6年分の初恋の路そのしなやかな背は、羽が生えたように宙を舞った。
「闇ノ、スコア更新だ!!!」
わっ、と歓声が上がる。
無論ちやほやされたくてやっていることではないのだが、それでもこの瞬間がたまらなく好きだった。
何故って一番は。
「シュウ!おめでとう!!!」
僕より一回り、いや二回りも大きい身体で駆けてきた彼の後ろには、ご機嫌に振られる尻尾が見えた。
僕よりも嬉しそうなその姿に、じわじわと体温が上がっていく。
「ルカ!約束のパンケーキ、今日食べに行こうか」
そう言うとまた彼は、僕にしか見えない魔法の尻尾をぶんぶん振った。
彼と初めて出会ったのは、中学1年生のとき。
僕は入学当初帰宅部で、毎日仕事で大変な母に代わって妹の面倒を見るのに忙しかった。
しかし、妹が海外に住む叔母の下で暮らすこととなったため、急に生まれた放課後の時間を持て余していた頃だった。
チャイムが鳴り、教室を出て、定石通り正門へ向かおうとしたところ、ふと、グラウンドに目を引かれた。
それは本当に何気ないものだった。
ただ、夏の日差しに強く照らされた砂が、輝いて見えたとかそんなことで。
そこに、凄いスピードで走る彼の姿を見た。
確か、3組の。
そんな呑気なことを考えながら、食い入るようにじっと見つめた。
彼は、体育の先生が今年はいいのが入ってきた、と初日の授業で大層浮かれていたのでよく記憶に残っていた。
確かに、これだけ速いのなら納得だ。
私情で授業態度を変えるあの先生のことはあまり好きではなかったが、今ならそれすら理解できるほどに彼の走る姿は圧巻であった。
その瞬間だった。
彼はグラウンドを一周して、僕の一番近くを通り過ぎた。
密かに、息を呑んだ。
見学、とも言えず、勝手に見ていただけの僕をその目に確かに映して、彼は、笑った。
それも、艶を含んだ笑い方で。
同い年とは思えないそれに、僕は思わずしゃがみ込んだ。
強豪であるうちの陸上部に数十人いる内の、何人かのマネージャーが心配して駆け寄ってくる。
その心配の言葉さえも、全てが耳をすり抜けていった。
頭から消えないのは、彼のあの笑顔だけだった。
*
シュウは、母に懇願しようと思っていた。
中学1年生にしては頭のよく切れる大人びた少年だったため、もし受け入れてもらえなかったとき用の理詰めまで準備してあった。
だが、その願いを告げた瞬間に、母は心底ほっとしたように笑って頷いたのだ。
「よかったぁ。シュウにあの子のお世話を任せきりにしてたばっかりに、やりたいことを我慢させちゃったんじゃないかって心配してたの」
思いもよらぬ展開に口をぽかんと開けた僕を余所目に、母は上機嫌で「お金は全部出してあげるし、遠征のときとかはちゃんと言ってね。送り迎えするから」と僕を想う条件まで付けてくれた。
どうしてか鼻の奥がつんとして、でも中学生にもなって母親の前で泣くなんて恰好悪いと、必死でこらえた。
ただ、不器用で幼かった僕は「ありがとう」だけを告げた。
それだけで母は全てが伝わったみたいに、心底嬉しそうに笑った。
「1年1組の闇ノシュウです。よろしくお願いします!」
彼が確かにもう近くにいることに緊張しながらも、精一杯声を張り上げて言った。
そんな拙い挨拶にも、暖かい拍手が沸いた。
この空気ならなんとかやっていけそうだと少しほっとしてふと彼に視線を寄越すと、その大きな手は誰よりも力の入った拍手をしていた。
彼の表情は笑っていた。
そのきらきらと輝く眼差しに、子犬みたいだ、と到底同級生の男子に抱くはずのない感想を覚える。
叩くような鼓動が、迎えた人生の新たな一歩を祝福するように鳴った。
一通りの種目に1ヶ月ほど取り組んだ僕は、ささやかな希望を含めて彼と同じ走り高跳びに配属された。
今日からよろしくお願いします!とリーダーである先輩には努めて明るい挨拶をした。
その瞬間、背後で練習に励んでいた彼が、跳んだ。
しっかりと筋肉の付いた身体を自由自在に動かして、ただでさえ新入生には高い棒よりも50cmほど高く跳び上がった。
惚けるように見つめた。なんて美しいんだろう。
「あいつ、凄いだろ。あの年で信じられないよな。今、この部の期待の星なんだ」
優しい先輩は話の途中についそちらを見てしまった僕に対しても、そう笑いかけてくれた。
無言で何度も頷きながら、吸い寄せられたような目はどうしても彼を追ってしまう。
すると、スキップのように軽やかな足取りで戻ってきたのできっとまた定位置につくのだと思いこんでいた彼は、なんとそのままこちらに向かってきた。
心臓が、割れるように鳴っていた。
顔が赤いのは暑いせいだ、と必死で自分に言い聞かせる。
「君、こっちにきたんだ!よろしくな!」
そこには、朗らかで太陽みたいな笑顔があった。
振られた人懐っこい右手に、慌てて控えめな右手を返す。
たたたっと慌ただしい効果音を付けながらも、軽やかに舞い戻っていった後ろ姿を名残惜しく見つめた。
「あいつ、優しくて面倒見が良くて、とにかくいいやつだからさ。あのまままっすぐ育ってほしいんだ」
微かな後悔の滲む音色で、後ろにいた先輩は独り言のように言った。
*
あれから、特に接点もないまま1年が過ぎた。
練習は勿論一緒だが、人気者の彼と話す機会などほとんどないに等しかったのだ。
シュウたちは、中学2年生になった。
「時間だから今並んでるところまでで練習終わって〜」
「はい!」
夕陽もぎりぎりまで落ちて、当たり一面の砂が真っ赤に染まっている。
全員で整列して解散の挨拶をする。
そんな夏のグラウンドが、シュウは嫌いではなかった。
「おつかれさまでした!」
挨拶を終えて更衣室を出る。
「おつかれさま!」
そこには夕焼けの中で、真昼の太陽みたいに笑う君がいた。
「お、つかれさま!」
隠しきれなかった動揺に関しては勘弁してほしい。
何せもう1年ちょっと、彼の背を見つめるだけだったのだ。
「同じ走り幅跳びなのに、君とあんまり話したことないなと思って」
屈託もなく笑う彼に、心臓が勝手に飛び跳ねた。
「そうだね、確かに」
どうしよう。コミュニケーションは苦手な方じゃないのに。
「シュウ、」
今度はわかりやすく心臓が鳴った。
名前を呼ばれたのは初めてだったから。
その聴き慣れたはずの言葉は、新しい色を宿して僕の中に落ちてきた。
「こっちだろ?一緒に帰ろう!」
あまり話したこともない、きっと友人たちとノリも違うであろう僕にだって変わらない温かさで接してくれる彼。
「うん。君さえ良ければ」
夏の湿度を割くように吹いた風は、僕と彼の境界線を簡単に攫った。
あれから時々、僕たちは一緒に帰るようになった。
彼の友人たちは、なんだかんだ言って家が逆方向だったらしく、彼は僕を見かけては「シュウ!一緒に帰ろう!」と練習終わりなのに全力で駆け寄ってくる。
なんだか、叔母さん家にいた子犬みたいだな、と日に日に強く感じているのは、シュウだけの秘密であった。
「シュウはさ、食べ物は何が好きなの?」
僕は決して口べたなわけではないのに、彼の前では途端にいつもうまく話せなくなってしまっていた。
緊張しているのか、はたまた彼が僕のために一生懸命考えて話してくれるのが嬉しいのか、真偽は定かではないがきっと両方だろう。
彼の深い優しさに甘えていた。
そんな僕がきっと悪かったんだ。
「シュウ、俺といるのきらい?」
ある日の帰り道、突然そう言われた。
僕は目を丸くした。
「どうして?」
「だって、俺といるときあんまり喋ってくれないし、だから話すのあんまり好きじゃないのかなとか思ってたら、同じクラスのやつとは普通に喋ってるし」
彼は少しだけ拗ねたような顔をした。
いつも明るくて、周りをも幸せにしてしまう彼のそんな顔はこれまで一度も見たことがなくて、僕はとても驚いた。
「ち、違うんだよ。その、何ていうか……………君は憧れだから」
「あこがれ?」
ぴんときていない様子の彼に、どこまで純粋なんだと思った。自分の存在がどれだけ周りを笑顔にしているかなんて、きっとちっともわかっていないのだろう。
「君は、僕らのエースで………僕は君に憧れて陸上部にきたんだ」
自分の中で芽生える恥じらいを認めながらも、彼の中の曇った気持ちを晴らさなくては、とまっすぐにその目を見つめた。
「え、じゃあシュウは、俺が跳んでるのを見て、それで入部したってこと?」
「………そう。凄くかっこいいなって」
1年抱いた憧れを、本人に吐露することは決して穏やかなことではなくて。
心音は馬鹿みたいに鳴っていたし、手汗だって止まらなかった。
「そんなの、早く言ってほしかったな。嬉しいじゃん」
ばっと顔を見ると、彼は口をきゅっと結んで頬をほんの少し赤く染めていた。
初めて見た照れ顔に、いよいよ心臓は爆発しそうだった。
「ごめんね。だからずっと緊張してて」
「いいよそれなら。でも帰り道ではただの友だちだから、普通に話してよ」
初めて彼から貰ったお願いを大切に抱えながら、「…うん。ありがとう」と、やっとのことでか細い息を吐いた。
秋の虫の音がその空白を繋いで、僕らの色をまた曖昧にした。
*
「わ、おいしそう………」
「練習無いし、今日放課後行く?」
「!?いいの!?」
今日も元気な尻尾を見ながら思わず笑う。
「じゃあ1時間目始まるから席戻って」
そう促すと頷いておとなしく戻っていく彼。
明らかに気合いの入ったその背筋に改めて吹き出した。
中高一貫校であるうちの学校で、僕らは高校生になった。
なんと初めての同じクラスで、掲示板を見たときは流石にガッツポーズをしてしまった。
その後彼のほうが大喜びで飛び付いてきたのできっと問題はない。
僕たちはあれから2年間、ほとんどの帰り道を共にして、すっかり親友と言えるような関係性になっていた。
それも意外なことに、彼と僕は気が合ったのだ。
長い休みなんかは彼が家に漫画を読みに来たりして、一緒にだらだらと過ごす日も多かった。
相変わらず部活はお互いに続けていて、僕は勿論彼ほどまではいかなくとも持ち前の運動神経を生かし、次いで期待を背負わされるほどには成長を遂げていた。
同級生よりも早く体が成長したことも一因であろう。
何より嬉しいのは、それによってより堂々と彼の隣にいられるようになったことだ。
彼より決して上ではなく、されど釣り合わないほどではない。
一緒にいて彼を少しでも貶めることにならないだろうか、と拭えない怯えを抱いていた中学時代の自分を省みると、とてつもない変化で褒めてやりたくなる。
駅前に新しくできたクレープ屋さんの記事、ブックマークしててよかったな、と緩む頬を抑えながら僕は切り替えて授業に臨んだ。
「〜〜〜!!!」
放課後、クレープ屋さんに立ち寄った僕たちは駅前のベンチに腰掛けた。
僕がチョコバナナ、ルカはストロベリーカスタードを注文した。
彼はきらっきらの瞳で、定員さんになんと計3回もお辞儀をしてそれを受け取った。
今日もその愛らしい尻尾が見られて、僕はもうとっくに満足だった。
彼は大事そうに大きな両手で持ったクレープを口に含んだ瞬間、目をきゅっと細め、声にならないまま悶えた。
幸せそうなその表情に、心臓がきゅっと音を立てた。
「おいしい?」
こくこく、と頷く彼。
もう長いこと一緒にいるのに、僕はちっとも飽きることなんてなく、毎日彼から笑顔をもらっている。
たしか陸上部に入って1年くらいしたある日、母からも「シュウ、よく笑うようになったね」と泣き笑いで言われたことがあった。
母がそんなことまで喜んでくれるのが嬉しくて、「実はね…」とルカのことを話したのだ。
その後、彼が初めて家に来たときには母のほうが僕よりも緊張していた。
ルカはその日やっぱり母を虜にしたばかりか、「シュウのことが大好きで、良いお母さんだね」なんてにこにこしながら言ってくれたのだ。嬉しかったのでよく覚えている。
「しゅう、たべる、?」
増量したホイップクリームを口いっぱいに詰め込みながら、そのクレープを差し出してくるルカ。
心がまたあちこちに飛び跳ねた。
「いいの?」
真剣な顔で激しく頷く彼に、よっぽど美味しかったのだな、とまた笑いながらそのクレープを控えめに齧った。
恐らくルカの頭の辞書にはないようなことだけは、考えないようにして。
味わうように咀嚼すると、出来立てで柔らかい生地の香りが鼻から抜けて、ホイップクリームが甘く解けた。
「ん………本当においしいねこれ」
予想以上で驚いてそう零すと、ルカは仲間ができて嬉しいのか、満面の笑みになった。
どうしたらこんな人が生まれるのだろうと不思議に思うほどに、彼の表情変化はいつも魅力的だった。
「僕のも、好きなだけ食べていいよ」
そう言ってまだ口を付けていなかったチョコバナナのクレープを差し出すと、彼は一度視線で伺ってからそっと、その大きな口でぱくり、と齧った。
「ごめん、おもったよりたべちゃった」
また口いっぱいに詰め込んだまま話す彼に、声を出して笑った。
「良いんだよ。何ならもっと食べて。ルカに喜んでほしくてきたんだから」
そうだったの、と驚いた顔をした彼は笑った。
「シュウは優しいね」
最近、一層彼から注がれることの多くなったその言葉に、人知れず胸がつきんと痛んだ。
「…そんなことないよ」
彼はにこにこと純真な笑顔でクレープを食べ進めている。
僕は手元に残ったその歯型から目を逸らしながら、またそれを控えめに齧った。
僕は、優しいだろうか。
もしかしたらそうなのかもしれない。
でも、彼に対してだけはきっと、それだけではなくて。
気付きたくないものが、殻を破って芽生えようとしていた高校1年生の春、シュウは泥沼のように苦しい道の岐路に立たされていた。
*
「彼女が、できたんだ」
照れて顔を赤くしながらも、彼はいつもと変わらない明るい調子でそう言った。
時刻は午前7時50分。
朝練を終えた後で、教室にはまだ人が少ない時間だった。
僕は初めて、彼の言う言葉がうまく認識できなかった。
「えっと、昨日、告白されてさ」
ああ、先に帰ってて、ってやけに焦りながら言ってたのはそういうことだったのか、といやに理性的な頭が勝手に整理を始める。
「何組の子?」
「4組の、委員長やってる子」
ああ、あのポニーテールで快活な子。
「シュウの委員会待ってるときに、声掛けられたんだ」
最悪だ。やっぱり委員長なんて引き受けるんじゃなかった。
ただでさえ推薦で選ばれ、ルカと一緒にいられる時間が減ってしまう、と断ろうとしたところを、じゃあその日は俺委員会終わるの待ってるねという本人からの一言に浮かれて、つい頷いてしまっただけだったのに。
「…いい子そうだった?」
視線は合わせられないまま、ぎこちなくも何とか微笑みを浮かべて尋ねる。
「うん。シュウのこと褒めてたから」
どんな判断基準だ。取り入るために親友を褒めたりなんて、いくらでもできるだろう。
それでも、僕がその引き合いにいるのが嬉しくて泣きたくなった。
「…ルカ。大事にするんだよ」
何を、と聞かれると答えられない。
ただきっとルカには、彼女を、という意味で届くだろうなと思った。
「うん。ありがとう」
思った通りの和やかな返答が聴こえた。
やっとの思いで今日初めて見た彼の笑顔は、昨日までとは少しだけ、色が変わっていた。
毎日毎日食い入るように見つめている僕にしかわからないくらい、僅かに。
震える歯を食いしばって、なんとかお手洗いに行く旨を伝えた。
彼は変わらない笑顔で手を振り「いってらっしゃい」と行った。
早足で駆け込んだ個室で、僕は吐いた。
特に質量もない、水のような液体が口から溢れ落ちる。
どうしてこうなったのだろう。
僕は、どこで間違えたのだろう。
普通、だったら。本当に、"親友"だったなら。
きっと心から喜ぶはずだ。
羨ましいな、なんて戯れ合いながら。
波が来て、何度も何度も吐いた。
そうやって僕がやっと教室に戻ったのは、チャイムの鳴る数分前だった。
斜め前の彼の大きな背中を見つめながら、机に伏せた。
意識が朦朧とする。
日直から起立の号令が掛かっても、僕はもう立ち上がることができなかった。
何やら周りが五月蠅くて、意識的にそっと目を閉じた。
曖昧な感覚の中で、全てが僕の関係のないところで回る物語のようだった。
ただ、誰かに優しく抱き抱えられた感覚だけを、はっきりと覚えている。
その日、僕は母に迷惑をかけて、学校を早退した。
母はいつもよりも、更に優しかった。
寝かされた自室のベッドの上で、誰かに抱き抱えられた感覚を反芻した。
あれが、ルカだったらいいな、なんて。
もう絶対にいけないことを考えて僕は眠りについた。
*
「シュウ!!!大丈夫だった?」
数日後、教室に入った瞬間に心から心配そうな顔で駆け寄ってきたルカに向かって、僕は微笑んだ。
「大丈夫だよ。心配かけてごめんね」
心臓のきりきりした痛みには気づかないふり。
休んだ数日に予行練習を何度もして、やっとこの作り笑いができるようになった。
「よかった。無理しないでね。シュウは優しいから」
貫くように刺さった一言だって、もう見ないふりができる。
心がボロボロでも、それは覆ってしまえば見えないのだと、僕は学んだ。
彼がどうしようもなく好きだった。
幸せでいてほしかった。
そしてあわよくば、友達でいいからずっと一緒にいたかった。
そのために要らない感情を、面倒な心を、封じ込めることにした。
痛みだって全部、必要なこと。
それなのに、見つめた彼の背中は1日中、
どうしてか前より輝いて見えた。
「ルカくーーーん!!!」
昼休みが終わる10分前、5時間目に合わせて音楽室まで移動をしている最中、走って駆け寄ってきたのはあのポニーテールの彼女だった。
正直、彼女が本当に悪い子だったなら、ルカを守るという最優先事項を持ってしてふたりを引き離すことはできたと思う。
でも彼女は、特に悪いところのない、むしろ素直で純粋に素敵な子であったのだ。
「おはよう!」
廊下を走ってきてタックルのようにルカに抱き着いた彼女は朗らかに挨拶をしたあと、その目に僕の姿を認めてばっと体を離した。
「シュウくん!ごめんふたりでいるときに」
「ううん、」
今、僕の顔は引き攣ってはいないだろうか。
「あ、そう今日の委員会第1じゃなくて第2理科室になったって!そのご報告に参ったことにします」
おどけて敬礼をする彼女は、僕の目にも変わらずやっぱり愛らしかった。
ルカはそんな僕らを見てにこにこ微笑んでいる。
「了解。ありがとう。あと僕のことは気にしないで。ルカ、先行ってるね」
ひらひらと彼らを背に手を振って早足で立ち去った。
これが今の僕にできる精一杯の振る舞いだった。
後ろは振り向かない。傷付くことに自分から飛び込み必要なんてないから。
ただ、彼の隣に、親友として置いてもらえる。
それだけで、幸せだから。
言い聞かせるような日々に違和感だけは覚えないように、ただ必死で生きていた。
*
気付けば高校生活もほとんど中盤に差し掛かり、ルカは彼女と1年以上の付き合いになっていた。
一途で優しい彼だから、もしかすると将来は彼女と結婚するのだろうか。
先生に頼まれたプリントを運んでいるときに、ふと、そんなことを考えた。
彼は面倒見が良いから、子どもも何人か迎えて、きっと温かい家庭を築くだろう。
想像するとくらっときて、何とか壁だけ伝って怪我なくその場に倒れ込んだ。
「大丈夫?」
頭上で優しい声が聴こえた。
それは夏のアイスクリームみたいに爽やかな音色。
「はは、すみません。ちょっと力が抜けてしまって」
ぼやけた視界の中そう言うと、乗って、と言う声がした。
目の前には、彼よりもずっと小さな背中があった。
そんなふうにされると、急にそれに頼りたくなって、弱い僕はお言葉に甘えた。
「申し出たはいいものの非力だからおんぶなんて無理かと思ったけど、君軽いから全然平気だ」
そう言って笑った彼は、爽やかなのに弦楽器のような深みのある声をしていた。
素敵だ、なんて久方振りに他人の声にそう感じながら、僕はつい意識を手放した。
次に目覚めたときには保健室に寝ていて、枕元には1枚のメモ書きがあった。
『3年2組 アイク・イーヴランド』
アイク先輩。素敵な声だったな。
彼といたあの一瞬だけは、ルカを忘れられた気がした。
電話番号まで綴られたそのメモを大切に仕舞い、保健室の先生にお礼を言って外に出た。
縋ってみても、いいのかも。
そんな淡い期待を胸に、生まれて初めて学校の廊下を走った。
*
「こんにちは!」
部活が休みだった夏休みのとある1日に、僕はアイク先輩の所属する軽音楽部を訪ねた。
「シュウ」
彼と似ているようで全く違う種類の、明るい声がそう呼んだ。
あれ以来、メッセージツールを使って連絡を取り合った僕らはかなり親しい仲になっていた。
日々お互いに部活で忙しく、面と向かって話したのはあの日の一度きりであったが、好きな音楽や漫画や挙句の果てにはミームまで共有し、毎日共に楽しい時間を過ごしていた。
そんなタイミングで学校は夏休みに入り、「部活がない日に遊びにおいで。僕は大抵入り浸ってるから」と、先輩は笑っている絵文字を添えたメッセージをくれていた。
「そう言えば、面と向かって話すのって初めてだね!なんというか、良い意味で全然そんな感じはしないけど」
ふふ、と笑った先輩に、ほんの少しだけ緊張していた心が完全に解れた。
「あ、狭いしぐちゃぐちゃだけど、良ければ入って」
手招きをされる。
遠慮なく、それでも敷かれていた毛布のようなものの上を恐る恐る歩いた。
「アイク先輩は、何の楽器をされてるんでしたっけ?」
彼の元へ歩み寄りながら尋ねる。
「基本はエレキベースなんだけど、ドラムも好きでよく勝手に叩いてるよ」
そう言ってギターを抱えた彼は、そのまま座って少し弾いて見せてくれた。
素人目ではあるが、かなりの腕前のようでとても驚く。
そしてなにより、演奏をしているときに伏せられた瞳がとてもセクシーで格好良かった。
思わず拍手喝采をひとりでしてみせると、彼はその表情をすっかり崩して照れたように笑った。
確か、アイク先輩は学内にファンクラブがあったと記憶していたが、このギャップを見れば人気の理由は一目瞭然であった。
「下手だけど、ドラムも叩こうか?」
照れた表情の先輩は、それでも瞳に強い光を灯していて。
「ぜひ、お願いします」
茹だるような夏に浮かされた日だった。
「僕以外みんなお遊びだと思ってやってるみたいだから、」と先輩が寂しそうに言っていたように、部室には僕らがたったふたりきりで。
無理に話すこともなく、ただ、彼の音楽に対する熱量を感じる時間。それは余りにも心地が良くて。
「また、聴きに来てもいいですか」
気付けばその願いは口から溢れていた。
「もちろん」
そう優しく微笑んだその表情だけは、彼に酷く似ていた。
*
「シュウ、今日の帰り、あのお店の期間限定ドーナツ食べに行かない?」
授業の合間の休憩時間に、僕の席までやってきた彼はそう言った。
相変わらずの尻尾がご機嫌に振られている。
いつもなら断る理由など、ひとつもないお誘いであった。
「えっと、あの、ごめん僕今日は先輩と約束してて………」
「………また?」
ルカは拗ねたような、むくれたような表情になった。
そんなふうに言われても、最初に僕らの関係を乱したのはルカのほうじゃないか、と心のなかで文句を言う。
最近はめっきり、ふたりで帰ることも減ってしまった。
「授業始めるぞ〜席つけー」
ばらばらと動き出すクラスメイトと一緒に、それ以上の会話もなく彼は席に戻ってしまった。
別に悪いことをしているわけでもないのに、張り付いたような罪悪感が拭えない。
彼の少しだけ寂しそうな顔が、脳裏に焼き付いていた。
こうして段々と、一緒にいることすら叶わなくなっていくのだろうか。
でも、本当はきっとそれが一番正しい道なのだろう。
いつかはお互い結婚して、あの頃はこんなことあったな、なんて思い出話になるくらいが丁度いいのだ。
わかっているのに、自分のそんな未来だけは想像ができなくて。
心臓が締め付けるように痛い。
また倒れそうになりながらも、もうこれ以上の迷惑はかけられない、と机に体重を掛けて何とか逃がす。
どうにもならない恋だけが、もう取り上げることもできないほど心の深くまで沈んでいた。
「先輩!おつかれさまです」
「シュウ〜呼び付けちゃってごめんね〜」
放課後、"約束"を果たしに軽音楽部の部室へやってきた僕は、声を掛けた傍から両手を合わせて謝られた。
普段からこちらが無理言って練習を見させてもらっている身なのに、つくづく謙虚な人だなと思う。
「気にしないで僕にできることならなんでも言ってください」
彼はありがとう、と笑ってそのまま、珍しくアコースティックギターを手に取った。
「先輩、アコギも弾かれるんですね」
「あ、言ってなかった?そう、あんまり得意じゃないけど」
そう言って曖昧に微笑む。
経験則上、先輩の得意じゃない、ほど当てにならないものはない。
「あの、ね」
少しだけ緊張したような眼差しと視線が絡まった。
そんな顔は初めてで、緊張が思わず伝播する。
今日の約束は、大事なお願いがあるんだけど、という先輩のメッセージから取り付けられたものであり、実は最初からシュウも緊張していたのだ。
先輩は小さな口でひとつ息を吸い、言った。
「すごく、素敵な曲を見つけて。シュウが、好きなんじゃないかな、って」
先輩は目を伏せながら、僅かに頬を赤く染めた。
約束、って僕のことだったのか。
驚き半分、照れ半分でも、そんなふうに自分を考えてくれていたことが、とても嬉しくて。
「それで、苦手なアコギ引っ張ってきて練習したんだけど………もし良ければ聴いてくれるかな?」
こくこくと一生懸命頷いた。
先輩は嬉しそうに笑って、その手でマイクと椅子を運んできてくれた。
「歌うんですか!?」
「あ、だめ?」
そんなはずはなくて、また一生懸命首を振る。
「いえ、凄く楽しみです。先輩の声好きなので」
「それは知らなかったな」
屈託なく笑った先輩は、ふいに髪を自らの手でくしゃくしゃと掻き交ぜた。
いつも整っている、柔らかそうな彼の髪が無造作に絡まって。
惚けるほどに格好良かった。
何よりその瞳が、音楽に向かってまっすぐに愛を叫んでいた。
それでもその指が最初に奏でた音色は思いの外優しくて、僕はすぐにバラードだと気が付いた。
先輩が教えてくれる曲はロックや激しい曲が多かったため、僅かに驚いて、そして先程の照れ具合に納得した。
前奏が終わって、彼が息を吸った。
マイクが微かに拾ったそれは、空間を揺らした。
優しくて、溶けるみたいな声。
その中に、はっきりと見える強い芯。
それは、ラブソングだった。叶わない恋を歌う歌。
正直に言ってしまえば、ありふれた、どこにでもあるような片想いの曲。
それでも、大好きな先輩の声がとんでもない熱量を持って歌うと、否が応でも心に突き刺さるものがあって。
ああ、気付かれなきゃいいな。
例え気付いたって最後まで歌いきってほしい。
そう思いながら、僕は静かに泣いていた。
どうしようもなく、ルカのことが好きだった。
先輩はきっと気が付いていた。
それでも、願った通りに最後まで走りきってくれた。
ステージが終わると僕は、最高の特等席から立ち上がって拍手をした。
先輩はくしゃっと笑って、毛布の山から飛び降りて抱き着いてきた。
「シュウ〜泣かないで〜」
先輩とは身長も体格も対して変わらないのに、大人な彼のその胸はとても広くて温かくて。
もみくちゃにするように抱き締められ、頭を撫でられた。
そんなことをされると、余計に涙が止まらなくなる。
「シュウ、悩みがあるんでしょ?僕で良かったら何でも聴くよ。今までひとりで苦しかったね」
母みたいに優しい言葉を掛けられて、とうとうそのストッパーは音を立てて壊れてしまった。
吐き出すように言葉が、口から溢れた。
「僕、好きな人がいるんです」
先輩はいつもと変わらない、穏やかな相槌をくれる。
それはとても居心地が良くて。
「でも、男同士で、それに彼には彼女がいるんです」
もう頭は割れるように痛くて、涙なんて今すぐ止めてしまいたかった。
「ずっと、中学1年生の頃から、好きで、大好きで」
肺が、息もできないほど圧迫されていた。
「もう、どうしたらいいのか、わからなくて、」
「シュウ」
それは、人生で聴いたことがないくらい優しい響きで。
瞬間、唇が触れ合った。
アイク先輩は甘く微笑んだ。
僕はその瞳の奥に、小さな寂しさの青を見つけた。
「僕にしなよ」
その言葉を聴いた瞬間、うるさいくらいに鳴っていた恋の音がぴたりと止んだ。
先程までとはまるで違う腕に、何か柔らかいものを触るみたいに抱き締められる。
「せん、ぱい」
「なぁに?」
ぐす、と鼻を鳴らすと、先輩はそれすら愛しそうに笑った。
「抱いてください」
その肩に顔を埋めて、人生で初めて、こんなお願いをした。
「いいよ」
どこまでも優しい返事が、夕方の仄暗い防音室に溶けて消えた。
*
「シュウ」
「っ、ぅはい、」
「かわいい」
「〜〜~!」
「ははっ」
「あいく、せんぱい、」
「なに?」
「きす、して」
「………いいの?」
「ん、……ぁ」
「シュウ」
「ぁ、なに、?」
「好きだよ」
「………僕も、好き」
「はは、嬉しいな」
「ぅ、ぁ…っ」
「かわいい」
「かわいく、ない、です」
「シュウはかわいいよ」
「は……んぅ」
「幸せにするからね」
「あり、がとう、」
「はは、また泣いてる」
「ぅ…」
「いいよ、僕が全部、受け止めてあげる」
「ん、…ぁ、」
「だから今夜は、僕の腕の中でたくさん泣いて」
*
「じゃあまたね、ルカ」
3年生になった僕は、なんでもない日、きっと今日も彼女と帰るであろう彼に簡単な別れの挨拶をした。
「……………シュウ!!!」
突然手首を掴まれた。ゆっくり顔を上げると、そこには彼の焦ったような顔があった。
まるで誰かを捕まえようとしてるみたいな、そんな顔。
「最近、俺のこと、避けてない?」
真剣な眼差し。ここ最近の彼は、僕の知らない顔をすることが多かった。
自分の見ていないところで、彼にこんな顔をさせた誰かがいる。
その事実に耐えきれなくなって、彼を避けることが必然的に多くなった。
「そんな、こと」
「じゃあ何で目、合わせてくれないの」
怒ったような声。彼が僕にそんな声を向けたことなんて一度もなかったのに。
僕が、汚いからだろうか。
まだルカのことが好きなのに、先輩と付き合っているからだろうか。
行為で無理やりにでも塗り替えてもらおうとしたからだろうか。
そんなのはルカが知っているはずもないことなのに、妄想はどんどん悪い方向に転がっていく。
彼のその清らかな手が、僕の汚い左手を掴んでいることすら、もう許せそうになかった。
「それは、別に」
「なんでだよ。俺、シュウになにかした?」
恐る恐る顔を見た。
彼は声に含んだ怒気とは裏腹に、置いていかれた迷子みたいな顔をしていた。
視界が霞んだ。泣いちゃだめだ。その理性だけがぎりぎりの表面張力を成り立たせた。
「何も、してないけど、…ルカだって彼女さんとの時間も大事だろ。あんまりくっついてばかりも良くないかなって」
「別れたよ」
「え……………?」
「シュウが俺のこと避け出したくらいに、別れた」
「どうして…?あんなにルカのこと好きそうだったのに」
「一緒にいても、シュウのことばっかりだって言われて、振られた」
「そんなこと、」
知らなかった。
僕のことを、彼女の前でも話していたのだろうか。
こんなときにでもきゅぅ、と鳴る心臓を恨めしく思った。
「俺、あの頃みたいにただ喋りながら、シュウとクレープ買って帰ったり、一緒に遊んだりしたいよ」
まっすぐな目から紡がれた懇願。出会った頃から変わらない瞳。
「それは、できないよ」
「なんで?どうして?」
はっ、と、浅くて短い息を吸った。
「僕が、君のこと、好きだから」
世界の終わりみたいに、雨音が鳴っていた。
屋根のある渡り廊下にふたりだけ。
話題さえこんなことじゃなければ、ロマンティックだったな、なんて、他人事みたいに考えた。
「だったら、いいじゃん」
ルカの頭にはまだクエスチョンマークが浮かんでいる。
どこまでもピュアな彼は、きっと彼女にも自分から手を出したことはなかったのだろう。
そんな下世話なことを考えながら、自分の顔に大嫌いなわざとらしい笑みを貼り付けた。
「違うよ。僕の好き、は」
背伸びをした。
僕の影と彼の影が重なって、水溜りに落ちた。
「こういうこと」
ルカは、文字通り固まっていた。
それがどういう表情なのかなんて、もうわかりたくもなかった。
「じゃあ、ね」
逃げるように彼を置いて立ち去った。
きっと、ファーストキス、だっただろう。
どろどろな胸の内で、その事実にほんの少しだけときめいて、そんな自分を最低だと思った。
これでもう文字通り、僕と彼の関係は終わったのだ。
苦しくて、痛くて、怖くて、それでも何処か心は軽かった。
歪な感情の頭のまま、思い出の詰まった帰路をなにひとつ見ないように、僕は全力で走った。
肺が、心が、裂けるように痛い。
玄関まで辿り着くと、安心して全身の力が抜けてしまった。
くしゃ、と潰れたようにしゃがみ込んで、そのまま僕は大声で泣いた。
住宅街から離れた一軒家で本当に良かったと思う。
泣き止んだ頃にはもう持っている鍵で中に入る気も無くなって、座り込んだまま、ただ時が過ぎるのを待っていた。
僕は気付けば寝てしまっていて、びしょびしょで玄関前に座り込んでいた息子を仕事から帰った母は酷く心配した。
「鍵を、忘れたんだ」と辛うじて言い訳をした。
優しい母はそれ以上何も言及しなかった。
体冷えるよ、と取り敢えず風呂場に押し込まれた僕は、気付けばきちんとパジャマに着替えて階段を上っていた。
自室に戻ってベッドに寝転がったとき、ふと、抱きかかえてくれたあの腕を思い出した。
あれが結局誰だったのか。
聞けばいいのに、どうしても彼だと思っていたくて、今日の今日まで聞けなかった。
女々しい片想いだったな、なんて。
笑い飛ばしてもまた涙が零れた。
これからも毎日、羽の生えた背中を見るだろう。
いつかこの気持ちを忘れて、純粋に彼を好きでいることができればいいな、と。
小さな願いを込めて、僕は溺れるような夢に落ちた。
*
次の日、馬鹿な僕は案の定風邪を引いた。
母は心配しながらも優しく、ゆっくり休みなさい、と言ってくれた。
そして大学生になったアイク先輩が、今日たまたま休みだったから、と嘘か本当か怪しいことを言いながら看病に来てくれた。
「先輩」
「なに?」
濡れたタオルを額に乗せられる。
気持ちが良くてふふ、と笑った。
「僕、ルカにキスしました。ごめんなさい」
熱に浮かされたようなふわふわした口調のまま言うと、先輩は目を丸くした後に、変な顔をした。
「そっ、かぁ」
「なんですかその顔」
色々な感情が交互に浮かび上がっていて、僕はそれにくすくす笑った。
「いや、頑張ったなぁとか、吹っ切れたならいいのかなぁとか、やっぱり悔しいなぁとか色々」
そのどれもが優しさと愛に満ちていて、僕はまた笑った。
「僕は正直に言ったので、先輩も正直になってください」
「どの立場で言ってるの…」
先輩はむぅ、と頬を膨らませる。
居心地の良い沈黙の後、囁くような声が言った。
「じゃあ、上書きのキス、していい?」
濡れたような瞳に、じっと見つめられた。
「…移りますよ」
「うん、いい?」
ほとんど有無を言わさないそれに半分頷いた頃には、唇はもうとっくに触れ合っていた。
目を瞑ってそれを受け入れる。
何度も優しく降るそれは、昨日の叩くような雨とは違った春の小雨みたいで。
「先輩、」
「ん?」
「抱いてください」
「んふ、シュウって結構そういうとこ漢らしいよね」
余裕そうな先輩を無理やりベッドまで引き摺り込んだ。
「あんまりお邪魔してるお家、汚したくないんだけどな」
「夕方まで誰も帰ってこないです」
「体、きつくないの?とりあえず熱だけ測ろう」
絆されずにちゃんと慮ってくれる彼に、初めて付き合ったのがこの人で本当によかったとまた改めて思った。
「お、平熱だ」
ピピッ、という体温計の音が合図みたいになって、ふたりしてもう一度ベッドに倒れ込んだ。
「へへ、久しぶりですね」
「………本当、君よく今まで食われなかったよね」
「先輩に食われちゃいましたけど」
「まだ一応僕もやもやしてるのにな。ご機嫌なその口塞いであげる」
外はまた、いつから降っていたのか生憎の雨であった。
洗濯物干したままじゃなかったかな、なんて関係のないことをどこか冷静な頭が考えていた。
僕はそのまま押し倒されて、柔らかいシーツと恋情に沈んだ。
*
気付けば3月。
僕らは、あっという間に卒業を迎えた。
6年間という重みは沢山の思い出を抱えていて、解散となった頃には誰もが潤んだ目をしていた。
クラスメイトたちと軽く言葉を交わしながらも、僕にはひとつ、けじめをつけなくてはいけないことがあった。
「先輩!」
「シュウ、卒業おめでとう」
先輩はおしゃれなコートを羽織り、手には控えめな色合いの可愛らしい花束を抱えていて、校内がざわめくくらいには格好良かった。
「…ありがとうございます!」
この優しい人が、ずっと眩しくて仕方無かった。
僕は決意を固めて、大きく息を吸った。
「先輩、少し、話したいことがあります」
「……………うん。」
先輩は優しさが溶けたような顔で、その一瞬も笑っていた。
泣きたくなるような青色の瞳が、小さく光った。
*
風がそよいだ。桜が踊るように散る。
名残惜しくて、学校内に響く雑音を聴いていた僕の背中に、高らかな声がひとつ。
「シュウ!」
語尾に明らかなビックリマークの付いたその呼び方をするのは、彼しかいなくて。
「なに、?」
くるっと振り向いた。
卒業式後のごった返すような人混みの中、道を指し示すように手を引かれた。
彼はすいすいと、向かってくるような波をくぐり抜けていく。
「ルカ、大学、推薦で決まったんでしょ!おめでとう!!!」
独特の高揚感と、この映画のワンシーンのように非日常な状況に、もう全部どうでも良くなって、僕はおよそ3ヶ月言えなかったことを声を張り上げて叫んだ。
「シュウも!!!めちゃくちゃ賢いとこ受かったじゃん!部活も頑張ってたのに尊敬する!!!」
思ってもみない言葉が返ってきて、心音は懲りもせず躍るように高鳴った。
僕は今、見たことがないくらい優しく笑っているだろう。
「ルカ!!!」
「なにー!!!」
「僕、アイク先輩と付き合ってた!!!」
「知ってる!!!」
目を丸くした。どうして。いつから。
それが伝わったように、彼が答える。
「一回だけホテルから出てくるの見た!!!あと俺が避けられだしたのもその辺だった!!!」
思いもよらないところでバレていて、もうおかしくなって笑った。
「さっきさぁ!!!」
「うん!!!」
「別れてきたんだ!!!」
「なんで!!?あんなに先輩シュウのこと好きそうだったのに!!!」
それは彼が彼女と別れたときに僕が言った言葉と全く同じで、また声を上げて笑った。
「うん!!!でも僕、ルカが好きなんだ!!!6年間も!!!」
やっと人のいない中庭に辿り着いた。
手がぱっと離れた。
ルカとの距離は3mほど。
すごく近くて、怖いくらいに遠かった。
「6年間ってさ、結構、凄くない???」
おどけて自慢するように言いながら、両目からは涙が零れた。
もう卒業だし、と理由をつけたそれは不快な涙でさえなかったから、堪えることをやめた。
僕はまた、大声で叫んだ。
「ルカ!!!最高の初恋をありがとう!ずっとこれが言いたかった!!!」
涙でとうとう前が見えなくなって、それを両手の袖で拭った。
その隙に、彼は50cmほどの距離まで近付いてきた。
「ルカのお陰で陸上も続けられたし、何でもない学校生活が、楽しかったんだ、そう、ずっと、ずっとこれた言いたかった、」
泣きじゃくりながらやっとのことでそう言えば、そっと、包み込むように抱きしめられた。
彼の制服からは、日溜りみたいな匂いがした。
その瞬間に僕は、これがあの日抱き抱えてくれた腕だと確信した。
色んな思い出が頭を掠めて。
僕らの頭上を、桜吹雪が舞っていた。
「シュウ」
温かい音色。どんなときも変わらない。
この人が呼ぶ僕の名前が、世界で一番好きだった。
「ルカ」
もう全部捨てたのだから、最後なのだからと、頑張って彼の顔と向き合った。
そこにあったのは、また初めて見る表情。
でも、今までように知らない誰かに嫉妬するような、僕を嫌な気持ちにさせるものではなくて。
つい、困った顔で笑った。
「ルカ、そんな顔しないで。僕、勘違いしちゃうよ、」
それは深い愛しさと、切なさと、寂しさの浮いた表情。
6年間毎日、鏡に写っていた僕と同じ顔だった。
「シュウ」
「なぁに?」
「好きだよ」
「………はは」
もうよくわからなくて、それでも心臓は中学1年生のあの日みたいに純粋にときめいて。
「遅い、遅いよルカ」
「うん、ごめん、シュウ」
今まで、太陽みたいな笑った顔しか見たことのなかった彼が、その顔のまま泣いていた。
そんな不器用な泣き顔は、また僕の心を簡単に攫った。
「ファーストキス、奪ってごめんね」
「本当だよ。挙句の果てには逃げられて」
揃って、馬鹿みたいに笑って、泣いた。
それはあの日の帰り道に繋がるような、大切な時間だった。
「クレープ、食べて帰る?」
「まだ俺のこと子どもだと思ってる?」
「うん」
「失礼だな」
「はは、だってルカはかわいいから」
「シュウのほうがかわいいよ」
ときん、と胸が高鳴った。
彼からは初めて言われたその単語は、僕の鼓膜に世界で一番美しく響いた。
「顔、真っ赤」
「うるさい。僕のほうが片想い歴は先輩なんだから黙ってて」
「意外とそんなこともないんだよ。俺も多分同じくらい」
「え、」
「馬鹿だから、気付けなかっただけだよ」
また目を見合わせて笑った。
風がまた一段と春の暖かさを乗せて、僕らの間を通り抜ける。
「一緒に帰るの、久しぶりだね」
「そう、だね」
ルカが少しだけ緊張した素振りを見せたので立ち止まる。
「なに?言ってごらん?」
優しく言いながら、僅かに俯いた顔を覗き込む。
「手、繋ぎたいな、って………」
その勢いは尻すぼみになって、彼は陸上部にしては白い肌を耳まで真っ赤に染めていた。
「いいよ。恋人繋ぎ?」
「う………先輩としてないほうは?」
「………ルカも、嫉妬するの?」
「するよ。なんだと思ってるの」
嬉しくて、噛み締めるように声を上げて笑った。
「先輩とは手、繋いだことないかも」
「そっか」
そう言うと、さっきまでの初心な様子が嘘みたいにするりと右手が掬われた。
その仕草に確信する。
「ルカは、彼女と手、繋いだことあるんだ」
「まぁ、ね」
今度はルカのほうが得意気ににやにやと見つめてくる。
「…誰かを抱いたことは?ない?」
ずっと聞けなかったことを視線をそらして聞いてみると、彼はまた慌ててから数秒、静かに頷いた。
「シュウまで笑わないでよ…今まで散々馬鹿にされてたのに」
「僕のは、嬉しいなって笑いだよ」
ルカは一瞬目を見開いた後、ふふん、と鼻を鳴らしてこちらに頭を寄せてきた。
耳元にひとつ、柔らかいキスが降った。
「でもちゃんと抱くから。覚悟してて」
その言葉に、僕は全身が熱くなるのを感じた。
彼はその反応まで見てから、得意気に笑っている。
6年間、ずっと歩幅を合わせて歩いてくれた、僕の初恋の人は格好良い。
それでもまだ、ご機嫌になったその後ろには尻尾が生えていて。
変わらないものも、変わっていくものも、この人の隣ならきっと。
全部を愛していけるのだと、堪らなく嬉しくて笑った。
6年分の想いが、僕らの帰り道を桜色に染めた。