檸檬18 ⅲ. 昇天
青い彼岸花を見つけてから一ヶ月も経たないうちに、無惨は太陽を克服した。抽出した毒となる蜜を炭治郎の血液で中和することで薬は完成した。今までの費やした時間と苦労はなんだったのかと思うほど、呆気ないものだった。
積年の夢を漸く果たしたはずなのに、満足感どころか達成感すら感じない。もっとやりたい事とか沢山あったはずなのに何も思い浮かばなかった。心にポッカリと空いた穴はこれだけで埋められるほど浅くはなかった。
ただ、良かったこともある。この虚無感を紛らわせる方法を手に入れることが出来たのだ。窓辺の陽当たりのいい場所で日向ぼっこをしたり、干したての布団に包まって眠ったりしている時だけは傷心が一時的だが癒えた気がした。陽だまりは炭治郎を思い出させてくれる。意志とは関係なく日に日に薄れていく彼の記憶を自分の中に留めておきたくて、無惨は天気のいい日は毎日布団と市松模様の羽織りを干して、夜はそれに包まれて眠っていた。
結局太陽を克服しても、その暮らし振りは以前と大差ない。変わったことと言えば、それこそ夜に眠って朝起きるようになったことくらいか。ああそれから昼間に散歩出来るようになって、人肉以外の食事を少しだけ摂れるようになった(それでも主食は人肉であり食べねば飢える)。昼間にしてみたかったことは一通りして、あとは海を越えることを当面の目標である。戦争がひと段落してから空も飛んでみたい。それまではこの山奥の別荘で静かに暮らしているつもりであった。
そうして太陽を克服してから一年程経った頃、とある来訪者によって平穏を乱す事件が起こる。
「…………は? 貴様今何と言った?」
「貴方を天上界へ連れてくるよう帝君から拝命賜りました。鬼舞辻無惨、貴方に拒否権は当然ございません。私共と一緒に来てください」
突如書斎に現れた所謂神の使者御一行によって、無惨は天上界とやらに連行されることになった。その時初めて空を飛んだ。この場合、空に登ったと言った方が正しいのだろうか。光のエレベーターの乗り心地は思ったよりも普通だった。
天上へ到着すると、そこに広がる荘厳な風景に息を呑んだ。拘束さえされなかったものの、顔の怖い男に周りを包囲されながら誘導されるままに建物と建物を繋ぐ屋根のない渡り廊下を歩き、一際大きな門を潜って室内へ入った。
だだっ広い廊下を進み連れてこられた会議室のような場所の中央に、無惨は跪かされた。流石にムッとして顔を上げると、周りを囲んでいた男たちは既に捌けていた。その代わり遠巻きに絢爛な服装を纏った髪の長い男女が無惨を見下していた。その視線は様々な色が混ざっており軽蔑・嫌悪が大半だが、中にはそれ以上に気味の悪い視線を向けてくるものもいた。しかし、無惨はこの手のことは慣れているため、溜息をつくくらいで気にも止めなかった。
カンッ!
喧騒を鎮める甲高い音が響いて前を向き、見上げるとそこには誰より高い場所に玉座があり、一際美しく一番偉そうにしている奴が居た。彼が帝君、神の頭領なのであろう。
それから無惨は其奴にクドクドとご高説を賜った。長いので要約すると、【人間のくせに禁忌を犯して鬼となった挙句、ついには不老不死という厄介極まりない技まで身につけおって。お主の暴走は目に余る。これ以上野放しにはしておけん。神になれ。そして働け。さすれば相応の手当と自由を保証する】と言うことらしかった。
最後に一応同意を求められた。流石帝君、お心が広大だ。問答無用でここへ連行してきた使者とは器が違う。無惨は全力で拒否したかったが、そうすれば監視の目が四六時中付き纏うか、よくてこの場で殺されるだろう。思い返してみればここまでの長い人生、無惨は付き纏われ追いかけ回されてばかりだった。ウンザリしていた。私はただ平穏に健康な身体で何不自由なく暮らしたかっただけなのに、何故誰も彼もが邪魔をしてくるのだろう。
(だが私は死ぬわけにはいかない。生きて、もう一度炭治郎に……)
長い逡巡の末、無惨は渋々頷いた。
与えられた地位は鬼神。そのまんまだ。役目は下界の妖怪と呼ばれる類のものの管理統制。他種族との均衡を保つ調整役も任されることになった。楽な仕事である。無惨は伊達に長生きしていないので日本に棲む妖怪は大抵顔見知りだ。正体を隠さなくていい分人間より面倒がなくてやり易い。
側近には槐という座敷童が配属された。件の会議から解放されてすぐに顔合わせをし、無惨の案内は彼(に見えるが彼女かもしれない)が担うことになった。このためにわざわざ呼び出されたのかと思うとお気の毒に思う。妖怪に天界は肩身が狭いだろう。
「貴様、此度のことをどのように聞いているのだ」
「貴方様に生涯仕えるよう仰せつかっております。どんな要望にもお応えいたしますので、何なりとお申し付け下さいませ」
澱みない声でそう言った槐の青い瞳は青空のように澄んでいた。ちょっと恐いくらいで、無惨は若干鳥肌が立った二の腕を摩る。
「そうか。まずはこの地について色々教えろ。それと私に用意された神殿?があるらしいからそちらもついでに案内せよ」
「かしこまりました」
そうして、天界の規則や主要人物についても軽く説明を受けながら、神々の住処を回った。最後にこれから無惨の家となる神殿に連れてこられたのだが、それは思ったよりも立派だった。とても急拵えで用意されたものとは思えず、槐に聞けば彼は渋い顔をした。
「ええ、大変申しづらいのですが……」
「なんだ、別に怒りはせん。言ってみよ」
「はい。その、端的に言えばこの神殿は前任のお下がりです」
「なるほどな。死んだのか。そも、神に死の概念があるのか疑問だが」
「神の死は下界に堕とされることです。記憶も名誉も何もかもを奪われ、下界の生物に生まれ変わります。かの方は真面目で仕事も抜かりなくこなし、部下からの人望も厚かったのですが、しかしそれ故に不正を許せない性格だったと聞き及んでおります。一定の神から煙たがられており、目をつけられたのではないかと」
「要は厄介払いされたわけだな。二の舞を踏まぬようにしなければな」
ある程度室内を物色し、庭に出る。
「離れもあるのか」
「ええ。前任はあちらを私室として利用していたようです。大きな寝台もありますよ」
「うむ。……して、槐よ」
本殿と離れを繋ぐ橋の上で無惨は立ち止まった。橋の下はちょっとした湖のようになっている。金魚や鯉が優雅に泳ぐ姿をボンヤリと見つめながら、無惨は話を続けた。
「私はもう地上には降りられぬのか?」
「いえ。下界には鬼神を祀る社を設けており、そちらを窓口としていつでも降りることが可能です。もしや、元のご住まいを気にしておいでですか? それならばご心配には及びません。それ専用のゲートを事前に設けておきました」
そうスラスラと語る槐に、無惨は感心しつつも心のどこかで引いていた。槐は把握し過ぎている。それが帝君らから事前に共有されていたのであればまだいいが、もしそうではないのであれば………。そこまで考えて無惨は思考を放棄した。これから長い付き合いになるのだ。それを知るのはもう少し後でもいい。
それから、無惨は鬼神としての執務の傍ら趣味で旅行をするようになった。忙しくしていた。寂しさを紛らわせるにはそれが一番手っ取り早かった。その点、仕事を貰えたことは良かったのかもしれない。
それに、無惨は幸せにならなければいけないのだ。炭治郎が居なければ実現しないことではあるけれど、他でもない彼が無惨の幸せを祈っていた。だから、無惨はいつか彼と再会できる日を夢見て、その時がいつ来てもいいように日々を過ごすことにした。
庭に青い彼岸花を植えた。
一年に一度、炭治郎の命日に手紙を書いた。
あの写真は額縁に入れて執務室の机に飾ってある。
晴れの日の習慣も続けている。
時折、彼を想って身を焦がした。どうしようもない夜もあって、その時は記憶の中の彼に身を委ねたりもした。
無惨は炭治郎を探し続けた。探し物を見つけるのは得意ではないが、待つのは得意だ。
また会いにくると言った彼の言葉を信じて、無惨はただひたむきに待ち続けた。
【続】