ホットのミルクティー今でもあの時の衝撃が忘れられない。
どのくらい待っていたのか、寒空の下、まだ冬の気温に慣れていない指先が悴んで、耳まで薄ら赤くしながら先輩を待ってた。ちょっとストーカーみたいでキモいけど、絵美が今日を逃したら先輩と会えないかもよっていうから。先輩はもうすぐ高校受験の山場がくるし、部活も引退しちゃったし学校では見かけなくなっちゃうかもしれない。確かに塾の行き帰りくらいでしか会えなくなっちゃうんだろうな、学校行く楽しみが減っちゃうよ。
でも、今日もし会えたら。先輩にまた会えますかって聞いてみようかな。それでもしいいよって言ってくれたら、今度は差し入れとか持ってきちゃおうかな。
「先輩まだ授業終わんないのかな〜つか寒すぎる〜」
「いやマジでそれ〜足とかもう感覚ないよ」
先輩に会うかもって思ったら寒さより可愛さだったから、今日はスカートの下にジャージなんて履いてない。防御力ゼロの脚は冷えすぎて感覚無くなってきた。別の塾に通う絵美と自分達の授業が終わってから集合したから結構時間も遅いし、そろそろ親から連絡来るかもな。一応絵美と話して帰るから遅くなるとは言ってあるけど、心配して迎えに来られたら恥ずいな。
電柱にもたれ掛かるようにしながら、先輩が通っている塾のビルを見上げているとおっきな黒い人が近くを歩いてきた。
背たか。
あれ、なんかあの人こっち来るかも、え、何で。
「……里見さん? こんなとこで何やってるの?」
「あ、先生……?」
黒いでっかい人は私の塾の先生だった。普段は白衣着てたから私服なんて初めて見た。え、先生普段髪下ろしてるんだ。真っ黒いコートに真っ黒いマフラー、全体的にもこもこしてる。しかもなんかピアスデカくない?普段そんなのしてないよね?てか、イカつくない?
「先生なんか、私服怖くない?」
「え、うそ、ほんと?」
「うん、一瞬ヤバい人かと思ってビビった」
そうかな、と先生は自分の服装をキョロキョロと見回している。自覚無いのかな、結構怖いよ。
「そんなことよりさ、里見さん何してるの。授業結構前に終わったでしょ、早く帰りな夜危ないよ?」
「いや、ちょっと人待ってるから」
「先輩待ってるんだよね〜」
「ちょ、絵美、余計なこと言うな」
隣で黙って聞いてた絵美が急に割り込んできた。本当マジで余計なことすんな。
先生がふーんって、絶対分かってる顔してる。わーはず、恥ずい。
「……まぁ、あんまり遅くなんないようにね。親御さんにはちゃんと連絡しときなよ、心配するから」
「はぁーい」
「じゃあ、また授業でね」
先生はそう言ってさっさと駅に向かっていった。あーなんか、塾の先生にこういうのバレんの超恥ずかしいな。きっと先生は忘れてると思うけど、勝手にこっちだけ気まずくなりそう。
「てか先輩遅いね、もう十時だよ」
「んー確かに、十時半まで待って来なかったら帰るか」
流石にこれ以上は寒くて耐えられなさそうだ。こんな遅くなるならカイロでも持ってきとけばよかったな。
懸命に脚を摩りながら寒さに耐えていると、駅の方からおっきな黒い影がこっちに向かってきた。
え、あれ?先生じゃね?
「よかった、まだ居た」
「え、先生帰ったんじゃ無いの?」
「はいこれ、あげる」
おっきなコートのポケットから出てきたのは、温かいミルクティーのペットボトルが二本。両手に持ったそのボトルを絵美と私に一つずつくれた。
「こんな寒い中何にも無いと辛いでしょ、カイロ代わりにもなるし飲みながら待ってな」
「え、まじありがとう! 私ミルクティー好きだから嬉しいー」
「前授業の時言ってたもんね。女の子なんだから、あんまり身体冷やしちゃダメだよ」
「えーセクハラじゃん〜」
「あ、こういうのダメか。ごめん。確かに男の子も身体冷やすの良くないよね」
「いやそう言うことじゃないでしょ」
先生って案外天然?普段の授業中はすごい大人って感じなのに、なんか今はちょっとうちらに近いお兄さんって感じでうける。そっか、先生もまだ大学生なのか。
「先生帰んなくていいの?」
「今度こそ本当に帰るよ、あ、それさ」
「え?」
他の子には内緒ね、今日だけ特別だから。
そう言って笑った先生の顔が、声が、信じられないくらいに突き刺さった。
心臓がぎゅんってして、首の後ろがざわざわした。
先生が歩いて行く後ろ姿をボーッと見てると、絵美がキャーキャー騒いでた。
「あ、先輩出てきたよ! ほら!!」
さっきまで佐々木先輩でパンパンだった頭の中は、もう先生の事でパンパンになってた。
そこから毎週二回、火曜と木曜の塾での授業が私の生きる希望だった。大体私は先生の右隣に座るから、左の髪は耳にかけない。だって、恥ずかしすぎるから。
先生が受けもってくれる国語と英語は、先生にいい生徒だと思われたくて必死に勉強した。これまでしんどかった単語帳も、先生に報告したくて覚えまくった。そのおかげもあって、これまで真ん中くらいだった成績も今ではちょい上の方。私全教科先生に見てもらったら学年一位だって余裕で取れそう。
この塾は先生一人につき最大生徒が二人つく。小学生の時もあれば高校生だったり色々なんだけど、今日は私と年の近い男子みたい。先生を挟んで座っているけど、お互いに見ないふりをするのが暗黙のルールだ。ほかの生徒は結構静かな人が多かったけど、今日の人は雑談が多くてうるさい。
普段だったらイラっとするけど、今日は特別に許す。だって先生のプライベートにガンガン突っ込んでくれるから。マジで勇気あるなコイツ。私は真面目に問題解くふりをして、左耳に全神経を集中させていた。
「今先生大学生なんだよね、大学で何やってんの? てか、大学って何やんの」
「うーんそうだな、中学校とかと違って自分の好きな授業を選んで受けるんだよ。先生は経済とか哲学、文学の授業も結構好きだよ」
先生は確か経済学部、とかに通ってた気がする。お姉ちゃんが、経済は数学も国語も両方できる人しか行けないって言ってたから先生はやっぱり頭良いんだと思った。文学って小説とか、そういうやつなのかな?何を勉強するのかよく分かってないけど、一人で静かに本を読む先生は、何だかとっても似合うなと思った。
「ケイザイ、テツガク……何かむずそうだね。自分で時間割作れんならさ、休み放題じゃん」
「そうだね、実際休んでる人もいるけど、折角大学に通うなら色々授業受けてみる方が楽しいんじゃない?」
「えー絶対遊んだほうが楽しいでしょ、勉強とかだるいじゃんー」
「はは、そのうちすごく興味の惹かれるものにきっと出会えるよ。さ、その時に備えて今は目の前の問題解いちゃおう」
うだうだ文句言いながらもちゃんと問題解かせようとするんだから先生は上手い。
先生じゃないときの先生って、どんな感じなんだろうか。友達とマック行ったり、カラオケ行ったりするのかな。
休みの日は買い物とか?好きなブランドってあるのかな。
そういう時は、誰と、行くのかな。
「里見さん、どう? 困ってることある?」
「え? あ、えっと、ここちょっと……」
「あぁ、ここはさ、この間やったこれを……」
さらさらと手元の白紙にペンを走らせながら、解説をしてくれる。先生は字も綺麗。何というか、沢山字を書いてきた人ってわかる文字。復習用に、と貰って帰った先生が書いてくれたメモや解説を実はとってある、これも変態くさいよね。
「……って感じなんだけど、どう? こっから先はいけそう?」
「あ、うん、ちょっと考えてみる」
「うん、また手止まるようだったら教えて」
「はーい」
先生の手を見ててあんまり聞いてなかったとは言えず、とりあえずもらったメモを見ながらもう一回取り組む。先生に頭悪いって思われたくないし、今度は真面目に解こ。
と、思ってノートに向かったのに。隣の人がうるさいから集中が切れた。しかも、めっちゃ気になること話し出すんだもん。
「てかさ、先生彼女いないの?」
「えー内緒、いいから問題解いちゃいな」
「その反応は絶対いるでしょ! 先生モテそうだしね、彼女いっぱいいそう」
「いっぱいって何、いないよ彼女」
「えー嘘だよ、ぜってぇ嘘!!」
「吉野君に嘘ついたってしょうがないでしょ。ほら、あと30秒で今日のテスト始めるよー」
「え、ちょっと待って待って」
ヨシノ君は慌てて教科書に齧りつく。
先生、彼女いないんだ。ふーん。彼女。ふーん。
笑いそうになる口元にぎゅっと力を入れてノートに向き合ったけど、そこからの二十分は全然集中なんてできなかった。
冬休みが終わってから約一か月、まだまだ寒さが厳しい二月中旬。いつかの日のように私は寒空の下、電柱に寄りかかりながら人を待っていた。今回は佐々木先輩じゃないし、絵美もいない。親にも塾で勉強して帰るって言ってあるから、まだ大丈夫。今日は金曜だったけど、授業もないのに珍しく自習室に行くって言ったから親も少し驚いていた。でも今日は絶対外せないから、塾の開いてる日で本当に良かった。
もう一度カバンの中にある紙袋を確認する。何回か練習したし、お姉ちゃんもお父さんも美味しいって言ってたから味は大丈夫だと思う。ラッピングもお母さんと一緒に選んで買ったやつだし、これも可愛くできたと思う。甘いもの得意な方じゃないって言ってたから、ビターチョコで作ったんだけど、どうかなぁ。
そわそわとビルの出入り口を見ていると、目当てのおっきな黒い人が塾長と一緒に出てきた。今日は普段と違ってカバンも大きいから余計にイカつく見えるな。
先生、と声をかけようとした時。先生が何かを見つけたように目を少し見開いて手を挙げた。視線の先にいたガードレールにもたれかかった人がスッと立ち上がった。え、先生より大きいかも。小走りで駆け寄った先生と比べるとやっぱり少し背が高い。先生と違ってシュッとした高そうなコートに高そうなグレーのマフラーをしてる。友達かな。
私は頭の中で練習しまくった言い訳を何度も繰り返しながら、思い切って声をかける。
「先生!」
「え、里見さん、どうしたのこんな時間に。今日授業じゃないじゃん」
「うん、今日自習に来てて……それで、」
先生が不思議そうな顔でこっちを見る。あんなに想像してたのに、本番はめっちゃ緊張するじゃん。心臓いたい。
「あの、これ! 先生にはいつもお世話になってるからそのお礼。フォンダンショコラ、あの、絵美と! 作ってみたから、よかったら食べて、下さい」
「え、わ、ありがとう」
「あ、先生手作りとかキモくない? 甘いの苦手って言ってたから、ビターチョコにしたんだけど……」
「全然キモくなんてないよ、ありがとう嬉しい。もしかしてそのために待っててくれたの?」
「あ、いや、えと、うん」
素直に先生を待ってたよって言えばいいのに、恥ずかしくって変にどもるし。
「寒い中待たせてごめんね」
「いや、勝手に待ってただけだから。あ、えと、それだけなので、これで帰ります」
「あ、うん。遅いから気を付けてね、ありがとう、大事に頂きます」
「美味しくなかったらごめん、じゃあね!!」
最後言い逃げみたいになっちゃった。誰も待ってないのに、早くその場から離れたくて駅までの道を走る。先生と駅なんかで鉢合わせたら今度こそ死ぬ。横断歩道を渡ったところで、ちらりと後ろを振り返り先生を盗み見る。
あ、まださっきのところで友達と話してる。同じ大学の人なのかな、これからご飯とか? 人気のない路地でも少し目立つ二人の背中を見つめていると、スッと友達の手が先生の手に伸びる。
あ、今、手つないだ。
わ、わわわ。え、距離近くない? いくら人気がなくて、コートで手元が見えにくかったとしても友達同士にしては距離近すぎじゃない?勝手に一人でアワアワしていると、先生が隣の友達の顔を横目に見上げているのが見えた。
あ、違うわ。これは。
この距離だってわかる。先生が授業中に見せる笑顔と全然違う顔して笑ってるのが。隣の男の人も同じような顔して先生のこと見てるのも。あーそっか、そうだよね。先生は別に嘘ついてない。
あー、そういうこともあるのか。中学生だった私は、自分の憧れにも似た淡い恋がひっそりと終わったことよりも、いつも知っている先生の幸せな秘密に触れたことが何だかとてもドキドキしたのを覚えている。
「……どうした? ミルクティー好きだったよね?」
「あぁいや、懐かしいこと思い出してた」
「え、何かあったっけ?」
どうやら絵美は全く覚えていないらしい。まぁあれから六年くらいだろうか、あの時の先生と同じくらいの年齢になった私は、毎年冬になるとこの素敵な出来事を思い出す。ホットのミルクティーとともに。
end.