海の見えるこの家で「レスキューの資格を取ってきて下さい」
さらりと発せられた命に、アオキは唖然としていると、オモダカはそれを了ととったのか、なめらかに次の句を継ぐ。
「この度、エリアゼロに研究調査チームの増員を予定しております。また、今後は有能なトレーナーもエリアゼロへの出入りを認める方針です。それに当たって、緊急の状況に対処できる職員を配置しようと考えています」
つらつらと並べられる理由を聞き流しながら、アオキは過去に命ぜられた様々な業務を思い起こしていた。
「今期より四天王に命じます」
「とある地方の、大会に出場して貴方を推薦しておきました」
「ベテラントレーナーの教習会に参加して下さい」
・・・・・・――――
数々の記憶にめまいを起こすアオキ。
「研修会は、ガラルのワイルドエリアで行われますので、来週からガラルに向かって下さい」
「え、ガラルですか」
ガラルと聞いて、すぐに思い浮かんだのは、パシオで出会った正反対の友人。単純な物だ、いつ断りの言葉を挟み込もうと考えていた、アオキの心が揺らいだ。
「はい、良かったですね。良き友人に再会できるでしょう」
それを見抜いたオモダカによって告げられた一言に、アオキはもう何も言えなくなった。無機質で硬質なリーグ委員長室に無駄な物など何もない。完璧と称される女傑を前にアオキは目を細めた。
スッと差し出された、詳細が書かれた資料を受け取りながら、アオキはガラルの名物は何だったか現実逃避をしながら思いを巡らせた。
「カンパーイ!!」
仕事から解放された同僚達が、遠慮なくグラスをぶつけ合っているのを、おぼろげな目でみつめながら、アオキは久々のパルデア料理に舌鼓を打った。
「なっはっは、アオキさん、目ぇ死んどるで!!」
酩酊している同僚が、アオキの顔を見て爆笑している。それに言い返す余力はなかった。
アオキは満身創痍だった。久々の出張は想定よりもハードでストイックな物だった。オモダカの言葉通り友人との再会は果たしたものの、実態は講師と生徒という立場の違う物だった。学生時代以来にみっちりと座学を詰め込まれると、広大なワイルドエリアにて実践実習。鉛のように思い荷物を背負いきつい道のりをガンガンと突き進み、崖をよじ登り、溺れている人を抱え上げる、訓練に訓練を重ねた過酷なスケジュールだった。いつまでも燃える男の名の通りどこまでも熱意に満ちた数日だった。
そして、帰りの飛行機でようやく一息ついた時、上司からメールが一通届いた。
『リーグ職員の慰労会を開きますので、帰国後そのまま参加して下さい』
愛する我が家でひたすら惰眠をむさぼろうとしていたアオキに否を唱える隙も与えられず、すでに参加人数にカウントされ、研修を終えてのスピーチまで要望されていた。
グビグビとビールを流し込んで渇きを潤し、疲弊した体と荒んだ心をみたすように肉にかぶりつけば、パルデア産スパイスの香りが身にしみた。
「うまい」
普段なら心の奥にしまい込んでいる感想が、口にこぼれた。
そこで、アオキの記憶はプツリと途切れてしまった。
「う、うぅん・・・まぶし」
アオキが目を覚ますと、白い世界に包まれているようだった。レースカーテンからすり抜けた光が柔らかく部屋を照らしていた。真っ白な寝具に、シミ一つない壁紙。全てが白くてアオキには、これが現実だとは思えなかった。
「目が覚めたようですね」
白い世界に、突然降りかかってきた声に、アオキは氷状態のように固まってしまった。その存在感は誰よりも強く、色濃く、白い世界に色が満ちるようだった。その姿は青いインナーに黒いスラックス、あとはいつものジャケットを歯追えば上司のできあがりだ。それでも、褐色の肌も夜空の色をした瞳も豊かな髪もこの部屋ではよく映えた。
「と、トップ」
「アオキ、体調はいかがですか」
アオキは慌ててベッドから起き上がって、自身が何も着ていないことに気付いた。そして、全身から血の気が引いた。オモダカはアオキの心中など気にしないように、ゆったりとした足取りで近づき、ベッドに腰掛けた。そのまなざしは普段と何ら変わらない女傑そのものだ。
「あ、あの、自分の服はどこに」
「ああ、朝のランニングの途中でクリーニングに出してきました。午後には取りに行けるでしょう」
「え・・・・・・」
理解不能な状況に、ウソをつかない上司の言葉。服をクリーニングに出されたということは、そうしなければならない何かがあったということだろう。素肌の肩が寒くもないのに、震えた。じっと見つめてくる上司の圧に耐えきれず、処女のようにシーツで肩を隠すしかなかった。
「なにか、着る物を貸していただいても」
「そういわれると思ってコンビニで買っておきました」
そういって、オモダカはビニールの中に入った大量生産の既製品の衣服をアオキに手渡した。ピリピリと音をたてながら袋を空けて取り出したシャツは完璧なほどにアオキの身体にフィットした。
「あの……」
何かを言おうとしたが、結局吐息しか出なかった。服を着たところで、状況を理解することもできず、混乱を解くこともできなかった。何よりも、やけに落ち着いているオモダカが恐ろしく感じた。
「やはり、何も覚えていないようですね」
カーテンが風に揺らいだせいだろうか、一瞬オモダカの顔に影がよぎったように見えた。アオキの頬に冷たい汗が伝う。
「トップ、自分は一体」
「アオキ、貴方であればすでに状況は理解しているのでしょう」
オモダカの言葉通り、アオキはある結論を脳内で出していた。
「二人で素晴らしい夜を過ごしました。ちなみにここはマリナードタウン建てている私の別荘」
そう言って立ち上がると、白いカーテンを開く。そこには、広い空と太陽に照らされてキラキラとまぶしい青色の海があった。白とオモダカだけだった世界が現実身を帯びてくる。
「素晴らしい夜・・・」
「非常に残念です。あんなに求め合ったことを覚えていないとは」
「申し訳ありません」
いつもの額に指をあてるポーズをするオモダカに、アオキは頭を下げた。
「せ、責任を、とります」
上司も部下もない、混乱しつつも、男としての矜持でなんとか言葉を引きずり出した。その必死の覚悟の言葉にオモダカはポカンと威圧を忘れたように、唖然としていた。
「セキニン?ですか」
まるでその言葉を知らないように首をかしげる。アオキの背中にじわりと嫌な汗がにじみ出る。
「責任など感じる必要などありません。全て同意の上です。私が貴方をこの家に連れてきたのですから。しかし、貴方の方から責任という言葉が出てくるとは実に意外」
「これでも一応普通の男ですから」
記憶もない、今だ混乱も解けない。それでも、アオキなりの精一杯の誠意だった。オモダカにはそれが良い意味で取られたのだろう。上司としてなのか、オモダカ個人としてなのかは不明だが。
「それでは、週末はここで過ごして下さい」
アオキの心中を余所に、オモダカは実に晴れやかな笑みを浮かべて、アオキ、と名を呼んだ。
「昨夜は実に素晴らしかった。貴方と共にいることで私は満たされ幸福に包まれました。許されるのであれば、あの夜をずっと感じていたいと思います」
記憶のないアオキには苦痛でしかない言葉をオモダカは坦々と告げる。
「もちろん強要はしません。毎週来なくても、これる時だけで良いのです。ここで夜を過ごして下さい」
「な、何言ってるんですか」
「貴方の判断にお任せします。私は毎週この家に帰りますから」
全てはオモダカの中で決定事項で、アオキにとっては逃げられない命令のような物だ。アオキが何も答えられずに、シーツのしわを眺めていると、オモダカは立ち上がり、クローゼットからスーツを取り出した。
ピッと鋭い音を立てて、オモダカはスーツに腕を通す。慣れた手つきでボタンを留めると、そこにはトップチャンピオンの姿があった。
「貴方と過ごす夜を楽しみにしております」
胸に手を当て恭しく一礼をするオモダカを、アオキはただ見つめることしかできなかった。
これでも、社会人。
上司の言葉は非条理で意味不明でも従ってしまうのが部下の勤めだ。アオキはオモダカの言葉を断ることは出来ず、週末をオモダカ邸で過ごすことなった。
アオキはまず、明かりのない家に火を灯すことから始まる。業務終了後、手頃な店を見繕って腹を満たして、ほろ酔いになる程度に酒を流す。そして、主のいない家に足を踏み込み、上司が帰ってくるのを静かに待つ。
酒は弱くないはずだが、どうしても例の夜のことは思い出せない。
オモダカはアオキの言葉をどう解釈したのか、アオキ自身もなぜ責任という言葉でたのかもわからないままだ。ただ、何かを背負いたかっただけなのかもしれない。ただ、二人で過ごす夜を楽しみにしているというオモダカの思いを裏切ることはアオキからは出来なかった。
白い冷蔵庫の中には、美味しい水とポケモンフード、そして最近加わったのが、アオキの贔屓のビールの缶だ。それを手に取り、ついでに戸棚からグラスを取り出す。
パルデアグラスはどこか青みを帯びていて、手触りも手作り故に歪にそして冷たく感じる。その中に、ビールを注いで、ゴクリと喉をならした。泡と麦の苦みが爽快感に、アルコールが脳を麻痺させる。そのまま一息つきながら、スマホロトムの時間を見る。
もうすぐ、日が変わる。
帰ってくる様子もない家主に、見切りをつけ、一気にビールを飲みきると、アオキはシャワーを浴びようと立ち上がった。
未だになれないバスローブに身を包み、白いシーツに横たわる。オモダカがこの家を手入れしている様子はないので、定期的にハウスキーパーをいれているのだろう。完璧な白に満ちた部屋は、簡単にアオキという異質を受け入れてしまう。目をつぶれば、潮騒の音が規則正しく部屋を満たした。さあさあと寄せては返す波の音はまるでゆりかごのようで、高品質なマットレスに横たわっているだけで眠気を誘ってくる。
アオキがそのまま眠りの淵に入ろうとした瞬間、カチャリという金属音が響いた。
さっきまで耳に心地よく流れていた波の音が消える。明かりをつける音がして、いくつか物音を立てると、そのまま、その音は浴室に向かっていった。
「起きていたのですね」
しばらくしてやってきたバスローブ姿のオモダカは、アオキを見下ろして不思議そうにしていた。
「眠ってもよろしいのですよ」
そう声を掛けられる中、アオキはベッドから身を起こす。
オモダカには答えず、アオキは半分文句のようにつぶやいた。
「さすがに、2週連続で寝落ちするのは、責任を果たしているとは言いがたいので」
「私の業務の都合に無理に合わせなくても、それに責任も」
アオキはオモダカの言葉を無視して、力ずくで引き寄せるとその口を塞いだ。言葉を遮られたオモダカも驚きはしたものの、そのキスに拒むことはなかった。受け入れるだけのキス、バスローブを剥ぎ取るのもアオキだ。どこかにうずく違和感は慣れていない故なのか、全てはオモダカの望みの通りのはずなのに、アオキがリードしないと行為は進まない。アオキは、キスを深めようと、オモダカの後頭部に手を回す。
一つになっていくようで、何かが欠けていくようだ。
すり切れていくように、夜を二人で過ごす。週に一度だけ。