哀しみのその輪に終止符を僕の好きな人は、格好いい。
これだけが、唯一胸を張って言える真実だった。
目の前で机に突っ伏して寝ているその人を見る。
今、僕は一体どんな顔をしているだろう。
きっと醜く歪んでいるんだろうな、と自嘲した、その呼吸すら夜の闇に溶けた。
「さにー、さにー?ベッドで寝よう?からだ、痛くなっちゃうよー、」
シロップのように甘く、媚びたような自分の声に呆れながら、目の前の大きな体を揺すった。
また、少し痩せた気がする。ちゃんと食べさせなくちゃな。
運のいいことに人並みな筈の僕の料理は、何故かこの人に気に入られている。
教えてくれ、と頼まれたこともあった。
いつもより緊張した様子でされたその頼み事の先には、きっと彼がいるんだなとすぐに察し、凍りつく心を隠して笑顔でいいよ、と言った。
そんな自分が、薄気味悪くてしょうがなかった。
僕の好きな人には、想い人がいた。
サニーは、浮奇が好きだったのだ。
でも、浮奇もまた、ファルガーに叶わない片想いをしていて。
僕はとある日から、浮奇の恋を応援すると決めた優しい彼の、堪えきれない愚痴を聞くことにしたのだ。
彼が浮奇をどれだけ優しい温度で想っているのか、誰よりもよく知っていた。
そこに、僕が入る隙なんてなかった。そんなことはとうにわかっていた。
ただ、彼が浮奇に幸せでいてほしいように、僕だってサニーに幸せでいてほしいだけだった。
いつも少しだけ猫を被って非力なふりをしているその腕で、彼をひょいと背負った。
そりゃあ重いが、僕だって立派な成人男性だ。身長だってそれなりにある。
浮奇くらい、小さかったら、なんて考えてしまう弱い頭を小さく叩いた。
拭えない愛しさの貼り付く思考に少しだけ恐れを覚えながら、彼をそのままベッドに優しくおろして布団を胸までかけた。
その無防備な寝顔に、心が裂けるような思いがした。
「おやすみ、」
愛しさと、寂しさと、色んな不純物が入り混じり、もう取り除くこともできないような息で、そう告げた。
「浮奇に、ふーちゃんへの想いをちゃんと自覚させようと思って」
いつものように僕の家で飲んでいると唐突に、居心地の良い沈黙を破って彼はそう言った。
「…浮奇は、それが痛いほどわかってるから苦しいんじゃない?」
いつもの相談だな、と踏んですぐに返事を返す。
「それはそうなんだけど、もっとこう、ファルガーじゃなきゃだめだってことをわかってほしいんだ」
すぐにスイッチが入ったその口調から透ける、相談事なら必ず受け入れてくれるだろうという圧倒的信頼に羽が生えたように喜びながらも、同時に酷く重い絶望を覚えた。
「でも…どうやって?」
ぐっと、返答に詰まる様子だったので、それを考えてくれって相談だったのかな?と思案に移ろうとした瞬間。
「抱いて、みようかな、って」
「は?」
思わずまじまじとその顔を観察した。
サニーは顔を真っ赤にして、目をきょろきょろと泳がせている。
「や、やっぱりおかしいよなこんなの」
すっかり自信をなくしてしまったような様子のサニーに、ひとまずは肯定の声を掛ける。そもそもはそれが僕の務めだった。
「おかしくないよ。サニーが浮奇のことを精一杯想って出した答えだろ?絶対におかしくなんかない」
そう力強く言って勇気づけるように頬をつまむと、ようやくへにゃっと笑った。
ふたりで家具屋に行ったときにサニーがデザインを大層気に入っていたので後日こっそり購入した我が家の木製チェアに座り直し、僕は改まって尋ねた。
「でも、具体的にどういうことなの?その、………抱くって」
サニーは正義感の強い人だ。だからこそ今では警察という職についている。
故にその案に対して倫理的によろしくないことであるという意識が強いようで、躊躇いながら、それでも覚悟を決めたように話し出した。
「…多分、浮奇の相談にのりながら、流れでその……そういうことに持っていけたとしたら、浮奇は………ふーちゃんじゃなきゃだめなんだ、ってことに、もっと気づけると思うんだ」
つまり、相談の流れで"そういうこと"に持っていけば、自分がどれだけファルガーを好きで、他の人じゃだめだということを浮奇にわかってもらえる、ということか。
「でも…浮奇、案外普通に受け入れちゃうかもよ」
少しだけ声が震えた自分を情けなく思った。
サニーは少しだけ目を丸くして数回瞬きをすると、悲しそうに微笑んで首を振った。
「それだけはないよ。………俺は、浮奇本人よりも、浮奇がどれだけファルガーのことが好きか、知ってるから」
最後の一文字が、酷く優しく、切なく鳴った。
彼は堪えきれないように笑った、その表情に、僕の心は丸めた紙屑みたいにぐしゃぐしゃになった。
だってそんな、捨て身で、君だけが傷つく案。
それでもこの憎らしい顔は、心からまるで乖離した笑顔を写した。
「……とっても、良い案だと思うよ!」
でも、サニーは?
傷つく君は、誰が癒やしてくれるっていうの?
「ありがとう」
そう言って嬉しそうに微笑む彼には、どうしても言えなかった。
決行の朝、彼は行ってくる、とだけの報告をわざわざしに来てくれた。
職業柄の几帳面さでもあるだろうが、僕をそこまで頼ってくれていることがたまらなく嬉しかった。
「健闘を祈る!」と恭しく敬礼までしておどけてみると、彼は屈託なく笑った。
それだけのことが、もう世界が壊れたっていいくらい嬉しくて、僕はその味を噛み締めながら大きな背を見送った。
一日、変な気分だった。
全てに身が入らず、ずっと上の空だった。
良いことでは決してないのに、ふわふわと夢見心地で、いっそ夢だったらよかったな、と何度も思った。
夜、ようやく帰宅して酒を呷りながら、ちょっとだけ泣いた。
彼のあの腕が、浮奇の小さな体をどうやって抱くのだろうか、なんて考えては頭がおかしくなりそうだった。
「僕が、うきだったら、」
きっと頭のどこかで挟まっていたその言葉が、アルコールの力を借りて滑り落ちるように零れた。
その瞬間に、ぎりぎりのところで保っていた全てが壊れて、もうきっと元には戻れないのだと察した。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、もう全部どうでもいいや、と机に突っ伏した。
僕は、そのまま寝てしまった。
夢を見た。彼が、僕の名前を呼ぶ夢。
どこか舌っ足らずに聴こえるその音色が、僕の鼓膜に甘く響く。
「あぅばーん!」
「サニー!!!」
その広い胸に勢いよく飛び込んだなら、彼はその力強い腕で優しく抱きしめてくれた。
「あるばーん、」
再度名前を呼ばれて、少し上を覗うと。
「好きだよ」
君が笑う。
それは、太陽が咲いたみたいで。
鼻の奥がつんとした。
頭が割れるように鳴っていた。
「僕も、好きだよ、」
ぱぁっと綻んだ顔が、滲んだようにぼやけて見えた。
大丈夫、こんなのは、
夢だととうに知っている。
ガチャ、と、散らかった部屋に突然大きな音が響いた。
アルバーンは覚醒を余儀なくされ、眠い目を擦って時計を確認する。
午前3時。こんな深夜に一体なんだ。
ふらつきながらもなんとか立ち上がって、おおよそ音のした方の玄関へ向かった。
そこにあった大きな影を認識した瞬間、何が起きたのか全て理解したアルバーンは、かつてないスピードで廊下を走って駆け寄った。
「サニー!!!どうしたの!?大丈夫だった?」
サニーはどうやらその手に持った合鍵でなんとかうちのドアを開けて力尽きたようで、ただ佇みながら俯いていた。
その肩は小刻みに震えていて。
友人としての距離を計りながら、そっと抱きしめた。手が震える。やっぱり、それほどまでに怖かった。
時間が経ってやっと距離感をつかめてきた僕がゆっくりと背中を擦れば、耳元ですすり泣きが聴こえ始めた。
あまりの痛々しさに、僕は息をするのがようやっとで。
ずるずるとしゃがみ込んでしまった彼の背中を、ただ優しく、大丈夫が伝わるように擦り続けた。
彼はされるがままだった腕を僕の背に回して、震えるそれでしがみつくようにして抱きしめた。
その挙動の全てから伝わる痛々しさに、やっぱり止めるべきだった、とどうしようもない後悔を抱えだした頃。
「あり、がとう、」
サニーが言った。涙に埋もれたそれだって、僕の耳はちゃんと聴き取れた。
それでも意味がわからずに聞き返す。
「なに、が?」
アルバーンは口にしてから、自分の声に驚いた。酷い涙声だったからだ。
反射的に頬をさわると、そこは温かい水滴で濡れていた。
サニーは小さな、絞り出すような声で言った。
それはまるで、叫んでいるみたいだった。
「……浮奇、わかってくれたよ。やっぱりふーちゃんじゃなきゃだめだって。ごめん、って。ありがとう、って。こっちのセリフなのにな。……………あぅばーん、俺、俺さ。浮奇を好きでいられて、幸せだった」
夢と同じように呼ばれたその名前は、こんなときにでもまだ、きらきらと輝いていた。
サニーがこちらを向く。
視線が示し合わせたように交わった。
「ありがとう、アルバーン」
にこっと笑った彼のその顔は、もう涙と鼻水でぐしゃぐしゃで。
それが、どうしようもなく愛しくて、かわいくて。
「なーんであぅばーんまで泣いてるのぉ〜」
泣き笑いしながら僕の髪を両手でわしゃわしゃと掻き混ぜる彼のその空元気が、胸を引き裂くほど苦しい。
へへ、と笑いながらも、涙は止められなかった。
僕らは、どうしてこんなに不器用なんだろう。
サニーが僕を好きだったなら、僕が浮奇だったなら、こんなに悲しいことにはならなかったのにな。
そんな不毛なことを考えるほどに、心はもうぼろぼろだった。
「さにー、さにー、ごめんね、」
「なんで謝るの〜あるばーんが背中を押してくれて本当によかったよ!どうせ叶わない片想いだったからさ」
立場が逆転して、今度は僕が背中を擦られている。
どうやら堪えていたものが全部溢れ出してしまったようで、壊れたようなその涙は一向に止まらなかった。
「あぅばーん?」
やがて聴こえてくる心配そうな声に、胸が縛られたように苦しくなった。
「さにー、あのさ、僕ね、」
自分の罪にはもう耐えきれなくて、口をついて転がり出たそれが、空気を冷やした。
離れていく腕に、縋ってみたかった。
視界がぼやけていく。
叶わない願いばかりが脳裏をよぎって。
もう元には戻れないのだと。
両手から掬えず溢れた幸せな思い出だけが、確かにそう告げていた。