愛憎相半ばする本能「幻太郎〜チチチーッス!おわっ!」
呑気なかけ声とともに家に入ってきた男を引きずるようにして居間へと連れて行く。ただし、ゆっくり、響かないように。繋いだ手の向こう側から「ちょ、ちょっと〜!いきなり何なの〜?」と非難する声が聞こえるが無視だ、無視。
畳を踏み込むとふたり分の重みでぎしりと音が立てられた。逃げないように両手を握り向かい合えば、どこか居心地が悪そうに目を泳がせる彼を精一杯睨みつける。
「小生に何か言うことありませんか?」
「ん〜。幻太郎、愛してるよ♡」
思わず緩みそうになる頬を引き締める。こいつのペースに巻き込まれては駄目だ。
はあ、とため息を吐き出し、彼のシャツのボタンに手をかけた。
「いやん!幻太郎ってば大胆♡」と言いつつ、やんわりと俺の手を抑えようとしているのなんてお見通しなんだからな。
「手、どけてください」
「何〜?エッチしたいん?」
「良いから!」
少し低めの声で凄めば観念したのか手が解放されたため、再びボタンを一つずつ外していく。たまに触れる肌の熱いこと。その事実に目の前の黒シャツがゆらりと揺れる。溢れ出た雫は無遠慮に畳を濡らした。
「……幻太郎、泣かないでよ」
「泣いてないです。これは目の汗です」
「……嘘つき」
前部が露わになると、脇腹に貼ってある真っ白なガーゼに触れる。血は滲んでないがぴくりと動く様子を見ると、痛みがあるのだろう。
「……知ってたの?」
「貴方の〝主治医〟から連絡がありましてね『一二三くんは内緒にしたがるだろうから』って」
「うわ〜。センセにやられちったなぁ〜」
「笑い事じゃないですよ」
再び睨めつけると罰の悪そうな表情で「ごめん」と呟かれる。本当は今すぐ休ませてやるべきだとは分かっている。だが、文句の一つでも言ってやらなきゃ気が済まないのだ。彼の身勝手さにも自身の身勝手さにも苛立ちが募り、どろどろと黒い感情に飲み込まれる。果たしてこれが本当に愛情ゆえのものなのかどうかも区別できない。もしかするとこれほどに強い気持ちなのだから憎悪の可能性だってあるのだ。
「それで?刺されたんですか?」
「あーそれも知ってんだね。いや、かすっただけ」
「貴方の客なんですか?」
「いや、他のキャストの元カノらしいよ〜」
「それならば何故、貴方が怪我するんですか」
「めっちゃ聞いてくんね!?」
「……貴方が話してくれないからでしょう」
一二三は処なさげに頭を掻くとぽつりぽつりと事の詳細について話し出した。曰く、ひどい振られた方をした女がキャストをナイフで襲おうとしたため、間に入った一二三が怪我をした、ということらしい。
「俺っち以外に怪我した人いなかったしさ、不幸中の幸いじゃん?」
「……こうやって早退してきてるんですから貴方がいなくて嘆いてる子猫ちゃんはたくさんいると思うんですが」
「ん〜まあそれは他の奴らがちゃんとフォローしてくれるしさ、俺っちいなくても何とかなるって〜!てか、いつまでそんな怖い顔してんの〜?」
頬を突いてくる指を叩き落とし、再び深いため息を吐く。こいつは何も分かっていない。自分の存在価値も、周りからどれだけ慕われているかも。貴方の代わりなんてどこにもいないのに。
「……貴方が怪我をすることで恋人が傷付いているのは良いんですか?」
「あーそれはうん。ごめん」
「小生だけじゃないですよ。神宮寺氏だって観音坂殿だって心配しますよ」
「分かってる……」
「分かってないですよ……」
もう限界だ、とばかりに涙が次から次へと溢れ出た。誤魔化すことすら無駄な量の涙になすすべもなく、ただひたすらに泣きじゃくった。
一二三がいなくなったらどうやって生きていけば良いのか。この男の暖かさに触れたら最後。こちらはぬかるみから抜け出せない状態でいるというのに。
果たしてこれは憎悪だろうか愛情だろうか。おそらく両方なのだろうと勘付いてはいるが、どうか愛情であって欲しいと願う自身はひどく身勝手だった。
「……幻太郎、ぎゅってして良い?」
「……ぐすっ……駄目です」
聞く意味などない質問が宙に浮いたまま、微かな消毒液の匂いに包まれる。今はこんなタイミングなんかじゃないことは分かっているはずなのに何て狡い人だろう。
「駄目って言いましたけど」
「幻太郎の〝駄目〟は〝良い〟だから」
「……自惚れるなよ」
「わぁ、怖い怖い」
無邪気に吐き出された言葉はわざとらしく、その証拠にけらけらという笑い声が彼の体を伝って俺の体をも震わせた。
「……何故すぐに連絡くれなかったんですか?小生はそんなに頼り甲斐がないですか?」
「そんなことない。心配かけたくなかっただけだって」
「そんなの言い訳にしか聞こえないですよ」
「ホント。その証拠にちゃんとここに来たじゃん」
「犬は帰巣本能があるって言いますからね」
「誰が犬かっての!」
「ふんっ」
「やっと笑った」
弾んだ声にやっと背中に手を回す。傷に響かないように、壊れ物を扱うように、それでいてもう離さないとばかりにしっかりと。消毒液の匂いがより強く漂ってくるが、もう涙は流さない。彼がここにいる奇跡に感謝しよう。
「って……貴方はナニを元気にさせているんですか」
「いや〜ほら、生命の危機を感じると何とやらって言うじゃん?」
「生憎、小生は遺伝子を残せないのでご自身の手で発散させてくださいね」
「って言うのは嘘で〜幻太郎に愛されてるな〜って考えたら嬉しくて!」
「貴方のスイッチがよく分からないのですが。……手か口でしましょうか?」
「ん〜それより幻太郎と繋がりたい」
腰を艶やかに撫で付けられれば「あっ」と声が漏れる。悦楽を抑えるように口に手を当てるが、忙しなく動く手によって無慈悲にも短い息を吐き出してしまう。
「んっ、傷が痛む、でしょうに……」
「え〜じゃあ、幻太郎が上に乗ってよ〜」
「かえって痛む、気が……あっ……」
「痛くないか試してみよっか♡」
「っ……!駄目ですよっ、傷がっ、んっっ……」
慣れた手つきで腰帯を取られるとあっという間に押し倒され、自身にできることと言えば本能に溺れる他なかった。
深い快楽から解放されるとすぐに畳へごろんと寝転んだ。近頃は夜も冷えることが多く、今日だって例外ではないのだが、体は自身の汗と彼の汗でべたついている。それが激しいまぐわいを示しているようで、ほんの少しだけ羞恥が自身を襲った。
いつもはタフな一二三も今回ばかりは幻太郎同様、畳へと寝転び「あーー」と間延びした声を吐き出した。
「何ですか、その声」
「う〜〜、熱出てきたかも」
「怪我してますしね。おまけに激しく動いたから」
「あ〜〜、センセに怒られちゃう」
腕で顔を覆う彼の体にぺとりと手を這わせる。たしかに熱い。行為中にも熱いと感じていた体は更に熱を篭らせているらしい。
「怒られるときは小生も一緒になって怒られますよ」
「マジで?優しいじゃん」
「ええ。優しいので貴方をこの家に数日監禁しますよ。仕事も家事もしてはいけません」
「何それ〜、超重たい恋人じゃん〜!」
「どうせ休み取ってあるんでしょう?」
「センセからお酒も禁止って言われたからね〜!」
返事を聞いて、もそもそと起き上がって戸棚から冷却シートを取り出す。形の良い額にぺたりと貼ると、彼が満足そうに微笑んだ。
熱い手で後頭部を寄せられ、唇を重ねる。
「……超重たい恋人にドン引きしましたか?」
「全然。むしろ大好きになった。幻太郎、愛してるよ」
とろんとした瞳は今にも閉じてしまいそうで、彼の身にどれだけの負荷がかかったのかを物語っているようだった。それでも眠りに落ちる瞬間まで恋人への愛を紡ぐのだから本当に始末が悪い。
触り心地の良い髪に触れ幾度か手櫛で梳いてやると、今度こそ我慢せずに頬を緩めた。