恋愛ゲーム1「お付き合いしてください」
いつもは落ち着いている声が、裏返った。
ぎゅっと手を白くなるまで握りしめて、耳を赤くしているその人は眉を寄せていた。
なぜ、男子トイレの中で告白をしてくるんだこの人は……。
がたりと音がしたから、
そちらを見れば緑が深くて黒にも見えるスーツを着ている大先輩と発色で淡い黄色にも見える白いスーツを着た同期がいる。
目が合ったと思うと、慌てて同期が大先輩を引っ張って物陰に隠れてしまった。
最近、この会社では悪質ないたずらが流行っていると聞く。
何らかの遊戯の罰ゲームというやつで、冴えないやつか己のように苛烈で人を寄せ付けないようなやつを捕まえてする事らしい。
まさか、こいつらもそんな悪趣味なことをするなんて思いもしなかった。
告白をしてきた人は、藍曦臣という。この会社の出世頭で、法務部の室長を務めている。
あの隠れた二人は、聶明玦と金光瑶。聶明玦は、技術部の課長。金光瑶は、総務部の係長。
この三人は、仲が良くて会社では三尊と呼ばれていた。
聶明玦は、課長になったばかりだ。出世頭筆頭と言ってもいい。藍曦臣と金光瑶は、そのあとに続く人材と言える。
しかも、男女問わずモテるのだ。
男にすらかわいいと思わせる風貌で、温厚で人当たりのいい金光瑶。
父親で上司でもある金光善の下で、せわしなく働いている。
そんな姿が、けなげだという者もいた。まぁ、親の七光りやコネで就職したとか言われており、彼の実力を見ようとしないバカは多い。
正直、彼が居なければ総務は回ってない。
聶明玦は、技術部の兄貴分のような人だ。
一見パワハラだととらえられない言動もするが、それは上に立つ者として様々な危険や安全を考慮しての発言が多い。
また部長自ら工場などに出向き、本部にいない事が多い。
無理な仕事を取ってくる営業と掛け合ったり、ミスをした部下に対して叱咤激励をしつつ指導を行う。
無茶な納期と品数の時には、率先して現場に降りて作業をする。その姿に憧れない部下はいない。
そして、告白してきた藍曦臣。
芸能人と言っても過言ではない、法務部の王子様。貴公子だったか?
温厚な性格をしていて、誰にでも平等で優しい人当たりの良い人物。
しっかりしているようで、どこか浮世離れというか世間知らずな所があって抜けた発言をするが、
仕事は完璧すぎるほどに完璧なのでそのギャップがいいという者が多い。
おまけに実家は、あの姑蘇に構える藍グループ。学問に関する事業を運営しており、雲深不知処と呼ばれる学園は有名である。
ちなみに、告白をされている俺も雲深不知処の出身だ。つまりは、彼と俺は先輩後輩にあたる。
子供の頃から、親の付き合いで顔を合わせる事もしばしあった。
けれど、三つあいた四つ違いの先輩とは、実の所大学以外では同じ学部に所属したことがない。
また十三年もこの会社に努めてはいるのだが、部署が違うために接点なんてあってないようなもの。
子供の頃からの顔見知りというだけで、見かけたら挨拶をする程度だ。
今は、違う。俺の義兄である魏無羨と彼の弟である藍忘機がこの度同性婚を果たす事となり、婚族となる。
しかし、彼が俺に告白してくるような接点はありはしないのだ。
婚族であるなら、どちらかと言えば同期の金光瑶のが接点がある。
二人して、姉と兄の子を溺愛してる叔父バカと言ってもいいだろう。
「あ、あの?」
いつまでも返事をしない俺にしびれを切らしたのか、不安げに見つめてくる。
「ダメ、ですよね。男からの告白なんて……」
「いいぞ」
「へ?」
ふっと口元を上げて、笑って見せる。のっかってやろうじゃないか、その悪ふざけに。
「え?え、えっとですね?江晩吟。付き合ってと言ったのは、
ど、どこかに一緒に出掛けてくれとかそういうのではないのですよ?」
「ああ」
藍曦臣は、困惑したように両手を上下に揺らしている。長い指が、わなわなとうごめいていた。
意味を理解していると頷くと、泣きそうな顔になる。
「わ、私は、男ですよ?男からの告白なんて、貴方は気持ち悪いとか嫌悪とか……」
告白してきたのは、そちらなのに断ってほしいのか?というような言い訳を並べてくる。
まぁ、罰ゲームなのだから当たり前か。
「別に?そりゃ、あの恥知らず共のように四六時中べたべたして、場をわきまえずにイチャコラされるのは腹が立つ。
だが、男同士で婚姻した阿呆どもの家族の俺が、同性愛に対していつまでも嫌悪できると思うか?」
正直、最初は理解できなくて嫌悪もした。
あのバカは、大学を卒業と同時に家出同然に江家を出て行った。
元々義兄と言っても、内縁というようなものだった。それゆえに、戸籍上では赤の他人。
父の親友であり元秘書だった人の忘れ形見を、家に連れてきて兄弟のように育てたというだけだ。
最近になって、紹介したい人がいると連れてきたのがこの人の弟だった。
ちょっと待て、お前。そいつは、学生時代にお前がちょっかいかけまくって毛嫌いされてたやつだろう。
どうしてそうなった?というか、結婚てどういうことだ?お前、家の事はどうするんだ?
反対したのは、俺と母だけで父も姉も喜んでいた。
今では、バカップルというほどにどこでも一緒に行動している。
お前ら、仕事はどうした仕事は…と頭を抱えるが、義兄はフリーランスで藍忘機は実家の稼業を継いでいる。
互いに自由が利く職業というわけだ。
いや、話を戻そう。俺も、少しは混乱もしているのだ。
「藍曦臣、あんたは俺と恋人になりたいってことだろう?」
「は、はい」
ふん、心なしか青ざめているようにも見える。しかし、それが滑稽で仕方ない。
「今日から、俺とあんたは恋人だ」
「あ、ありがとうございます」
脱力したように、手がぶらん…と下がった。はん、残念だったな。
いたずらでこんな悪趣味な事をしようというのが、いけないんだ。
せいぜい、俺を恋人扱いして自分がした所業を後悔しろ。
******
藍曦臣と恋人同士になって、一か月が経とうとしていた。
最初の一週間は、新人研修のために俺は会社を空けていた。さらに二週間ほど、藍曦臣が出張で会社を留守にした。
三週間ほどは、恋人となっても時間も合わなかった。元々は接点がほとんどなかったのだ、仕方ない。
告白だけで、賭けは終了だったのかもしれないな。と思いながら仕事をしていたら四週間が経とうとしていた。
大きなスーツケースをもって、息を切らして守衛室に駆け込んできた法務部の貴公子に誰もが何かあったのかとざわめいた。
「江、江晩吟……江室長はいますか?」
「どうかしたのか?痴漢か?ストーカーか?」
藍曦臣に、そういったコアな取り巻きがいるというのは聞いていた。
しかし本人が気づいていないだけなのか、三尊が解決していたからなのか守衛室にはなんの依頼も来なかった。
青ざめている為に、すぐに個室に連れて行った。防音もされている為、外には内部の声が聞こえない小さな相談室。
会社での人間関係のトラブルや護衛が必要な場合、会議をするための部屋だ。
だが、いつの間にかお悩み相談室と化していた。人事に相談しろ、阿呆と言いたかったがそうもいかない。
その人事が、守衛室に回してくるから相談したい社員たちは直接こちらに来る。
そんなこんなで、心配はしたのだ。三尊は本当にモテるから、いろいろと不穏な噂が絶えない。
「わ、私、貴方の連絡先を知らない事に気づいたんです」
スマホを握りしめながら、藍曦臣はそういった。
そんな事で、出張先から直接こっちに来たのかこいつ。
恋人になって四週間、ようやく俺たちは連絡先を交換する事になった。
それから、藍曦臣からの連絡はよく来るようになった。筆まめというのか、一緒に帰ろうとか食事をしようとか……。
見回りついでに法務部に行けば、部下にてきぱきと適切な指示を出している姿をよく見た。
仕事をしている彼は、恋人だからとかそういうのひいき目もなく格好いいと思う。
人に囲まれている藍曦臣は、目ざとく見回りをしている俺を見つけては微笑みかけてきて、余裕があれば手を振ってくる。
それに返事をしてやれないが、気にした様子がない。賭け事の仮初の恋人だものな。
******
「最近、曦臣兄さんと何か進展ありました?」
休日、甥である金凌を構いに姉夫婦の家に行くと、金光瑶がいた。離婚してから姉夫婦の所に居候している。
あいにくと金凌は、学校の友人たちと遊びに行っていなかった。
目的の人物がいないとなれば、暇だった。しかし、姉の言葉に甘えてリビングで我が家のようにくつろぐ。
金光瑶は、俺の分のコーヒーを淹れて向かいのソファーに座る。
「貴方には関係ないだろう」
「ありますよ。友人の恋バナって、結構好きなんです」
「悪趣味だな」
「面白いですよ?補導員に恋しちゃった不良の悩み聞いたりするの」
本当に、悪趣味だ。と思いながら、淹れてくれたコーヒーを口に含んだ。
口に広がる香ばしさと酸味が、ミルクでまろやかになっている。程よい砂糖の甘味は、俺の好みだ。
こいつのコーヒーは、美味いのだ。
「……美味いな」
「ありがとうございます、明玦兄さまや懐桑にも褒めてもらえるんです」
素直に褒めたら、珍しく素直に喜んだ。
この男は、笑顔で全てを隠す癖がある。感情的になるのが嫌なのか、考えている事を見透かされるのが嫌なのか。
「ふむ……なら、懐桑に自慢してやろう」
「なんですか、それ」
「懐桑は、よくお前の自慢をしてくるからな」
ぽちぽちとスマホをタップして、からかうような文面を送り付けてやる。
すぐに『ずっるい!!私も瑶兄のコーヒー飲みたい!!!』と返事が来た。
それを見せてやると、瞬きを何度か繰り返してから本当に嬉しそうな笑みをこぼした。
聶懐桑というのは、高校時代からの友人だ。あいつは、俺よりも先に雲深不知処の中等部から入学していた。
芸事には秀でているくせにどうにも学問がダメで、藍曦臣が聶明玦の友人という理由で面倒を見ていた。
そして嘗てこの金光瑶が、下宿していた先の坊ちゃんだ。
金光瑶は、当時の癖から聶懐桑の世話をしている。
「俺の恋バナより、お前はどうなんだよ。離婚してから、浮いた話がないだろ。
何かと三人でつるんでるし、曦臣と恋人なんじゃないかって言われてるじゃないか」
何も考える事なく言った言葉を聞いた瞬間に、金光瑶は飲んでいたコーヒーを吹き出した。
げっほごっほとコーヒーで溺れかけている金光瑶に「大丈夫か?」と声をかける。
むせた声が聞こえたのか、金子軒が心配そうに顔を出す。
「どうした、阿瑶」
「だ、大丈夫です、むせただけですから」
「そうか」
手で異母兄を制してから、近くに置いてあったティッシュで汚れた口元とテーブルを拭いた。
金光瑶は、何度か深呼吸をしてから呼吸を整える。
それから、三十路半ばになっても可愛らしいと評判の顔をこちらに向けた。
「曦臣兄さんの恋人は、貴方でしょう」
「え?」
藍曦臣の恋人が俺と言われて、最初は何を言っているのか理解ができなかった。
それから、自分の状況を思い出す。
「あ!うん!そうだったな???」
「……」
訝しげに見つめてくる金光瑶に対して、俺は視線を外した。
だって、あれはお前たちの罰ゲームだろう。それを俺は、便乗しただけだ。
それに、いまだに手をつないだ事すらないのだ。自覚なんてあるはずもないだろう。
その後は、遊びから帰ってきた金凌の乱入で恋バナは流れて行った。
休日が終わった月曜日に、藍曦臣が挙動不審となって首をかしげる事など露とも思わなかった。
******
「江晩吟、晩吟」
「何だよ」
恋人になって二か月目、藍曦臣は暇さえあれば守衛室に来ていた。
法務部が暇なのか?って思うくらいには来ていた。
最近では、三尊がそろっている姿は見る事はないし、なんで俺に構うんだこの人としか思わない。
「次の土曜日に、デートしませんか」
「予定が入っている。別の男とデートだ」
「ひどい」
ひどい?罰ゲームで告白してきた男よりましだろう。
守衛室の受付前のカウンターでうなだれる男を、鼻で笑ってやる。
「ふん、あんたよりも小さくて可愛いから仕方ないだろう」
「そういえば、明玦兄さんもそう言って振られてましたね。もしかして、阿瑶とデートなんですか?!」
「なんでそうなるんだよ!」
がばっと顔を上げて不安げに見つめてくる藍曦臣に、窓越しにデコピンをお見舞いしてやる。
そりゃ確かに、金光瑶は藍曦臣よりも随分と小さい。そして、俺は聶明玦よりも小さいが五センチほどだ。
到底かわいいと言えるような性格でも容姿でもない。
「甥が、友達と遠出したいんだと。あちらさんも、親御連れならいいと言ったらしいんだ」
ただ、あいにくと姉も義兄もその日は都合が悪い。
しかしどうしても遊びたい甥が駄々をこねるので、運転手兼保護者として同行をする事になったのだ。
最初は金光瑶だけが同行するはずだったのだが、車の運転免許がない為にお鉢が回ってきた。
……バイクの免許はあるくせに、車の免許を取らないんだもんな。
「かわいい甥の為だ、我慢してくれ」
「わかりました」
しょんぼりと頷いた藍曦臣の頭に、犬の垂れ下がった耳が見えた。
しかしすぐに笑顔になって、今夜食事しましょうと誘ってくる。
どうして、俺と一緒に居たいんだ?と、問いかけた事があった。
『恋人だからですよ』とさらっと言ってのけた男に、本当に俺が好きなのでは?と錯覚しそうになる。
藍曦臣の電話が鳴った。電話の相手を見た時、少し困ったような嬉しそうな顔をする。
手を振れば、頷いてその場を離れてしまう。そんな彼を見送りながら、俺は小さくため息をついた。
やべぇ……いつまで、この関係が続くんだ?
すぐに終わるだろうと思ったのに、もう二か月。いや、最初の三週間を入れなければ一か月と少しか。
俺は甥を優先するし、藍曦臣はたまにああいう顔をして俺から離れていく。
それに、金光瑶と一緒にいる時の彼はこの人にぞっこんですと言わんばかりに甘ったるい。
俺たちが、甥に対して行うような子ども扱いをしていると言ってもいい。哀れなり、金光瑶。
まぁ、金光瑶も金光瑶で、藍曦臣に対して憧れも敬愛も隠さない。崇拝みたいな感じか?
聶明玦との態度に、差があるのだ。どちらかと言えば、聶明玦と一緒にいる彼の方が弟という感じに見えた。
とにかく、藍曦臣は俺と金光瑶との間に態度の差があるのだ。
距離を感じるというか、金光瑶にしか見せない一面を持っているというか。
人には多面性があるのは知っているけれど、きっと俺よりあいつの方が彼の中では優先順位が上なのだ。
それなのに、俺ときたら……。
藍曦臣と付き合うまでは、ずっと安物のスーツ。三着くらいの着回しだった。
社長をはじめとした重役のボディーガードや運転手も俺たちの仕事で、そういった仕事の時はブランド品のスーツを着ていたくらい。
普段は、警備員の制服でいいじゃないかとすら思っていた。
無造作に整えていた髪を丁寧に手入れをしたり、スーツもいつもより少し高めのを新調した。
仕事終わりでも安全靴だったけれど、磨かれた革靴にしたりした。
彼の隣に並んでも、彼が恥ずかしくないようにしている自分がいる。
ああ、そうだよ。浮かれているよ。
なんせ、あの藍曦臣だ。子供の頃から、憧れていた人。追いかけて入社したと言ってもいい。
そんな人と、罰ゲームであっても恋人になってしまった事に、俺は浮かれているのだ。
だから―――…一線引かなきゃいけない。これはただの思い出作りで、未来なんてありはしない。