爪を彩る ずらりと並ぶのは色とりどりの液体の満たされた小瓶。その奥で微笑むのは、岩の国の最高権力者と呼んで差し支えのない存在。
「今日は商人として来たのよ。さ、好きな物を選んで頂戴」
支払いは天権がするから安心して、そう言って目の前の女性――璃月七星・天権の凝光は笑みを深めた。
何故こんなことになっているのか。心当たりは、ある。先日夜蘭が洞天に遊びに来て、恋人ができたことを巧みな話術で以て蛍から聞き出し、いつの間にか私室に置いていたメイクボックスやアクセサリーボックスの存在さえ発見していた、ということがあった。良いセンスね、とスメールの女性達の贈り物を褒め、何か困ったことがあれば何時でも言いなさい、何とでもしてあげるから、と恐ろしくも有り難い言葉を蛍に告げた彼女は、同時に、出遅れたわね、とも呟いていた。
今にしてみれば、あれは凝光の差し金だったのではなかろうか。じ、と紅い瞳を見つめれば、水と弓を扱う者のおすすめの品だから旅人のあなたも気軽に試しやすいわよ、と暗に自分の考えが正しかったことを仄めかされる。
「これだけ量があると迷ってしまうわね。私としてはこれをおすすめしたいわ」
こと、と音を立てて列の前に出されたのは美しい赤色。璃月特有の赤に似たその色は、凝光の爪を彩るそれと同じ物に見えた。
「凝光とお揃い?」
「ええ、そういうのも楽しいんじゃないかしら」
自らの爪が赤く染まる様を想像してみる。華やかで、凝光と同じ色彩の爪だなんて見るだけで自分に自信をもてそうだ。
「……すごく魅力的なお誘いだけれど、別の日にとっておきたいかな」
次の海灯祭の時とか。
目を細めた凝光は、じゃあ一点決まりね、と言って赤色を端に除ける。
「あなたの恋人はきっと独占欲が強いのね」
黒色や深緑色を数本列の前に移動させた凝光は、愉しげに微笑んだ。色の選択に、あからさまな意図が透けて見える。
「この中ならこれ、なんだけれど……」
彼の外套の色に最も近い色を手に取り彼女の意図に乗ってみせると、凝光はふふと声を立てて笑った。
「そういう色にはこれを重ねるとより美しい見た目になるわ。ごく薄い青色の液に夜泊石を細かく砕いた粉を混ぜているの」
差し出された瓶を揺らしてみると、鈍い輝きが見える。
「夜空だね」
「ええ、これはあなたの物にすることを決めて選んできたのよ」
あなたは月のように美しいからきっと似合う。そう言いながら、列の前に出された瓶が全て端に寄せられた。
「おすすめばかりをしてしまったわね。そろそろ気になる色は見つかったかしら」
言われて改めて目の前の瓶を眺めてみる。愛らしい薄桃色は以前貰った化粧品に似合いそうだ。普段遣いもしやすくて便利そうである。衣装に合わせて白や金に近い色を選べば、旅の最中も小さなおしゃれをしている気持ちになれるかもしれない。
そこで、ふと、砂漠の女性たちから化粧品と同時に貰ったアクセサリーを思い出した。凝光に一言断って、目的の品を持ってくる。
「これに合う物が欲しい」
できる? と問えば、凝光は、詳しく話を聞きましょう、と商人の顔をした。
◇
歩くたびに腿を撫でる薄布の感触が慣れない。何枚も重ねられたそれは一切の重みを感じないのに、これを着せられた意図を考えると緊張で気が重くなる。
マルに今日の来客を聞くと、予想通りアルハイゼンのみである。唸りたくなる喉を抑え人払いを頼むと、マルは心得たように微笑んだ。
自室に戻って外套を脱いだ後、彼のいるであろう客室に向かう。扉の前で何度か深呼吸をしてノックをすれば、聞き慣れた声が入室を促してきた。
「こんばんは、アルハイゼン」
「ああ、こんばんは」
蛍はできるだけいつも通りの声を作って挨拶をしながら、扉を開ける。アルハイゼンに目線を上げてほしいような上げてほしくないような心地で部屋に入ると、挨拶の時にきちんと相手の方を向くという習慣を身につけているアルハイゼンは当然のように蛍を見ていた。その表情から思考は読み取れない。
昼頃、凝光に見せたのはキャンディスから貰った青い石の耳飾りだ。その後あれよあれよという間に群玉閣に連れていかれ、様々な薄布を当てられ、室内用の靴を試された。ようやくそれらを終えた頃には日が傾きかけていて、凝光に手招かれるがままに新月軒から取り寄せたという夕食を頂いた。食べ終えた頃に一通りの身に纏う物を与えらえれてやっと帰れると思っていたら、今度は凝光の側仕えと思しき人達に両脇を固められて湯殿へと放り込まれた。そこからはもう、まるで璃月の貴婦人になったかのように全身を磨かれ、爪を塗られ、髪を梳かされ、とにかくそのまま眠れはするけれど、まあここまでの用意をして言葉通りに寝る貴婦人はいないだろうと言う程度に美しく調えられた。
外套を被せられていくつか教えを授けられ、さあ行ってらっしゃいと送り出されて、アルハイゼンの眼前にこの姿を晒しているわけだが。
(反応がないのは、予想外……)
濃紺の薄布を何枚も重ねた衣装は、そういう用途であろうと想像されるにも関わらず、肌の色が透けるのは膝下の布地の重なりがほとんどない辺りだけで、蛍にこれを着せた女性は『部屋着としても着られますよ。恋人以外が来ないという前提にはなりますが』と微笑んでいた。耳飾りの石の色、チョーカーと靴に嵌められた石の色、手の爪に塗られた色も深い青色で揃えて、『普段の旅人さんより大人っぽく、かつ、青色が映えるようにしました』と太鼓判を押された通り、美しく仕上げてもらったと思う。だというのに、無言でただ見つめられるだけの時間が生まれようとは想像もしていなかった。
凝光に授けられた教えを使うべきか悩みつつ蛍がアルハイゼンの傍まで近づくと、彼はようやくその口を開いた。
「君は天青石を好んでいると思っていたが、青の燐灰石の方が好みだったか?」
蛍の手を取り丁寧に彩られた爪を角度を変えて眺め、そのまま首と耳の辺りに視線を移したアルハイゼンが、蛍の人差し指に触れながら少女に尋ねた。蛍は一瞬何のことか分からずに、初めて聞いたセレスタライトとブルーアパタイトの二語を頭の中に巡らせる。話の流れと彼の目線から、石のことだと判断する頃には、アルハイゼンは退屈だったのか触れる指を順々に移していき、小指の先に触れ始めていた。
「石のことはよく分からないけれど、今回はアルハイゼンの服の装飾に使われているのに一番近いのを選んだつもり」
似合わない? と問いかければ、アルハイゼンは蛍の小指の付け根辺りを触っていた手を指先全体を包み込むような形に変えて、そういうことか、と小さく笑った。
「似合っている、とても」
当然のように爪先にキスを落とされて、蛍は驚く。アルハイゼンってこんな人だったっけ、という思考はそのままの姿勢で向けられた視線に射抜かれて霧散した。
喰われる、確実に。
喰われることに関しては膳を据えたのは自分なのだから異論はない。ただ、いつも通りに丁寧にやさしく頂かれるには今日の蛍は少しばかり知恵をつけすぎていた。
蛍はぐ、と身を屈め、片手を背もたれに置いてアルハイゼンの耳元に唇を寄せる。
「――――――――――――」
小さな声で言い終えるや否や、アルハイゼンは些か乱暴に蛍を抱き上げ、その身体を寝台に横たえた。
◇
「それで、あなたの恋人にはあの趣向を気に入ってもらえたのかしら?」
先日身につけていた物の中で唯一借り物だった靴を返しに群玉閣を訪ねると、挨拶もそこそこに凝光が悪戯っぽく微笑んだ。靴だけを返さないといけないようにしたのは自分を揶揄うために違いない、蛍は悟った。
「……気に入った、とは思う。ただ――」
なんとなく悔しそうだった、と素直に伝えれば、凝光は心底愉しげに笑い声をあげ、それは重畳、と口元に弧を描いてみせた。