりすぎた自覚があったようだ。
張り切るのはいいけど程々にしてもらわなければ。
「あんなに泣かれるとは思わなかった」
とは、恐ろしい般若の面をつけていた彼の言。
娘を寝かしつけ、ふたりきりのリビングで晩酌中。
落ち込んだ様子の夫は、娘に本気で泣かれ、本気で拒絶されたことが心にきているようだった。
「般若のお面なんて大の大人でもビビるっつの」
「いや、さ。せっかく蓮巳が貸してくれたし活用しねぇと悪ぃかなって」
「敬人ちんかよ、提供者」
なにしてくれてんだ、ユニットリーダーさんよ。
提供されたからって素直にそれを使用するうちの夫も夫なのだが。
はじめての子で張り切ってくれるのは嬉しいけど、程度を考えて欲しい。
「……来年もやるのか」
また娘に拒絶されるのか、と彼は肩を落とす。
別に強制行事じゃないしやらなくてもいいんだけど。
「やるならあんまり怖くないのにしてくれよ。なんだよ、あのチンピラみたいなけばけばしい着物」
「あれは今度CMで使うやつをだな、ちょっと拝借してきた」
「……へぇ」
どんなCMになるんだ。っていうか、どこの会社がそんなに頓痴気なことを考えてるんだか。
あまり人の夫に変なキャラ付けをしないでほしい。
「ま、それはともかく。今日も一日、お疲れさま」
「……なずなも、お疲れさん」
娘が起きないよう、静かにグラスをぶつけ合う。
平穏な日々がいつまでも続きますように。