恋とはどんなものかしら②「恋って素敵、だって恋をすると綺麗になるのよ。」
ほんとうよ、とその弾む声は言っていた。その鈴の鳴るようなくのたまたちの声を、綾部喜八郎は穴の中で聞いていた。足元、危ないですよ、と呼びかけようかと悩んだが、楽しそうな会話に水をさしてはいけない気がした。
気持ちと同様に、少女たちの足取りも浮ついていたのか、結局穴に落ちてくることはなく、高い声も遠ざかって行った。別に、特段気にかけることでも無いいつもの話だ。そんな事を思いながら上をぼーっと見上げていると、誰か覗き込んでいた。
「ここにいたのか。」
逆光で顔なんて見えないのに、誰かなんて直ぐに分かった。特徴的な声と、それに自分を探す存在なんて数える程度しかいない。そして薄ぼんやりと、「お前も落ちてきてはくれないんだな」なんて考えていたりした。
「何、滝夜叉丸」
「何ではないぞ、もういい時間だ、そろそろ上がってこい」
「はーい」
雑な返事をすると、それに慣れたように彼は踵を返しそこから居なくなった。探しに来てはくれるけれど、いつの間にか落とし穴には落ちなくなった。見つけてくれるけど、待ってはくれなくなった。沢山の努力を重ねたことも知っていて、今はそこまでボロボロになることは多くなくて、以前よりずっとその人は綺麗になった、と思う。でも別に、それがどうということでは無い。
(恋をすると、綺麗になる、らしい。)
どうということでは無いけれど、喜八郎はグッと相棒の踏子を握り直して、穴を更に掘り進めた。ただ、なんとなく。
「ただいまぁ」
習慣的な挨拶をしながら長屋の戸を開けると、同じく習慣的に同室の友は「おかえり」と返した。しかし、振り返ることもせず、机に向かって本を捲り続けている。いくつか言葉を投げかけてみると、ロマンスだか何だか聞き馴染みの無い事を述べていて、また何のおかしなものにハマりだしたんだ、とその横に積まれた本に手を伸ばすと手が伸びてきてぴしゃり、と叩かれた。
「汚れるだろう。先に風呂に入ってこい。」
もうひとつあった。優しくなくなった。
まだ互いに淡い青の忍者服であった頃は、泥だらけの喜八郎をみるなり駆け寄って、綺麗な手ぬぐいが汚れるのも厭わず拭ってくれたものだった。あの頃はそれがわずらわしかったものだが、今となっては丸々としていたあの頃の方が可愛げがあったものだと懐かしくなる。
バツが悪くなり、手を引っ込めながら視線を動かすと、自身を叩いた滝夜叉丸の手も汚れていて、彼は本を触ろうとしてそれに気づいてから、うろっと一瞬惑っていた。
「おやまぁ、お前の手も汚れたね。」
悪戯心が沸いて、そう呟くと、彼は随分と大人びたため息を吐きながら連れ立っての湯浴みを提案した。そういえば二人で行くのは、なんやかんや久しぶりかもしれないな、なんて思いながら準備をしようとすると、滝夜叉丸はそれを制止した。
「そのままだと着替えも汚れてしまう。」
そう言って彼は懐から出した手ぬぐいで喜八郎の土を拭い始めた。それを何となく懐かしく思いながらも、その鳶色の瞳がこちらを見てくるのはどうにも居心地が悪く感じた。
「何?」
珍しく、同室の男が大人しくしていた為に、つい尋ねてしまった。というのに、当の本人はそんな自覚は皆無だったようで、きょとん、と音がするほどあどけなくこちらを見返していた。
「何とは?」
「何ってこっちが聞いてるんだ。そんなこれ見よがしに考えてるフリをして。」
「お前!私が何を考えているかわかるというのか!」
ああ、本当に馬鹿らしいな、なんて思いながら、僅かばかり苛立ちが積もるような感覚がした。思ったような土の質ではなく、鋤が詰まるような、そんな嫌な感覚。
「分からないから聞いてるんでしょう」
「そうかそうか、私のことが気になるか!」
「おやまぁ」
大事では無いことばかりペラペラと喋る癖に、悩みなんかは勝手に悶々と考えて、いきなり名前を捨てるだか、学園を辞めるだかなんだか騒いで後輩を巻き込んでいる、というのは風の噂で聞いたことがある。
そんなことは別にいい、巻き込まれたくないし、どうせ本気では無いのだし。
でも部屋に積まれていたあの本はなんだ。落とし穴でくのたまの噂話を聞いたせいか、やたらとそんなことが気になってしまった。しかし、その質問に「私のこと」と解釈した滝夜叉丸がパッと顔を明るくしたのを見て、やぶ蛇だったかもしれない、と後悔が沸いた。その時だった。
「喜八郎じゃないか。」
先輩、今ばかりはまるで天の助けのようです、と言いそうになった。だってきっと、そのままだった聞きたくもない恋の話などをつらつらと並べたてられそうだったからである。
「立花先輩。」
返事をしながら、わざと滝夜叉丸から視線を外した。流石の滝夜叉丸でも、6年の先輩相手に不躾に自分の話ばかりをしたりはしないだろうという考えもあったからだ。仙蔵とは、実習は終わったのかやら、委員会についてやらの世間話をポツポツとしていて、滝夜叉丸は空気を読んでいるのだろうと思ったその時だった。
「私は!用事を、思い出したので…」
少し強めの声で、滝夜叉丸の声が響いた。目を丸くして彼をみると、彼自身思ってもみなかったような顔をして、片手を上げながら不器用に目を動かしている。それから踵を返して、元の道を戻っていくその背中を見ていると、側で仙蔵が呟いた。
「嘘、だろうな」
「そりゃあ…滝夜叉丸は分かりやすいですからね」
そう返すと、バシン、と強めに背中が叩かれた。
「なんですか?」
「お前は、分かりづらいからな」
ムッと不服そうに口を曲げた。思わず、「何か問題があった訳でもないですし」と返すと、仙蔵は笑って「少し話そう」と言いながら連れ立って風呂へ向かった。ちらりともう一度振り返ると、滝夜叉丸ともう一人、彼より大きな人影があった。
(あれは、潮江先輩)
だから何でもないけれど、ただ、そう思っただけ。
「喜八郎、分かりづらい事には問題があるんだ」
「…どういう問題ですか?」
「自分にすら、分からなくなってしまってるかもしれないという問題だよ。」
湯船に浸かる仙蔵の肌は、いつもより幾らか血色が増していた。肌が白いから目立つな、なんて思いながら、ただぼんやりと話を聞いていた。
「何故滝夜叉丸は様子がおかしかったんだ?」
「アレがおかしいのはいつもでしょう」
「じゃあ何故さっき滝夜叉丸は嘘をついたんだ?」
「一緒に居たくなかったんじゃないですか」
「何故私たちと居たくなかったんだ?」
「さぁ?滝夜叉丸じゃないからわかりません」
「ならば何故、お前はさっきから不機嫌なんだ?」
「…不機嫌?」
何が言いたいんだろう、なんて思いながら気だるげに受け答えをしていたというのに、その言葉で思わず停止してしまった。自分が不機嫌だったことにすら、今になって気づいた。
ちらりとそばの仙蔵を見ると、彼はまるで困ったように眉毛を下げていて、質問ではなく彼は何らかの答えを知っていて、喜八郎に問いかけていたようだった。
「そんなこと、ないですよ。」
せっかくお風呂に入ったのに、穴が掘りたいな、と思った。そしたらきっとこの苛立ちもおさまるだろうし、きっとその頃に滝夜叉丸が探しに来てくれるはずなのに。
そう思っても、滝夜叉丸と文次郎は、二人が風呂から上がっても、まだ訪れてはいなかった。
「遅かったじゃないか」
戸を開ける音がして顔を上げると、神妙な面持ちで滝夜叉丸が立っていた。彼が積んでいた中から抜き取った本は陳腐な男女のお話で、飽きてきたところだったため、栞も挟まずにそのまま閉じた。
「確認したいことがあるのだが」
「何?」
「お前は、私のことが好きなのか?」
「…はぁ?」
また、恋の話だ。喜八郎は心底、その話をしたくなかった。だから、分かりやすく声を出したというのに、いつも分かりづらいと言われる自分を理解してくれるはずの滝夜叉丸はお構い無しに話を続けた。
「だってお前はいつも私をみてるだろう?良く目が合うし。」
「お前が見てるから合うんだよ。」
「あと私が何を考えてるか気になるんだろう?」
「お前が話したがってるんだよ。」
「あとは、あとは私のそばによく居るじゃないか。」
「同室だし、じゃなきゃ勝手にお前が世話を焼いていたりするからだろうね。」
だから、つい、全てを否定したくなった。別に嘘をついたわけでもないし、概ね事実だけれど。
続く言葉が無かったらしい滝夜叉丸は、大きな目を見開いて、じっと喜八郎をみながらはくはく、と口だけを動かした。餌を貰えなかった魚みたいだな、なんて事は口には出さなかった。
いつもよりも眉毛が下がったその表情はあどけなくて、ずっとみっともなかった。
(お前はその方がいいよ。)
特別、綺麗になんかならなくてもいい。恋とかそんなもの、どうでもいいと思ってしまえ、と喜八郎は吸い込まれそうな虹彩を見ながら考えていた。