檸檬⑩Ⅱ. SIDE:T
ⅰ. 幸せな夢
瞼を開くとそこは陽だまりだった。
暖かな陽射しが眩しくて思わず顔を顰める。
グルグルと目を擦り、欠伸をすれば慣れてくる。
隣を見れば、ウネウネと波打つ黒い塊がある。
丸く縁取った形からそれは頭だと分かって、炭治郎はおずおずと黒髪を捲った。
煌めく絹肌と翼のような睫毛。
筋の通った高い鼻。
花びらのような薄い唇。
鈍い頭が誰だか認識したその時、腕の中にいる彼の身体がビクりと震えた。
『ん、……ぁれ、もぅあさ……』
酷く間延びした声だった。
気が抜けているというか、寝ぼけているというか。
とにかく警戒心が薄い。
紅い瞳がコロンと上向いて、目が合う。
ぱち、ぱち。瞬き二回。ゆっくりと。
それから遅れて瞳孔が緩く開いて、目尻がまろやかに落ちた。
『おはよぉ……たんじろぉ……』
またしても緩い声。
それからスルルと炭治郎の胴回りに腕を忍び込ませてきて、トンと胸元に寝起きにしては少し低い体温が寄りかかってくる。
とても普段の様子からはかけ離れていて、炭治郎は驚きに声を出せずにいた。
ふわり。香るのは炭治郎の大好きな匂い。
お花みたいに甘くて柔らかい、嗅ぎ慣れた無惨様の匂いに炭治郎は無意識に抱きしめ返していた。
『? タンジロー……?』
すると、返事が来ないことを不思議に思ったのか、懐に顔を埋めていた無惨が身じろぎ、上目遣いに見つめて来る。
『……え、あ、ああ。おはよう、無惨様』
視線に気づいた炭治郎が慌てて取り繕うと、無惨は何故か目を丸くする。
不審に思ったという目ではなく、純粋に驚いているようだった。
『なんだ、機嫌が悪いのか……?』
『え? ど、どうして?』
『お前に〝様〟をつけて呼ばれたのは久しぶりだ。いつもは言っても呼び捨てのくせに………何かあったのか?』
今ので眠気が飛んだらしく、言葉遣いは炭治郎が知っているいつもの調子に戻っていた。
けれども少し弱々しい。
不安、という気持ちが滲み出ている。
形のいい眉がシュンと下がり、切れ長の瞳はウロウロと所在なさげに彷徨っている。
まるで母親の気分を気にする子供のよう。
その潮らしい姿に、炭治郎はグッと胸を抑えてたじろいだ。
愛い。あまりにも愛い。
『タ、タンジロー? どうしたんだ? 胸なんか抑えて……もしかして痛むのか?』
『だ、だいじょぶ……これは違うの、そういうのじゃないから……心配させてごめんな』
言いながら重ねられた手を取り、頬に寄せて安心させるようにニコリと笑う。
すると、無惨がホッとしたように表情を綻ばせるので、炭治郎はソッと彼を抱き寄せた。
『……ふん。別に心配なんかしてない』
そんな事を言いつつも、無惨は腕の中から逃げようとはしない。
キュッと炭治郎の服を掴んで、身体を預けてくる。
『たんじろお』
『んー?』
『……その……きょ、今日は……シ、シないのか?』
『えッッ!??』
自分史上一番大きな〝えっ〟だったと思う。
動揺を隠せぬまま『な、なにを……?』と炭治郎は問う。
すると、無惨はムッと眉を顰めてフイと顔を背けた。
『私に言わせるのか? …………まあいい。いつも大体お前からだし、たまには……わ、わたしから、シてやってもいい……』
そう言って無惨は炭治郎の袖を引いて起き上がった。
無惨の耳や着崩れた寝巻きから覗く首筋が赤く染まっている。
匂いから彼が緊張しているのが分かる。
一体何をされるのだろうか。
緊張が移ってこっちまで不安になって来る。
『お、おはよぅ……炭治郎』
『? おはよう、むざ、ッン……!?』
脈絡のない二度目のおはよう。
不思議に思いながらも条件反射で返事をすると、無惨はスッと身を乗り出すように距離を詰めてきた。
目と鼻の先に美しい顔がある。
あっと思った時には唇が触れ合っていた。
ふわっと離れて、また重なる。
繰り返していく途中、身体を支えるために横についた手に無惨のそれが重なり、指が絡められる。
これはもしかして、もしかしなくても夢にまで見た〝おはようのチュウ〟とやらなのではないか。
混乱の最中、炭治郎がそう思い至った時、ペロッと上唇を舌先で撫でられた。
ビクりとした反動で薄らと口を開けてしまったそこへ、薄く滑らかな舌が確かな意思を持って差し込まれる。
『んっ、んんぅ…ッ』
『ふ…っ、……ん、らんぢ………ひッ!』
息継ぎのため、口を離した無惨。
抜けかけたその舌に吸い付き、今度は炭治郎が彼の口内を征服に侵攻する。
身体を逃さぬよう、横から炭治郎にもたれ掛かるようにしている無惨の腰に腕を回し、繋がっている掌に力を込める。
突然の応酬に怖気付いたのか逃げ惑う舌を追いかけ、追い詰めて絡めとる。
『ん……ぁ、っ♡ ま、まっへ……いきが…ぁ、……たんひ、ンッ♡』
『はぁあ、むん…っ♡ らいしゅき、……んっ、ちゅ』
『……ッ♡ 〜〜〜…っ♡♡ ん、ん〜〜〜〜…ッ♡』
やがて、諦めたのか力んでいた無惨の肩からストンと力がぬけた。
ガクッと体重がかかってきたので、膝の上に乗せるように抱き寄せれば、首に腕を回して縋るようにしがみついて来る。
『んはっ、はぁ…っ♡ はっ♡ ……もぅ、やりすぎら……』
『ご、ごめん。なんかすごく……嬉しくて』
頬を指で掻きながら照れ照れとそう告げると、無惨はパチパチと目を丸くした。
それから、顎に指を添えて考えるような仕草をすると、炭治郎の膝の上で向かい合うように座り直して、間の膨らみをスルッと撫でて来る。
『うぁ……ッ! む、むざんさ……むざん! どこ触ってるんだ……っ!』
『ふふふ。やはり今日のお前は反応が初々しいな。口吸いだけでその気になったのか?』
『だっ、だってそれは………しょうがないだろ。俺は無惨のこと好きなんだから。好きな人にあんなことされたら誰だってこうなる』
『開き直りか? ……まあそうだな。それは私もだ』
ムクれてそっぽを向けば、手首を掴まれて引っ張られる。導かれるままに前のめりになると、耳元でソッと囁かれる。
『私もお前を愛しているから、こんなになってしまった』
ドッッ…!!
鼓膜を破る勢いで心臓が跳ねた。
掌に感じる熱は自分の中に渦巻くそれと同じなのだろうか。
いやそれよりも、彼は今何を言ったのだろうか。
『ふふ。顔が真っ赤だ。頬紅をぶち撒けて頭から被ったようだぞ? やはり今日のお前はどこか懐かしいな。昔に戻ったようだ』
『…………って、』
『ん? なんだ、今何か言っ……』
『もう一回言って。俺のこと、どう思ってるって言ったの……?』
『? 愛していると言ったが……ああ、お前に習って大好きの方が良かったか?』
少し高い目線の先で、愛しい彼が斜め上のことを言いながらコテンと首を傾げている。
彼にとっては当たり前のことなのだろう。
極々普通の言葉で、どうしてもう一度と言われたのか分かっていないのだろう。
炭治郎だって分かっている。
今ここにいる自分は彼に愛されているのだと。
しかし、何故だかとても胸が苦しい。
『お、おい……急にどうしたのだ? 本当に今日は少し変だぞ、炭治郎』
『ウウ、ウウウ』
涙が溢れて止まらない。
鼻水もダラダラ垂れて来る。
『ウグ、ヴヴぅ……どっちでも、いい…ッ。大好きでも、愛してるでも……どっちでもいいから、もっといっぱい言って聞かせて……』
『……炭治郎』
慈しむような声が落ちて来る。
頭部を包み込むようにヨシヨシと撫でられて、炭治郎はみっともなく縋った。
『好き、好きだよ炭治郎。私の愛しい鬼。今朝の夢見でも悪かったのだろう? 怖い思いをしたのだな。もう大丈夫だ。今は私が傍に居る。存分に甘えるといい』
そう言って、無惨は優しい言葉をかけ続けてくれた。
それから無惨は慰めるように甘く蕩けるようなまぐわいまでしてくれるから、炭治郎は彼に溺れるしかなかった。
*
寝室から出て居間に向かう道すがら、廊下には食欲をそそる匂いに満たされていた。
ベッドの上での余韻のまま、二人で手を繋いで大広間に入ると、台所の方から割烹着を着た黒死牟がひょっこりと顔を出した。
『おはようございます。無惨様、炭治郎』
『おはよう』
『おはよう、黒死牟さん。とてもいい匂いだね』
『今日は、今朝堕姫と妓夫太郎が収穫した夏野菜のサラダと猗窩座が釣ってきた川魚を今焼いてる。もうすぐ出来るから支度を済ませて来るといい』
『はぁい! じゃあ先に顔洗って着替えてくる! 行こ、無惨様!』
『ああ』
無惨の手を引いて、炭治郎は洗面台に足を進めた。
それからイチャイチャしながら着替えて居間に戻ると、食事の支度が整っており、食卓の周りにはキチンと正座をした猗窩座とその左隣でウトウトと眠そうにしている童磨、黒死牟を手伝っている鳴女がいた。
もう一つの円卓の方では半天狗と喜怒哀楽達がわちゃわちゃともう箸を進めている。
彼らはこれから舞台の稽古があるので、先に食べねば間に合わないのだ。
炭治郎は猗窩座の右隣に腰を下ろし、その隣に無惨、黒死牟、鳴女と続く。
鳴女と童磨の間は一つ空席があるが、壺制作で缶詰となっている玉壺の席である。
ちなみに、堕姫と妓夫太郎は朝の収穫を終えた後、そのまま港へと向かった。
だいぶ昔に遊郭から転職して着付け屋兼お化粧教室を始めたのが評判がよく、堕姫は今では国内外問わず依頼が殺到する超売れっ子のスタイリストなのだ。
妓夫太郎は彼女の秘書として、甲斐甲斐しく妹のサポートをしている。
『いただきます』
全員が着席すると、みんなで手を合わせて食べ始める。
朝の一仕事を終えた面々は空腹もあってか黙々と食べていた。
炭治郎もついさっき愛の営みをしたばかりなので、頬袋を膨らませてモリモリと食べ盛る。
皿と机と箸の小気味良い音が鳴る静かな空間に、落ち着いた声が通る。
『童磨。今日は何時からなのだ?』
『う〜ん、確か今日は午後から依頼が入っていたかなぁ』
『ならば、午前は暇だな。今日から田植えをする。手伝え』
『うぇ。……はぁい。猗窩座殿ぉ』
『断る』
『えぇ、まだ何にも言ってないよ?』
『貴様はどうせ碌なことを言わん。俺は田植えが終われば道場がある。貴様に付き合っている暇はない』
猗窩座に冷たく遇らわれ、童磨はシュンと肩を落として箸を進めた。
拗ねるように箸の先でオカズのヒジキを弄び始めたので、見兼ねた哀絶が『哀しいかな、儂らは午後は非番じゃ。何かあるなら我らが付き合おう』と声をかけると、童磨はキラランと目を光らせた。
ウンウンと嬉しそうに頷いて、自分の食事セット一式を持って半天狗一行のテーブルに割り込んでいった。
一方で、炭治郎は頬袋のものをゴックンと飲み込んで、隣で小さな一口のお上品な食べ方をしている無惨の方を見る。
『ねぇ無惨、今日は寺子屋も午後からだよね? その前に子供達呼んで田植え手伝ってもらったら早く終わるんじゃない?』
『……ん、それもそうだな。どうせ山で遊び回っても体力が有り余っていることだろうし、手伝わせよう』
『俺食べ終わったら呼びかけてくるよ』
『ああ。私は授業の準備を済ませておく。猗窩座と童磨は田植えの準備を進めておけ。黒死牟は家事をあらかた済ませてから合流だ。鳴女、黒死牟を手伝ってやれ』
無惨からの指示を受け、各々が食後に動き出す。
田植えの時間になると、炭治郎の集めた子供達と鬼の面々はグループに分かれて作業に入る。
それから数時間後。
作業を終えた一行は子供達に礼を言って家に帰し、昼休憩を取っていた。
どっかりと縁側に腰を下ろし、被っていた麦わら帽子を取って置く。
『はぁ〜疲れた。でも結構進んだね。皆んな頑張ってくれて助かったよ』
『………あぁ』
『無惨大丈夫? 陽射し強かったもんね、今麦茶持ってくるよ』
『今お持ちしましたよ、炭治郎様。無惨様、こちらをどうぞ。冷えております』
『ああ。……』
『ありがとう! 鳴女さん!』
麦茶のグラスを二つ受け取り、一つは無惨に渡す。
その時に顔色を見ると、頬がほんのり赤くなっていた。
額や首筋に汗の滴が流れ、気だるげに後ろに手をついて麦茶を流し込む姿を見ると、なんだかほっこりしてしまう。
それに、先程チラと見えてしまった白いTシャツの中。
桃色の尖りが目に焼き付いて頭の片隅から離れない。
『……? どうした、炭治郎?』
『えっ? ……ぁ、』
気がつくと、炭治郎は無惨の頬に指を滑らせていた。
無意識のうちに手を伸ばしていたらしい。
『ご、ごめん……! なんかつい、無惨のこと見てたら触れたくなってたみたい……』
『俺達も居るからな、炭治郎』
『わ、分かってるよ猗窩座!』
『いいよいいよ、俺達のことは気にせず愛し合っておくれよ。どうせ見慣れた光景さ』
『童磨……ッ、お前の言い方は本当に癪に触るな。悪気がないのが本当にムカつく!』
『炭治郎、お前は本当に自分に正直だな』
『黒死牟さんまでヤメテよもう! 悪ノリしないで!』
『く…っ、ふふふ』
珍しい無惨の笑い声に、その場にいた彼以外の視線が一気に集中する。
『ッ、……な、なんだ……?』
『いえ、無惨様は近頃よく笑顔になられますね。良いことだと思います』
『俺も無惨様の笑った顔大好き! もっと笑ってくれていいんだよ!』
『む、そう言われると却って出来ぬ』
『天邪鬼ですか』
『猗窩座。貴様も言うようになったな』
ジロッと無惨が振り向くのに合わせて、猗窩座がフイッと反対側を向く。
あまりに動きがシンクロしていたので、炭治郎と黒死牟、童磨と鳴女はお互いに顔を合わせてクスりと笑う。
『さて、俺達はそろそろ準備をしなくちゃかな。哀絶ちゃん達も居てくれるから、今日は早く捌けそう』
『俺も道場を開ける準備をする。黒死牟も来るか?』
『ああ。……それでは無惨様、私達はお先に失礼致します』
『うむ』
『皆様、湯は沸かしてあります。よければ汗を流して行かれてください』
『流石鳴女殿、助かるよ〜! ささ、猗窩座殿! 一緒に入ろうぜぇ』
『風呂には入るが貴様とは行かん』
『お前達……いい加減にしろ。今朝から目に余るぞ』
トップ3がやいのやいのと戯れながら歩く後ろを、鳴女が微笑ましげに眺めて付いていく。
その様子を見ていた炭治郎は、『何だかあの四人は兄弟みたいだよなぁ』と呟いた。
『ふむ、分からなくもない。鳴女は黒死牟の次に産まれた長女といったところか? 童磨と猗窩座は年子だな』
乗ってきた無惨の言葉に、炭治郎はそうそうと笑いながら同意する。
思い浮かべてみるとしっくりきすぎて何だか可笑しい。
『………』
『………』
それからしばらく、二人は会話もなくのんびりとしていた。
ゆったりと流れる時間が心地よい。
何にも囚われず、愛おしい人達と何の変哲もない豊かな生活を送る日々。
『幸せだなぁ……』
思わず溢れ出した言葉だった。
隣の無惨は振り向くでもなく、『そうだな』と返してくれる。
その横顔は少し微笑んでいて、炭治郎はコテンと隣の無惨の肩に頭を預けた。
『なんだ、甘えたか? 今朝のでは物足りなかったかな?』
『……ううん。もうお腹いっぱいだよ』
少し首を上向かせて、スンスンと鼻を鳴らす。
『汗を掻いている。嗅ぐでない』
『んーいいの。無惨の匂いなら何でも俺好み』
『物好きな奴め』
『ふふふ』
少し照れてる匂いがする。
素直な反応だ。
とても可愛い。愛おしい。
炭治郎は幸福感のまま、目の前の白い首筋に流れる雫をチロりと舐め取り、チュッと吸い付く。
『んひ…ッ! な、やっ、タ、タンジロー…!?』
『ふふ、しょっぱい』
『当たり前だ馬鹿ッ!』
顔を真っ赤にした無惨にポコンと拳骨を喰らう。
全然力が入っていないので痛くはないが、炭治郎は反射的に『イテッ』と言ってニコニコ笑う。
『ねぇ無惨、やっぱりもう少し甘えていい?』
カランッ。
グラスに残った麦茶の氷が溶けて揺蕩う。
熱を孕んだ切れ長の獣目が炭治郎を射抜き、首にスルリと回される両腕。
『いい。許す』
『ふふ、ありがとう』
お互いに引き寄せられるように唇が重なる。
こんな幸せな日々があってよいのだろうか。
いや、幸せで当たり前なのかもしれない。
だってこれは、炭治郎の願望が詰まった〝幻想〟なのだから。
『ん……ッ、? 雨か……?』
『………』
『今日は晴れると思っていたのに。洗濯物を取り込まなければ』
そう言いつつも、抱き付いたまま離れない無惨の腕をソッと解いて、炭治郎は立ち上がった。
屋根の中から外に出て、その身に冷たい雨を被る。
桶をひっくり返したような雨だ。
あっという間に土砂降りになってしまった。
炭治郎は掌をかざしながら曇天を見上げ、雨粒を瞳に受けながら乾いた笑みを浮かべる。
『ハハ、そっかぁ……〝向こう〟はまだ降ってるのか』
『炭治郎? そんなところにいたら風邪を引くぞ。戻ってこい』
『ウン、今戻るね。幸せな夢を見せてくれてありがとう』
────さようなら。
ⅱ. 冷たい雨
瞼を開けると、そこはまだ暗い闇の中だった。
随分と幸せな夢を見ていた気がする。
あれからどれくらい経っただろうか。
一頻り泣いていた気がするが、いつの間にか眠っていたらしい。
外はまだ雨が降っている。黒死牟の家を出てからすぐに雨足に捕まり、それから何日も降り続いている。
雨宿りに拝借している洞窟は、湿っぽくて今の心には丁度いいけれども、床も壁も冷たいことが難点だろうか。
(焚き火くらい付けるか……)
そう思い、重い腰を上げて洞窟の奥に濡れていない枝を探しにいく。ずっと同じ体勢だったからか、動かすと身体がバキポキ鳴った。軽く柔軟をしてから歩き出し、集めた小枝を山に積んで小石を擦って火の粉を飛ばす。何度目かでやっと着火すると、パチパチと燃え上がる炎を体育座りをしてボンヤリと見つめる。
(…………はぁあ。俺、とうとう捨てられたんだよな)
起きていると蘇る。冷めた声が腑抜けていた心に突き刺さった。なんて事のないように告げられる淡々とした言葉はまるで槍の雨のように降り注ぎ、ツギハギだらけで辛うじて取り繕っていた炭治郎の想いを打ち砕くには充分だった。
(頭では分かっていたことだけど、実際に言われると結構クるなぁ……。しばらく立ち直れそうにないよ)
ハァーッと吐いた溜息は焚き火を吹き消しそうなほど重たい。肺の空気が出ると、ジンワリ目元が熱くなる。そうしてまたホロホロと大粒の涙が溢れて、頬にこびりついた跡を上塗りしていく。
心にポッカリと空いた穴は深過ぎてもう塞がることはないだろう。元々炭治郎にとって無惨は全てだった。物心つく頃から炭治郎の小さな世界の中心は無惨で、何をするにも彼の事が念頭にあった。
〝無惨様のために〟
〝無惨様が喜ぶから〟
〝無惨様が褒めてくれたから〟
〝無惨様のことが大好きだから〟
炭治郎の思考回路にはいつも無惨の存在があった。彼に必要とされることが何よりも嬉しくて、誇らしかった。
例え彼にとっては使い勝手の良い道具でしかなかったとしても、それで良かった。炭治郎自身を見てくれなくても良かったのだ。そのはずだった───自身の抱く想いが熱烈な恋心だと気づいてしまうまでは。
それからだ。炭治郎が無惨に対して〝ただの竈門炭治郎としての自分を見て欲しい〟と望むようになったのは。
(太陽さえ克服できれば、俺の事少しは見てくれるかなって思ったけど……結局は無惨様を傷つけただけだった。ただただ、現実を突きつけられただけだったな)
もうあの場所には戻らない。戻れない。
本来なら無惨に必要とされなくなった鬼に生きている価値などないのだ。以前解体された下弦のように、炭治郎も無惨によって殺されているはずだった。
けれど、炭治郎は生きている。それはつまり、殺す価値もないと判断されたということだ。太陽を克服した稀有な肉体を持つ貴重な被験体だから、殺せなかったのかもしれない。それならばまだ役に立つ方法があるかもしれないけれど、今の炭治郎には無惨の前に立てる気力も度胸も残っていなかった。
(無惨様、凄い剣幕で怒ってたもんな……。俺の血で怪我をさせてしまった時から避けられているのは分かっていたけど、こんなに嫌われているとは思ってなかった。家族としてなら受け入れてもらえていると思っていたのに、それすらも俺の思い上がりだったのかな……)
記憶のない炭治郎にとって育ててくれた無惨は勿論、遊びや鍛錬の相手をしてくれた上弦達は家族のような存在だった。時に喧嘩もしたけれど、皆んながとても大切な存在だ。
中でも無惨は特別だった。一緒にいる時間が長かったこともあるかもしれない。無惨の不器用な優しさや愛情を感じ取っていた。
いつからだろう。
そんな無惨を可愛いと思うようになったのは。
彼を見ていると無性に腹が減るようになったのは。
吸血の時の何かを堪えるような声や仕草に欲情するようになったのは。
彼の一番近くにいたい。深いところに触れてみたい。もっともっと無惨様の事を知りたい。そんなふうに思うようになったのは。
元々胸中にあった小さな燻りが明確な形を持ったのは、二人で舞踏会に紛れ込んだの日のことだった。自分ではない知らない誰かと楽しそうに会話をし、手を取り合ってダンスを踊る無惨を見て、炭治郎はとても自分のものとは思えないドス黒い感情に支配された。
その言い知れぬ不快感の正体を教えてくれたのは意外にも童磨だった。いつも不可解な匂いをさせているからてっきり感情に疎いのかと思っていたのに、『それは〝嫉妬〟だよ』とハッキリ言われて、元々猗窩座に相談していたところに割り込むように入ってきたことも相まって炭治郎は少なからず驚いた。
その時から、炭治郎は無惨に恋をしているのだと自覚するようになった。
(……結局、一度も好きとは言ってもらえなかったけど)
ふと頭を過ぎる。
一度だけでいい。嘘でもいいから好きだと言われてみたかった。
言葉に出さないのは鼻の利く炭治郎に嘘を悟られないためだったんだろう。しかし、それだけでバレないと思われていたのなら心外である。
(幼い頃からずっと無惨様をお側で見てきた俺が、貴方の隠し事を見抜けないわけないのに。無惨様は俺のことなんにも分かってない……いや、そもそも興味がなかっただけか……)
出会った時からそうだった。
炭治郎は無惨にとって沢山の手駒の中の一つ。利用価値が無くなれば捨てられるだけの道具にすぎない。太陽を克服することが炭治郎の役割で、それは無惨にとって優先順位の高いことだったから、他の鬼よりも少し目をかけてくれていただけ。
炭治郎がそのことに気付いたのは、無惨を好きだと自覚した時だった。それでも、気持ちが抑えられなくて告白してしまった。するつもりはなかったのだが、気づいたら想いが溢れ出てしまっていた。受け入れてもらえるなんて思ってもみなかったけど、頷いてくれた時は嬉しかった。でもすぐに貴重な検体を手放したくなかっただけだと気づいたけれど。
分かっていても、好きの気持ちはどうしようもなかった。かりそめでもこの場所を───無惨の隣に居られる特等席を誰にも譲りたくなかったから、気づかない振りをして傍にいることを選んだ。
その代わり遠慮するつもりもなかった。かりそめでも恋人にしてくれると言うのなら、存分にその立場を利用させてもらう。
セックスもキスも初めてが欲しかった。それが贅沢な願いであることは分かっていても、望まずにはいられなかった。炭治郎もたいがい独占欲の塊なのだ。
(ファーストキスは流石に無理だって分かってたけど、無惨様の性格的に後ろは初めてだと思っていたのにな)
初夜からだいぶ手慣れていた。後ろは凄く柔らかかったし、吸い付く感じがヤバかった。あれは絶対処女じゃない。ヤってる時は夢中だったけど、終わってから押し寄せるようにそれを実感して……なんだか凄く自分が情けなくなった。俺はただ気持ちよくしてもらっただけ。馬鹿みたいに口吸いばかり求めて、子どもっぽいったらない。今までどんな人と無惨様は……なんて考えたって仕方ないって分かってるけど、きっと誰よりも下手で内心笑われてたんだろうなって考えてしまう。
一週間に一度きりのまぐわい。
また次があるということ自体は嬉しかったけれど、恋人っていうより身体だけの関係みたいだった。回数を重ねていくにつれて、炭治郎が無惨を暴いた分だけ、その感覚は皮肉にも増していった。
身体の相性は悪くなかったと思う。無惨も気持ちいいという匂いはさせていたし、実際炭治郎も気持ちよかった。けれど、それを素直に喜べるほど炭治郎は腑抜けていない。
何せ無惨にとってこれはただの性欲処理でしかないのだ。炭治郎からしてみれば大好きな無惨様とじゃなきゃシたくもないし、シたいとも思わないけれど、きっと無惨にその感情は関係ない。〝誰としても〟おんなじ反応をするのだ。
幾ら身体を重ねても、心には決して触れられない。交わらない。寂しくて、虚しくて、翌る日はいつも胸が張り裂けそうなくらい痛くなる。
それでも恋というのは現金なもので、一目想いの人を見つければ触れたくて堪らなくなってしまう。
幼い頃からの習慣で、炭治郎はいつも寝る時は無惨に膝枕してもらっていたから、毎晩眠るまでが試練だった。どうしてもムラムラしてしまうので、寝る前に一・二回抜いてから眠っていた。朝起きるとベッドに移されているのだけれど、隣には誰もいなくて、冷たいシーツに涙を流した回数は両手両足を入れても数え切れない。
「デートらしいことをできたのもこの一度きりだったもんな……」
懐から取り出した一枚の写真と万年筆を見つめて、ポツリと独り言ちる。
写真はあの時、写真を撮らせて欲しいと頼んできた少年に後日焼き増ししてもらったものだ。少年の匂いは覚えていたから、あの繁華街の写真館を訪ねていけば案外簡単に見つかった。
少年のリクエストは何気ない日常を撮りたいと言うことだった。元々は噴水広間でのパフォーマンスに感動したから衣装のまま撮るつもりだったらしいのだが、人外だと知った今は気が変わったのだとやけに興奮気味に話してくれた。
折角だから月をバックに撮ろうと言うことになって、幅広い川に架かる風情ある赤い橋を歩くように指定された。無惨は命令されたことに若干不機嫌になっていたが、会話をしていくうちに空気が和やかになっていた。そのうち撮影中だということを忘れていた気がする。途中で少年に声をかけられて、一瞬彼が誰だか分からなかった。
そんな成り行きで撮られた写真は、今では炭治郎の宝物だ。これを持っていることは無惨にも内緒にしている。もし見つかって捨てろなんて言われたり、破られたりしたら、とても悲しい気持ちになるから。
「二人とも楽しそう……。無惨様の笑ってる顔撮るなんて、あの子は将来有望だな」
写真の中の二人は、橋の手すりに背を預けて何かを語らっていた。何を話していたかは正直覚えていない。くだらない話だった気がする。ただ穏やかな時間が流れていたというのは覚えている。お互いに顔を見合って、炭治郎は尖った歯を見せて笑っているし、無惨は口元を指の背で隠してはいるが目尻が下がっているから笑っているのだと分かる。
写っているのは横顔だが、炭治郎は今でも鮮明に思い出せる。たまにしかお目にかかれない無惨の作り物ではない笑顔。その完璧でない崩れた笑みを見るのが好きだった。
(こんなことになるのなら、怖がってないでもっと沢山デートに誘っておくべきだった。俺の馬鹿。臆病者…ッ)
芝居が上手な無惨とはいえ、心の中の感情はコントロールできない。不快という匂いを露わにされるのが怖くて、なかなかデートには誘えなかった。
二人きりで出掛けることはなかったわけじゃないけれど、それは全て情報収集の一貫。黒死牟や猗窩座も一緒のことが多かったし、任務のこと抜きで二人で出かけることなんてなかった。
勇気を出して誘った時も、一度は断られたし。他の人と行けばいいだなんて酷い。無惨様とじゃなきゃ意味がないのに。俺は無惨様とだから一緒にいたいと思っているのに。……やっぱり俺との関係は見せかけなんだなって思い知って、とても苦しくて、とても悲しかった。
それでも結局、彼は一緒に行ってくれると言ってくれた。泣いたところを見られたからだろう。無惨は優しくはないけど、何だかんだ炭治郎には甘いのだ。狡いと思う。そういうところに絆されて、炭治郎はまた無意味な希望を持ってしまうのだ。
美術館を選んだのは、無惨が異国の文化に触れることが好きだと知っていたから。それと単純に窓のない室内でなら気兼ねなく楽しめるのではないかと思ったのだ。
実際に楽しんでくれたかは分からない。はしゃいでいたのは自分だけだったのではないかとも思う。ダンスも強引に誘って仕方なく付き合ってくれた感じだった。
それでもあの時間は、炭治郎にとって何物にも変え難い至福の刻だった。〝本当の恋人〟になれた気がした。
「それに、あの後無惨様が俺にプレゼントを用意してくれたんだもんな……。いつも太陽を克服することしか考えてなさそうなのに、万年筆を選んでるその時だけは俺のことだけを考えてくれたってことだもん。それだけで、充分幸せなことだよな……」
クルリ、クルリ。炎の灯りに照らされて青く煌めく万年筆を指先で弄びながら、炭治郎は細々と呟いた。
他人に興味を持たない人から贈り物を貰えるなんて本当に幸せなことだ。例えそれが夢を叶えるためのただの過程で、それ以外の意味を持たないものだったのだとしても。炭治郎にとっては嬉しいことに変わりはない。
────私は貴様のような子どもに興味などない。貴様が太陽を克服するのに有益だと判断したから、側に置いて監視するために要望を叶えただけだ。
────ただの特例処置だ。言うことを聞かぬ上に役にも立たない駒などいらぬ。貴様は用済みだ。疾く去ね。
(…………。今までのこと全部……演技、だったのかな。俺に向けてくれた言葉も声も表情も……。俺の知る貴方の全てが嘘だったなんて思いたくないよ、無惨さま………)
ザァザァと降り頻る雨の音が洞窟内にこだまする。
この底冷えするような冷たい雨に打たれて仕舞えば、いっそ全てを捨て去ることが出来るだろうか。
【続】