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    Hana_Sakuhin_

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    Hana_Sakuhin_

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    「本当に代わりのつもりだった・・・・・・、わけねぇよな。いや、むしろ安心したワ」



    Thank you for reading!

    蘭みつ♀です。謎時空です。
    高校卒業までセフレだった二人が八年ぶりに再会する話です。ハッピーエンド(?)です!題名は武闘の間違い・・・・・・、ではありません。かろうじて。

    #蘭みつ♀

    手のひらの上で乱舞を若気の至りだった。
    そうでなければコンクリートブロックで頭を殴ってきた相手と、セックスなんてしない。

    連絡先も知らない奴が自分のセーラー服のリボンを解いていく手を、ただ黙って受け入れたりなんてしない。純情を捧げたなんて言葉だけはロマンティックなあの行為を、思い出にして許したりなんてしない。

    ――ないだらけの関係だった。







    あ、と間抜けな音が薄い唇から零れ落ちた。と同時に目の前の男が吐き出した白い息は、ネオン瞬く明るい夜空に昇って、跡形もなく消えていく。

    数年ぶりに相見えた灰谷蘭は長かった髪をバッサリと切って、当時よりいっそう危うげな雰囲気を纏っている。というのに、三ツ谷が真っ先に抱いたのは『マフラー似合ってねェな』なんて場違いとも言える感想だった。

    灰谷の整った顔立ちがアンバランスさを無理やり隠してはいるが、もっとその顔立ちを生かすような色味や形がある。一瞬にして三ツ谷の脳裏に、彼に似合うデザインの数々が思い浮かぶ。デザイナーの性か、現実逃避か。はたまた両方か。

    「知り合い?」

    ぱちん。覗きこまれた訝しげな男の視線に、三ツ谷の脳内のデザイン案は間抜けな音をたてて一斉に消えた。代わりに言い訳のような言葉がつらつらと並ぶ。とてもじゃないが『元セフレです』とは言えない。

    「・・・・・・顔見知り」

    当たり障りもなし、間違ってもなし。その言葉に灰谷が目を細めたことに、男に視線を向けていた三ツ谷は気がつかなかった。

    灰谷に腕を絡める垂れ目の美人な女も、彼に「なにあの子、知り合い?」と聞いている。その答えを聞くのは少し怖くて、三ツ谷は無意識に拳を握りしめた。

    「萎えた」唐突に、灰谷は呟いた。
    「は?」
    「みーつや」

    灰谷の声は砂糖を溶かしたように、どろりと甘かった。それが逆に三ツ谷の身体を冷たくした。ろくなことにならない、それは勘なんて不確かなものではなく、経験で知っている。

    「今すぐオレと一緒に来るよなァ?」

    聞いているていを装ってはいるが、実際には選択肢なんてなかった。ここで三ツ谷が首を横に振れば、きっと明日の朝刊に身元不明の男の死体が浮かぶだろうことは想像に易い。
    分かった。小さく頷いた三ツ谷に、灰谷は満足気な微笑みを浮かべた。


    別れと謝罪を告げた三ツ谷に、男は愛想笑いも浮かべられず、引き攣った顔のまま姿を消した。その後ろ姿を見送りもせず、そっと瞼を伏せる。その華奢な体躯を、背後から灰谷の影が覆う。

    「アイツのこと好きだったの?」
    「そういうんじゃねぇよ」

    聞いた割に灰谷は、ふーんと興味なさそうに鼻を鳴らした。ぱっと長い足が数歩先を進んで、着いてこない三ツ谷を振り返って彼は首を傾げた。

    「どこ行くんだよ」三ツ谷は聞いた。
    「どこでもいいけど。じゃあ、三ツ谷ンち連れてって。失恋慰めてやるよ」
    「ちげぇって、名前も知らねぇし」

    じっと真実を見透かすかのように、そばのホテルの桃色のライトに照らされた灰谷の瞳が妖しく揺らめく。三ツ谷は「ホントそういうんじゃねぇって」と繰り返した。

    実際、あの男は別に恋人でも何でもなかった。あえて関係性に名前をつけるなら、ワンナイトパートナ。身体の芯まで凍えそうな寒い夜を、どうにか越すためだけの相手。たぶん、灰谷の隣にいた女と同じだ。
    見つめ合っていた時間は数秒にも満たなかった。

    「まあいいや。行くぞ〜」

    突然たった一歩で距離を縮めた灰谷は、三ツ谷の細い手首を取り、楽しそうに笑った。


    夜は始まったばかり。そこかしこで身を寄せ合う男女の中で、まるで青春の一ページのように手を引く灰谷と三ツ谷は異端だった。



    ビール、チューハイ、炭酸水。お高いカップアイスに、おつまみチーズ。棚に並んだ品々が、灰谷の手によって無作為にカゴに放り込まれる。相変わらず金には困っていないらしい。

    家からほど近い二十四時間営業のコンビニは、クリスマスケーキの予約を開始していて、三ツ谷はポスターをぼんやりと眺めて待っていた。

    もう随分と前に仲間たちでパーティーをやったことを、ふと思い出す。クリスマスだというのに、三ツ谷が手作りしたケーキにロウソクを立てて、バースデーソングを歌ったのは誰だったか。


    「三ツ谷はいるもんねぇの?」

    ぐっと背後から灰谷に腕を回され、三ツ谷は思案した。ゴムはあっただろうか。元彼が残していったやつがある気がするが、・・・・・・サイズは合うか。

    灰谷に着いて行くことを決めた時点で、三ツ谷はつまりそういうことだろうと腹を括っていた。元より互いにそういう相手を連れていたのだし、かまととぶるような年齢でもない。灰谷との最後のセックスから数えて八年は経つ。二十六歳、もうアラサーに片足を突っ込んでいるのだ。

    だんまりと考え込む三ツ谷に、灰谷は「三ツ谷が欲しいのは買ったよ」とニンマリ笑った。ちらりとカゴの中を見ても、もはや一杯になったそこは何が入っているのか判別がつかなかった。まあ、良くはないけど、いっか。三ツ谷は息を吐いた。


    徒歩五分。赤錆の目立つ階段を上って、一番左の角部屋。三ツ谷はポケットから鍵を取り出すと、玄関のドアを開けた。外と変わらない冷たい空気が頬を撫ぜる。

    「せっめぇ〜」
    「うっせぇ。文句あんなら帰れ」
    「ふーん。結構ごちゃごちゃしてんね」

    ふらふらと灰谷は部屋を自由に歩き回り、ラックに掛かったタキシードに手を伸ばした。三ツ谷は横からその手を叩いて、「それには触るなよ」と釘を刺す。

    「なにこれ」
    「ドラケンのやつ」

    来年エマと結婚する龍宮寺に、ウェディングドレスとタキシードを作って欲しいと頼まれ、三ツ谷は二つ返事で了承した。

    かつての相棒の晴れ舞台、せっかくだから最高のやつを作りたい。そう思って仕事の合間だけじゃなく、家に持ち帰ってプライベートの時間にも三ツ谷は作業を進めていた。

    「へー。結婚すんだ、アイツ」
    「こちとら、ようやくって感じだけどな」
    「ふーん。じゃあ三ツ谷、売れ残っちゃったんだね」

    言われて、否定はできなかった。周りはどんどん結婚を決め、中には子供が生まれた奴もいる。三ツ谷はそれでいいと思って生きてきたが、急に胸にポッカリ穴があいた気分になった。

    「オレが貰ってやろーか?」

    幻聴かと思った三ツ谷は、無意識下で俯いていた顔をゆっくりと上げた。見つめてくる灰谷の淡い藤色の瞳は真剣とも冗談ともつかない。
    絡み合う視線をふいと外したのは、三ツ谷だった。

    「反社とは付き合わねぇ」

    ぱちぱち。灰谷は目を瞬いてから、くつくつと笑い出した。そばにあった姿見でスーツ姿の自分を見て、「確かに」なんてまた笑う。三ツ谷は眉を顰めた。

    「反社じゃなきゃいいの? つーか三ツ谷、もしかして夜景の綺麗なホテルで指輪がいいってタイプ?」
    「ハイハイハイハイそうだよ」

    もう冗談だと分かったので、三ツ谷は話半分で返事をする。ハンガーをふたつ手に取り、ひとつは灰谷に渡し、ひとつは脱いだコートを掛ける。

    「あ、三ツ谷これいる?」

    はらりと手渡されたマフラーを、三ツ谷は反射的に受け取る。先程まで灰谷が首に巻いていたやつだ。当然のように知っている某有名高級ブランドのマフラーは、素材がカシミアで肌触りが良い。

    「なにこれ」
    「マフラー」
    「それは見れば分かるわボケ」
    「さみぃって言ったらくれたんだよなァ」
    「・・・・・・人からの貰いもんを渡すなよ」

    デリカシーのなさも相変わらずだ。何度か六本木にある灰谷の家に行った時に、高額な女物のスキンケア用品やメイク道具が洗面所に置いてあったのを思い出す。

    「持ち帰れ」三ツ谷はにべもなく言い放つ。
    「じゃあ竜胆にやるか〜」

    呑気に言う灰谷に、三ツ谷は「風呂入るなら先入れ」と言う。一応、客人だ。本来の予定ならば招かれざる、ではあるが。

    三ツ谷はラックの引き出しを開けて、元彼の置いていったスウェットを探す。確か捨ててないような気がしていたが、見つからないのを鑑みるに捨てたのか。どのみち灰谷が着るとしたら、つんつるてんになるだろうが、いっそその姿を見たくて探す。

    「いや、ねぇな・・・・・・どうすっか」
    「三ツ谷、オレ泊まんねぇよ」
    「は?」三ツ谷は目を丸めた。
    「日付変わる前には帰る」

    三ツ谷は立ち上がって、思わず灰谷のおでこに手を伸ばした。うん、熱はない。呟くと、その手首を掴まれた。灰谷のひんやりと冷たい体温が、三ツ谷によって熱を持っていく。

    「それとも帰って欲しくねぇの?」にんまり、灰谷は笑った。
    「帰れ。なんなら今すぐ帰れ」

    もはや脊椎反射だ。言い放った三ツ谷に、灰谷は飄々とした態度を崩さず、「まあすぐ遊びに来るからさ」なんて宣うと、ビニール袋から酒類を取り出す。

    「あ、ほら。三ツ谷の欲しいやつ」
    「・・・・・・バカ」
    「好きだったでしょ?」

    ぽんと灰谷から手渡されたのは、固めのプリン。確かに昔、好んで食べていた時期がある。若気の至りを繰り返していた、あの頃だ。蘇る記憶と、手に乗るそれを眺めて、三ツ谷はふっと笑った。

    「ウン、今でも好きだよ」

    三ツ谷はちらりと置時計に目をやった。時刻は午後十時五十二分。タイムリミットは一時間と少し。
    言いたかったこと、言ってほしかったこと。積もり積もった話なんて、なにひとつない。それでも、三ツ谷は少し物足りない気がした。







    会わない八年の間に灰谷を思い出す時、真っ先に浮かんだのは、意外にも三ツ谷の作った手料理を美味しいと食べる姿だった。簡単に作れるようなハンバーグやオムライスでさえも、幼子のように喜んだ。

    今になって分かるが、たぶん家庭的な味が物珍しくて嬉しかったのだろう。三ツ谷は生活感のないキッチンを見て思った。かつてと住んでいるマンションは違うが、やはり綺麗なキッチンだ。

    「三ツ谷、分かんないことあったら聞いてー」
    「・・・・・・オマエもどうせ分かんねぇだろ」
    「うん、まあね。竜胆に電話すれば分かるっしょ」

    ソファにふんぞり返る灰谷の背中に投げかければ、さも当然といったように返される。いちいちそれにキレていたら身が持たない。三ツ谷はふと思いついた。

    「灰谷、こっち来て」
    「なに?」

    素直にキッチンにやって来る灰谷に、三ツ谷は包丁を渡す。受け取った灰谷のまるで凶器を持つように柄を握るその姿に、似合いすぎて似合わねーと笑えば、何故かノリノリでポーズを取ってくる。

    「なに、どうすんのコレ」
    「オマエ普段どうせ外食したり竜胆に作って貰ったりしてんだろ? たまには兄ちゃんなんだから作ってやれよ。喜ぶよきっと」

    嫌がるかと思えば、灰谷は意外にも「まー、たしかに。そういうもんか」と三ツ谷の隣に立つので、ワイシャツの袖をくるくると捲ってやる。手も洗わせて、まずはじゃがいもを切らせてみる。

    「なに作んの?」
    「肉じゃが。あ、そこ芽あるから避けて」

    灰谷は思った通り器用だった。やればできるタイプなのだ。いつの間にか三ツ谷に代わって、包丁でじゃがいもの皮まで剥けるようになっている。

    小皿に取り分けて、三ツ谷はふーふーと冷ましてから、灰谷の口元にじゃがいもを持っていく。しかし頑なに開かない唇に首を傾げる。

    「ほら」
    「あれは?」

    そっぽを向きながら言われ、三ツ谷は一瞬で灰谷の求めているものを察した。

    「・・・・・・はい、あーん」

    途端、ぱかりと雛鳥のように開く口に、三ツ谷はじゃがいもを放り込む。「おふくろの味だ」なんて灰谷が言うので、三ツ谷は少し上にある肩を小突いてやる。

    傍から見れば、きっと恋人同士に見えるだろう。セックスはしないのに、そんな戯れを、再会した灰谷はよくしたがった。それでも今も昔も、二人はそんな甘い言葉が似合うような関係性ではない。


    それから玉子焼きやほうれん草のおひたしを作り、ダイニングテーブルに箸やコップを並べたところで、鍵が回る音がして、すぐあとに「ただいま〜」と竜胆が顔を覗かせた。

    「兄貴ィ、・・・・・・って三ツ谷?」
    「おー、久しぶり。邪魔してごめん」
    「これオレどっか行った方がいい?」

    スマートフォンを弄りながら放たれるあけすけな言い方に、兄弟の血を感じる。三ツ谷は失笑を漏らしながら、片手をひらひらと振った。

    「食ったら帰るし」
    「マジで?」
    「そういうことだから竜胆。早く手ェ洗ってこい」

    弟の言葉を遮るようにして、灰谷はニッコリ笑いながらキッチンを指さした。竜胆は苦笑い半分に頷いて、姿を消した。

    「肉じゃが?」
    「そう。オレが作った〜」
    「ヤバいじゃん」

    三ツ谷は兄弟二人の会話を眺めながら、そういえば弟ときちんと話すのは初めてだなと思っていた。あの頃は六本木のマンションに行くと、だいたい竜胆は不在か、入れ違いだった。不思議な感じがする。

    「まあ食ってみろって」

    灰谷の隣に三ツ谷、前に竜胆が座る。
    恐る恐ると肉じゃがを口にした竜胆が、ふふっと笑った。「オレらのおふくろの味じゃん」と兄と同じことを言う。三ツ谷はカラで竜胆を小突く。信じられないくらい和気あいあいとした雰囲気だった。


    「じゃあ帰るワ」
    「おー。送ってく」

    あの日から数えて、灰谷と三ツ谷が会うのはもう五回目だ。なのに一度もセックスをしていない。連絡先を交換したくせに、猫のようにふらりと現れる灰谷を家に迎え入れること四回。毎回手料理を作ってやって、はいサヨナラだ。

    今日は初めて高そうな車の助手席に乗って、六本木のこのマンションに連れてこられた。それでもやはり帰ると言った三ツ谷を、灰谷は引き止めなかった。コートを取ってくると奥の部屋に向かった灰谷を、壁に寄りかかった竜胆が見送りながら、三ツ谷に向かってそっと囁く。

    「え、ホントに帰んの? オレどっか行くよ」
    「いや、シねぇって。たぶん灰谷・・・・・・あ、蘭の方にそういう気がねぇよ」
    「より戻したのかと思ったんだけど」
    「あの頃も付き合ってねぇんだけど」

    竜胆は目を丸めた。そしてブツブツと「それはねぇよ」だの「兄貴マジかよ?」だの呟いているが、似てるけど兄の方が柔らかい顔つきしてんな、性格はまあアレだけど、とひとり頷く三ツ谷の耳には届かない。

    「じゃあまたな」

    灰谷が戻って来て、三ツ谷はひらひらと手を振って別れを告げるが、竜胆はドアが閉まるギリギリまで不安そうな名状しがたい表情を浮かべていた。







    いよいよクリスマスまで三日をきった。裸の木々を彩るイルミネーションを横目に、三ツ谷はひとり帰路を行く。マフラーしか入っていないのに、手に持った紙袋が、やけに重く感じる。

    「まあクリスマスだし」

    白い息と共に、誰にともなく言い訳を吐く。もっとこうして息を吐くように素直になれたら、なんて。ぐっと握りしめた拳は、この前灰谷の腕に絡んでいた女と違って、人を殴る痛みを知っている。

    明日、雪降るんだっけな。そしたらホワイトクリスマス・イブだ。三ツ谷がそんなことを思いながら、天気予報を映す巨大な電子看板に目を向けて、ふっとそのまま反対側の歩道を見たのは偶然だった。

    「あ、」

    あの日の灰谷と同じように、間抜けな音が今度は三ツ谷の唇から零れ落ちる。
    視線の先、そこにいたのは見知らぬ女と並んで歩く灰谷だった。二人は三ツ谷に気がつかず談笑している。その姿はクリスマスを一足先に楽しんでいる恋人同士のようである。


    思い出す、高校三年生の冬。あの日もまた、今にも雪が降り出しそうな寒い日だった。
    あのときも灰谷と見知らぬ女が腕を組んで、ラブホテルが並ぶ路地裏へ向かうのを目撃したのは偶然だった。つくづく運がいいのか、悪いのか。

    「あー、帰るかぁ」俯いて呟く。


    ・・・・・・違う。
    本当は分かっていた。
    もしかしたら恋心というには、押し殺していた年月が長すぎて、些か歪なものだったかもしれないけれど。もうずっと諦めて、気づかないふりをしていただけだ。

    学校帰りバイクの後ろに乗って、一人一パック限定の卵を買いに行ったこと。一人じゃ行けないような、灰谷の行きつけの高級ショップに行ったこと。
    初めてセックスをした次の日の朝、何故か固めのプリンをくれたこと。


    ――決して、ないだらけの関係性じゃなかった。

    三ツ谷はぐっと顔を上げて、踵を返した。



    午後六時三十七分、辺りはすでに暗くなっている。突然チャイムを鳴らした三ツ谷を、竜胆は驚きながらも招き入れてくれた。

    唇を固く結んだ三ツ谷に、隠すことなくゲンナリとした顔をした竜胆は、さすがあの兄の弟を二十数年やっているだけある。察しがいい。

    「アイツが帰ってくるまでいていい?」
    「まあいいけど。喧嘩か?」
    「最低でも鼻へし折る」
    「オイ、治安悪ぃな」

    竜胆は言うと三ツ谷をダイニングに座らせ、キッチンに向かった。すぐにほんのりと甘いココアの香りが漂ってくる。しばらくして戻ってきた竜胆の両手にはマグカップがふたつ、薄桃色の可愛らしいデザインの方が三ツ谷に差し出される。

    「別にさ、兄貴のこと庇うわけじゃねぇけど、ひとつだけ言っておく」

    この前と同じ席、斜め前の竜胆は少し逡巡したように視線を巡らせてから口を開いた。

    「確かに兄貴、あの頃よく遊んでたけど、三ツ谷は特別だったと思う。兄貴さ、他人が作った料理食えねぇんだよ」
    「は?」
    「外食は別だけど。女から貰ったお菓子とか料理、一度も口にしたことねぇもん」

    あんなに美味しいと食べていたのに、と三ツ谷の頭の中が疑問符で埋めつくされる。竜胆は溜め息をつくと、肩を竦めた。

    「じゃ、出るワ。兄貴に言っといて。二十六日の会議は出ろよって。三ツ谷が言えば聞くだろ」

    呼び止める間もなく、竜胆は奥の部屋に消え、すぐに玄関に向かった。錠の落ちる音が冷たく響く。残された三ツ谷はひとり、温いココアを飲む。昂っていた心が少し落ち着いた。

    「・・・・・・弟に感謝しろよ」


    かちり、かちり。壁に掛かった時計が、秒針を刻む。もうかれこれ、二時間は経っていた。だんだんと阿呆らしくなってきて、三ツ谷が帰ろうかと思い始めたとき。

    「ただいま・・・・・・、あれ?」
    「よう。おかえり」
    「三ツ谷じゃん! なにどうした?」

    ふわりと鼻腔をくすぐる女物の香水。部屋にコートを脱ぎに行く灰谷を追いかけ、その後ろ姿を見つめる三ツ谷の目は、誰かが見たら怯えるほどに据わっていた。

    「灰谷。歯ァ食いしばれ」
    「あ?」

    灰谷が振り返ったと同時に、三ツ谷は頬に拳を叩き込んだ。久しぶりに聞く鈍い音、痛みを覚える拳に身体が震える。それでも忠告はしてやったし、鼻を折るのは勘弁してやった。

    まるでスローモーションのように、ゆっくりと三ツ谷の方を向いた灰谷は、切れた唇を親指でぴっと拭い、「言い訳なんて聞いてやらねぇよ?」と目を細めた。ぞわりと全身の毛が逆立つ。

    「やれるもんならやってみ――ッ」

    ろ、と言い切れずに、腹に衝撃を感じて身体が吹っ飛ぶ。壁にぶつかるだろうと思って、三ツ谷は咄嗟に受身をとったが、投げ飛ばされた先はベッドの上だった。

    起き上がるより早く腰元に乗り上げてきた灰谷を見上げれば、頬に痛みがはしる。口内に鉄の味が広がり、三ツ谷は血溜まりをぷっと吐き出した。

    「三ツ谷取ーり」

    強気な瞳のその奥を見つめるように顎を掴んできた灰谷に、三ツ谷はくつくつと笑った。すると頭上に片手だけで纏められた腕への力が強くなる。
    ひとしきり笑い終えた三ツ谷は、ふっと淡く微笑んだ。

    「もうオマエとは会わない」

    刺すような灰谷の眼光を受けても、三ツ谷は負けじと睨み返す。と、首筋に鋭い痛みが走った。噛まれたのだと気づくと同時に、喉から嘲笑が零れる。

    「今まで手ェ出さなかったくせに?」

    ぴたり、と灰谷が動きをとめた。そして童話の猫のように目を半月にして笑う。

    「抱いて欲しいの?」
    「・・・・・・あァ?」
    「やっと言ってくれたかァ」

    満足そうに服を捲りあげてくる灰谷に、三ツ谷は思考も動きも止まる。その間に悪戯な手は脇腹を優しく撫でてくるので、思わず鼻にかかった甘い声を出してしまう。

    「ちょ、・・・・・・は、灰谷!」
    「うん。明後日まで帰す気ねぇから覚悟しろよ」
    「待てって!」

    んー、と曖昧な返事しかしない灰谷に、三ツ谷はとうとう「蘭!」と名前を呼んだ。初めてだった。ようやく緩慢な動作で、灰谷は顔を上げる。

    「なに?」
    「やっとってなんだよ」
    「マジ三ツ谷、強情すぎ。まあでもオレももう我慢できねぇし、ンなことどうでもいいだろ?」

    よくないと叫ぼうとした唇は、灰谷によって塞がれた。優しく触れたと思えば、すぐさま全てを暴くような荒々しさで舌を絡め取られる。
    灰谷との、八年越しのファーストキスだった。

    「や、やめッ」
    「・・・・・・みーつや」

    あの砂糖を溶かしたような、どろりとした甘さで灰谷はまた、抵抗した三ツ谷の名前を呼んだ。

    「選ばせてやるよ。気持ちイイがいい? 痛いがいい? オレは痛い方がいいけど」
    「ッしばくぞ」
    「あ、アイツの辮髪みてぇにできねぇのが不満? たしかにもう似ても似つかねぇもんなァ」

    三ツ谷は目を見開いた。先程までと比じゃないくらいの怒りで、身体が熱を持つ。灰谷、と呼んだその声は小さく、今にも消えてしまいそうだった。

    「なぁに?」
    「――ぇよ」
    「聞こえねー」

    近づいてきた端正な顔に、三ツ谷は思い切り頭突きをかました。軽くなった身体をベッドのスプリングを使って、飛び起こす。鼻を抑える灰谷に、三ツ谷は仁王立ちをして言い放った。

    「勘違いしてんじゃねぇよ」
    「あ?」
    「好きでもねぇ男にハジメテやんねぇわボケ!」

    喉の奥が焼けるように痛くて、唇を強く噛み締めていないと泣いてしまいそうだった。怒りや悔しさ、いろんな感情がごちゃまぜになって、三ツ谷はいっぱいいっぱいだった。

    「帰るワ」

    言いながら衣服の乱れを直して、ベッドから降りる。もう灰谷の顔は見られなかった。
    帰って温かい風呂に入ろう。そう思う三ツ谷を嘲笑うかのように、背後から楽しげな笑い声が聞こえる。他でもない、灰谷だ。

    「三ツ谷カワイー」
    「ウワッ」
    「おいで」

    一気に腕を引かれ、三ツ谷はまたベッドに元通りだ。だけど先程と違って、頭上の手は恋人のように絡め繋がれている。イイコトしよと囁いてくる灰谷に「しねぇよ」と即返す。

    「マジで?」
    「・・・・・・・・・・・・ったく。テメェ、本当に自分の顔の良さに感謝しろよ」

    三ツ谷が吐き捨てると、灰谷はハハッと笑った。自分の顔の良さを誰よりも自覚しているからタチが悪い。

    「でもその前に言うことあんじゃねぇの?」
    「えー、心当たりねぇな」
    「逆だろ。どう考えても心当たりしかねぇだろうよ」

    それでも一応話をする気はあるようで、灰谷は三ツ谷のその言葉に視線を左上に泳がす。わざとらしい態度に反省の色は見られない。

    「あ、オレ反社じゃねぇよ」
    「は?」
    「だから三ツ谷、オレと結婚しよ」

    やはり選択肢なんてなかった。だけどそれは灰谷のせいじゃない、どうせ三ツ谷にはイエス以外の答えは見つからないのだ。
    言いたいことはまだ山ほどある。

    だけど、たぶん。
    このあと食べる固めのプリンは、きっと今までで一番美味しいだろう。







    ベッドの上、三ツ谷はシーツに包まりながら、固めのプリンを食べる。もう一歩も動きたくない。倦怠感に支配された身体には、まさにプリンは回復薬だった。

    「今日、女と歩いてただろ」

    きょとり。その言葉に隣で煙草をくゆらす灰谷は目を丸めたあと、ふっと煙を吐き出しながら笑った。三ツ谷は顔を顰める。

    「嘘ついて欲しい?」
    「デリカシーねぇな」
    「ピロートークの時間に、そういう話題出す三ツ谷も大概だろ」

    確かにと納得しかけた三ツ谷は、ぐっとスプーンを握り締める。華奢なそれは歪な方向にへし曲がり、もうきっと使えないだろう。だけど、むしろ被害がこれだけで済んだのだから僥倖だろう。

    三ツ谷は深い溜め息をひとつついて、空のプリン容器とスプーンをベッドサイドに置くと、ズルズルと腕の力を使って灰谷の方へ向かう。

    そして灰谷の唇から煙草を奪い取ると、ベッドサイドの灰皿へ揉み消す。三ツ谷は文句を言われるより早く、ぐっと灰谷の腕を引っ張った。
    絡む視線。驚きに丸まる瞳にしてやったりと思いながら、三ツ谷は灰谷のその唇に口づけた。

    「次はねぇからな」

    ハァイ。返事だけは立派な灰谷の声を聞き流しながら、三ツ谷はクリスマスプレゼントで渡そうと思っていたマフラーの存在を思い出した。

    「灰谷、そこの袋・・・・・・」

    ちらりと時計を見れば、時刻はとうに午前零時を迎えていた。本当はもっとパーティーを開いて、なんて思っていたが、実際はベッドの上でロマンティックのかけらもない。灰谷は袋からマフラーを取り出して、嬉しそうに笑った。

    「メリークリスマス」



    窓の外は雪がはらはらと降り始めていた。
    明日の夜、夜景の見える高級ホテルで、指輪と共にプロポーズされることを、今の三ツ谷はまだ知らない。

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    Hana_Sakuhin_

    MOURNING『昨夜未明、東京都のとあるアパートで男性の遺体が見つかりました。男性は数日前から連絡がつかないと家族から届けが出されておりました。また、部屋のクローゼットからは複数の女性を盗撮した写真が見つかり、そばにあった遺書にはそれらを悔やむような内容が書かれていたといいます。状況から警察は自殺の可能性が高いと――「三ツ谷ぁ。今日の晩飯、焼肉にしよーぜ。蘭ちゃんが奢ってやるよ」
    死人に口なしどうしてこうなった。なんて、記憶を辿ってみようとしても、果たしてどこまで遡れば良いのか。

    三ツ谷はフライパンの上で油と踊るウインナーをそつなく皿に移しながら、ちらりと視線をダイニングに向ける。そこに広がる光景に、思わずうーんと唸ってしまって慌てて誤魔化すように欠伸を零す。

    「まだねみぃの?」

    朝の光が燦々と降りそそぐ室内で、机に頬杖をついた男はくすりと笑った。藤色の淡い瞳が美しく煌めく。ほんのちょっと揶揄うように細められた目は、ふとしたら勘違いしてしまいそうになるくらい優しい。

    「寝らんなかったか?」

    返事をしなかったからだろう、男はおもむろに首を傾げた。まだセットされていない髪がひとふさ、さらりと額に落ちる。つくづく朝が似合わないヤツ、なんて思いながら三ツ谷は首を横に振った。
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