春を連れて来るひと白いカーテンが、陽光を含みながら揺れている。狭いワンルームに流れ込んでくる外気はきっと、心地よい暖かさで、瑞々しい若葉の匂いをはらんでいる。けれど。
「……………熱い」
ピピピ、と硬くて軽い電子音が響く。茂夫は、重い布団を押し退けると、ゆっくりとした動きで脇から体温計を抜き取った。表示画面は、今の自分の体温が三十七度九分であると告げている。
そんなわけで今の茂夫は、春の匂いを楽しんだり、温度を感じられるような状況ではなかった。
壁にかかっているリクルートスーツを見て、溜息を吐く。新社会人として、一般企業に入社してから一週間と少し。決して要領がいいとは言えない茂夫にとって、新しいことの連続である研修期間は、不安や緊張や焦燥に直面しながらの、怒涛の日々だった。
本配属先が決まっているわけでは無いから、上司と名のつく人と話す機会はまだ無いが、先輩も同期も、皆いい人だ。だからこそ、共に頑張りたかった。
(………………なのに)
今頃、研修を受けているであろう同期達のことを考える。こんな最初の頃から知恵熱を出して休むだなんて、自分はこれから社会人としてやっていけるのだろうか。
不安感と自己嫌悪は、やがて睡魔にドロドロと沈み込んでいく。身体が熱くて仕方なかったが、自分を労わる気になれず、茂夫はそのまま目を閉じた。
*******
ふわり、と自分の前髪が揺れた気がした。部屋に吹き込んできた風かと思ったが、次の瞬間、無遠慮に髪を掻き分けられて、額に触れられる感覚があった。熱くもなく、冷たくもなく、けれど、優しい温もりのある手のひら。
頭上から、何事か言葉が降ってきたが、熱に霞んだ寝起きの頭は、うまくそれを解せない。
「…………た、つけるぞ」
やっぱり分からなくて、重い瞼を開こうとした、その時だった。
「………………冷たッ!!」
「いや、だから言ったろ、冷えピタつけるぞって」
「あれ、師匠?」
「おう、モブ」
熱った肌に押し当てられた冷却シートが、衝撃的な冷たさから、徐々に心地よい冷たさになっていくのを感じながら、茂夫は掠れた声をあげた。
「なんでいるんですか?」
「お前から鍵貰ったから」
「それは、あげたけど………………」
「それよりほら、ポカリ飲んどけ」
突き出されたペットポトルは、あらかじめ蓋が緩められていた。
礼を言って中のスポーツドリンクを一口飲めば、猛烈な喉の渇きを思い出した。それからは、自分の意思とは関係なく、生存本能で動くみたいに、夢中で喉を鳴らして飲み続けた。常温のスポーツドリンクは、優しく身体中に染み渡っていく。やがて満足すると、ほう、と息が漏れる。
「熱出てる時は、こまめに水分とっとけよ」
世話の焼けるやつだと言わんばかりの表情を向けられて、再び自己嫌悪が胸の中に立ち込めていく。
そんな茂夫の様子を気に留める様子も見せず、霊幻は温めたレトルトの粥や、プリンなどをテキパキと用意しては食べるように促した。
あまり食べる気にはなれなかったが、買ってきてもらったものを無駄にするわけにもいかない。茂夫は言われるがままに、温かくて優しい塩味の玉子粥を食べ、甘く滑らかなプリンを口にした。
腹が満たされると、不思議なほどにネガティブな感情が落ち着いた。
「少し顔色が良くなったな」
はっとして顔を上げれば、霊幻が優しい顔をしてこちらを見ていた。ほんの少しだけ、鼻の奥がツンと痛んで視界がぼやける。
「師匠」
「うん」
「ありがとうございます」
「いいって。ちょっと気になって様子見に来ただけだし」
「でも、なんで僕が寝込んでるって分かったんですか?」
霊幻はベッドの傍に片膝を立てた形で座り込むと、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出してみせた。
「昨日の夜、お前LINEで体調悪いって言ってただろ。それに、その後俺の送ったメッセージに既読付かなかったから」
「えっ、すみません」
茂夫が慌てて自分のスマートフォンを確認しようとすると、霊幻はそれを止めた。
「まぁ気にすんなよ、大した用じゃなかったし」
そう言って、床に置いていた紙袋に片手を入れる。取り出されたものを見て、茂夫は思わず、あっ、と声をあげた。
「…………桜だ」
温もりのあるアンバーのラッピングペーパーに包まれた、桜の枝でできた花束。
枝にはたっぷりと桜の花が咲いていて、その柔らかい薄紅色は、シンプルな色合いの家具で揃えられた部屋の中で、一際華やかに見えた。
「明日雨だし、多分それでだいぶ散るだろうから」
通勤中にも目にはしていたはずなのに、桜の季節であることをすっかり忘れていた気がする。
淡い春色の花はこうやってずっと、懸命に、伸びやかに、咲き誇っていたのに。
「綺麗だなあ」
鮮やかな青空の下で見る桜も綺麗だけれど、この狭いワンルームで見る桜は、こっそりと美しいものを二人占めしているような、幼い高揚感を抱かせた。
それは霊幻も同じだったようで、内緒話をして笑い合う子供みたいな笑顔を、茂夫に向けてくる。
「な!こういう花見も悪く無いよな」
こんな無邪気な表情を見せるのは珍しくて、思わず目を奪われてしまう。
けれど、その顔はすぐに大人のそれに戻って、代わりに彼は、目を細めて静かな笑みを浮かべた。
「少し、元気出たか?」
心臓が、大きく波打つ。
予感はしていた。
だから、この胸に広がる温もりは、一束の桜を見たからというだけでは無いのだと、分かっている。
「すごく元気出ました。僕、また頑張れそうです」
「頑張り過ぎなくてもいいんだからな」
「はい…………でも、出来るところまで、頑張ります。だから」
目をしっかりと合わせれば、少しだけたじろがれてしまう。けれど、今はそれでも良かった。
「挫けそうになったらまた、一緒にお花見してください」
そう伝えれば霊幻は、なんだそれ、と眉を下げて笑った。
「お前それ、桜の季節過ぎたらどうすんだよ」
「花は無くてもいいです」
「それ花見じゃねえじゃん」
「じゃあ、また僕と会ってください」
霊幻は堪え切れないというように噴き出すと、茂夫の頬に指先で触れた。
「桜とお揃いになってるぞ」
「な……………」
「さて、昼に抜けてきただけだから、俺は相談所戻るよ」
「あ、はい、色々とありがとうございました」
「おう。とりあえず、今日はもう寝なさい。まあ…………また、会いに来てやるから」
外の匂いのするコートを羽織りながら言う彼の耳は、少しだけ、春みたいな色に染まっていた。
*******
茂夫はしばらくの間、ベッドに横たわったまま、放心したように桜を眺めていた。そしてふと、まだ見ていなかった霊幻からのメッセージを確認するために、スマートフォンを手に取る。前日のやり取りで、新生活への弱音や、体調が悪いことなどをつい漏らしてしまったことは覚えていた。
未読のメッセージは三件あった。
『社会人になりたてなんだから、不安になったり弱気になるのは、別に変なことでも情けないことでもないからな』
『俺は、お前が真面目で誠実なのも、努力して物事に取り組めることも知ってる。お前はお前のまま、やれることを一つずつやっていけば大丈夫だ』
『なあ、気分転換に桜でも見に行くか?今ちょうど満開だし。あ、でもまだ体調悪いなら無理するなよ。そういや家に食い物とかあんの?』
茂夫は、何度も繰り返しそのメッセージを読むと、小さく声を漏らして、スマートフォンを額に当てた。
(大事にされてるんだな、僕)
桜色に染まっていた霊幻の耳を思い出しながら、送られてきたメッセージたちを噛み締める。
「ああもう……………かわいい人だな」
本調子ではない所為か、抑え切れなかった気持ちに呼応するように、超能力が僅かに漏れ出す。それは、さっと部屋の中を駆け巡っていき、一陣の風を巻き起こした。揺れた桜の花から、花びらが何枚か舞い上がって、スマートフォンの画面にひらりと落ちる。
茂夫は大切にそれを摘み上げると、そのしっとりとした柔らかな花びらを愛おしみながら、メッセージ画面に文字を入力していった。
『来年も、二人でお花見しましょうね』
END.