彩度と輝度――恋をすると、世界が薔薇色に見えるものなのよ
昔見た映画のワンシーンだっただろうか、柔らかいブロンドの髪を揺らしながらヒロインが口にしたその台詞をその時は良く分かっていなかった。恋は盲目とか、痘痕も靨とか、恋をすると冷静な判断が出来なくなって、周りが見えなくなって、まるでこれまでの自分では無くなってしまったように振り回されるものなのだと思っていた。そんな風になってしまうなら恋なんてしなきゃいいのに、そんな状態になるまでハマらないようにすればいいのに、なんて冷めた目で見ていた。
昔から映画を見るのは好きだった。映画の中の人物には汚い呪力がまとわりついていることもないから表情をしっかり読み取ることができ、没入している間は自分も普通の世界を見ている気分になった。別にこの眼をもって生まれたことを悔やんだことは一度も無いし、普通になりたいなんて思ったことも一度もない。ただ、興味はあったのだ。普通の眼を通してみた世界はどのようなものなのか。
高専に入学して学生生活を送り始めた俺は、対等に近い『友達』を初めて手に入れた。これまでの人間関係は上下関係がはっきりしたものしかなかったし、そこには薄汚い欲を隠さない者ばかりだったので常に互いを牽制し合う事しかしてこなかった。俺の能力を上手く使いたいと思う周りの奴らは、その歪んだ欲のせいで淀んだ呪力にまみれていてまともに顔など見たことがなかった。
だから最初はひどく戸惑った。だって初めて人が横に並んだんだから、仕方ないじゃんね。でも傑は色んな意味で俺に興味がなかった。
一般家庭出身なこともあると思うが、自己紹介を求められたのなんて初めてで最初は俺を馬鹿にしているのかと思ったくらいだ。アイツは本気だったんだけど。そこからは、それこそ映画のワンシーンみたいにどんどん仲良くなった。カップラーメンの上手い食べ方や徹夜で一緒に遊ぶゲームの楽しさを教わるたびに、俺は傑の世界に夢中になった。好きな食べ物は何か、好きな映画は?好きな服や音楽、スポーツにゲーム。傑の事なら何でも知りたくなった。
すると、最初は心地よかった俺に興味のない傑の態度が、何だか気に入らなくなってきた。俺はこんなにお前の事知りたいと思ってるのにお前は俺の事知りたいと思わねぇの?俺にも聞いてよ、好きな食べ物や好きな映画は何かって。でも、こんなこと傑に自分から言うのはもっと負けた気がして絶対に嫌だった。
「は、そんなのまるで恋する乙女だな」
うだるような暑さの中、小さな日陰を造った自販機横の喫煙所で憚ることなく煙草をふかす硝子に、最近の不満をこぼすと心底面倒そうな顔でそう返された。
「え、俺の話ちゃんと聞いてた? 傑がムカつくって話してたじゃん」
「いや、だから乙女じゃん」
意味が分からない。きっとそのまま顔に書いてあったのだろう、硝子が子供に言って聞かせるように話し出す。
「だから、五条ばっかり夏油のことが気になるみたいでムカつくってことだろう?」
「そう、ムカつくんだよ」
「じゃあ何で五条は夏油にそんな興味持ってほしいんだよ。アイツは胡麻擂ってきたりしない所が良いって言ってたじゃん」
前に自分が言った言葉をそっくりそのまま返されて言葉に詰まる。いや、そうなんだよ。そうだったんだけど……
「でも、今はムカつくんだらしょうがねーじゃん」
むくれて返すと、硝子は大きなため息をつきながら手にしていた煙草を灰皿に擦り付けて消した。
「だから、自分に興味持ってほしいってのはさ、夏油のこと気に入ってる証拠でしょ。自分が夏油のこと気に入ってるから、夏油にも自分のこと気にしてほしいってことじゃないの」
「え、マジ?」
「知らないけど、だから乙女だっつったの」
ニコチンは足りているはずの硝子がイライラしてきているところを見ると、俺は相当面倒くさくなっているらしい。え、マジ?
しゃがみ込む俺を置き去りにしようとした硝子が、大きく手を振って誰かを呼び止める。任務帰りなのか、土埃に汚れた服を払いながら傑が近づいてきた。
「ちょっと、あんたのせいで面倒くさくなってるから何とかして」
「え、何それ、私なんかした?」
「ちょ、硝子、ま、」
「――夏油が五条に興味ないのが寂しいんだって」
制止も構わず最悪の要約をされる。何のために硝子に煙草渡して話したんだよ、さっき吸ったニコチン返せよ。
「え、どういうこと? 悟、寂しいの?」
ストレートに聞いてくる傑の神経を疑うが、この際だからムカついてることをぶちまける
「俺ばっか傑の好きなものとか聞くじゃん、お前全然聞いて来ないし。俺のこと興味ないのがイラつくんだよ、俺ばっかなの腹立つの!」
一息で言い切ると、何となく傑の顔が見られずに目を反らし、ずり落ちていたサングラスをくいっと持ち上げる。
顎に手を当て、考える素振りを見せていた傑が「でも今さらだからなぁ」と呟いた。
「あ? 今さらってなんだよ。意味分かんねーんだけど」
「いやだからさ、ずっと一緒にいるから何となく知ってるんだよなって思って」
は?どういうこと?
「悟、最近エクレアとカレー味のカップ麺にハマってるし、映画は何でも見るけどミステリーとかちゃんとストーリーあるものの方が結構好きだろ、あとは……」
傑はつらつらと俺の好きなものを言い当てていく。
「ね、だいたい知ってるつもりだったけれど……違ってたかな?」
「……あってる」
バツが悪くて俯くと、二人に同時に笑われた。なんだよ!笑うなよ!!
「っはー笑った。良かったじゃん、ちゃんと夏油にも想われてて……ッブハ」
「悟は結構分かりやすいから……ククッ、見てれば何となくねわかるんだよ」
息も絶え絶えに笑いながら背中をバシバシ叩かれた。痛ぇーし。ひとしきり笑って満足したのか「そろそろ教室行かないと夜蛾センがうるさいぞ」と傑が日なたに踏み出す。
傑の背を眺め、その眩しさに目を細めながら「あのさ、」ともう一つ気になっていたことを硝子に聞く。
「硝子も、傑の事眩しく見えたりすんの?」
あんぐりと口を開けた硝子の顔に、何か間違った、ということは分かったが何がいけなかったのかが分からない。額に手を当てながら大げさに頭を振り「五条家の情操教育はどうなってんだよ」と嘆いている。あの五条家だぞ、自分でいうのも何だがそんなものは期待する方が間違っている。
「……今度歌姫先輩から借りた少女漫画貸してやるから、それで勉強しな」
「はぁ!? 何だよそれ、おい、」
「ちなみに、私は夏油の事これっぽっちも眩しく見えないから、ただの屑にしか見えてないから安心しな。ちなみにお前もな」
これだから図体だけデカくなったお子ちゃまは困る、と言いながら硝子も傑の後に続いて歩いていく。硝子は眩しく見えないってことは、これはこの眼のせいなのか?しかも少女漫画ってなんだよ。頭の中に疑問符を沢山浮かべながら傑と硝子の後を追った。
「……ッいや、薔薇色じゃねぇのかよ!!!!」
「おい悟!! 何時だと思ってんだ!!」
――深夜の男子寮に俺の心からの叫びが響き渡るのは、もう少し先のことだ。