不意打ち時々、気まぐれのち、本命。 優しい音色を刻む目覚まし時計を止め、眩しい朝日から逃れるように布団を引き上げる。ふかふかのベッドはキングサイズで、首が痛くならない枕は特注品だったか。滑らかなシーツは肌触りが良く、起きるのが億劫になってしまう。あと少しだけ――そう言い聞かせて寝入ろうとすれば、おもむろに扉が開いた。
ペタペタと足音を鳴らしながら、近付いて来る人の気配。誰か、なんて確認するまでもない。ぎしりとマットレスが沈み、「憂太」と呼ぶ声は低く穏やかだ。僅かな呪力の変化に気付いて、起こしに来たのだろう。そうとなれば寝た振りが通用するわけもなく、横になったまま渋々顔を出す。
アイマスクやサングラスで隠れていない瞳は、いつも通り澄んだ青空のように綺麗だ。そんな呪術師たちが忌み嫌う六眼を、恐れることなく直視してムッと尖らせた唇。「まだ寝れました」と駄々を捏ねれば、「朝ご飯が食べられなくなるでしょ」と正論を突き付けられて口を噤む。年上で一枚も二枚も上手な五条を、言い包めるなど至難の業か。
食事と睡眠を天秤にかけたら、余程のことがない限り後者を取るだろう。学業と任務の両立には、かなりの体力を有するのだ。転入した当初よりも成長したとは言え、五条のように器用なわけでもなければ、屈強な肉体を持っているわけでもない。非力なのは変わらず、友人たちからも心配されるくらいである。
恨めしそうに見つめたところで頭を撫でられ、「ほら、おはよう」と鼻先に子供の遊びみたいな口付けが一つ。擽ったさと羞恥心に、もぞもぞと足を動かす。消え入りそうな声量で挨拶を返せば満足そうに微笑まれ、上手く宥め込まれたことに不満を露わにした。
「先生はズルいです」
「大人だからね。着替えて、顔洗っておいで。憂太はただでさえ細いんだから、食事抜きなんて許さないよ」
ひらひらと手を振りながら、脅し文句を置き土産に五条が部屋を出て行く。今さら緊張感を抱くことはないが、形容しがたい感情には溜め息が漏れる。乙骨が逆らえないと知りながらの、有無を言わせないやり方は我が道を行くあの人らしい。けれどこうして五条の掌で踊らされるのには慣れたものか。
高身長でスタイルは抜群。目隠しがなければ色素の薄い髪と相まって、美形の部類に入る。おまけにこの界隈においては、現代最強の呪術師だ。唯一の難点があるとすれば、捻くれた性格くらいだろう。挑発はお手の物、相手が誰であろうと容赦なく、振り回される毎日。それを仕方ないと割り切れてしまうのは、乙骨が五条に惚れ込んでいるからかもしれない。
始まりは突然だった。「僕と付き合ってよ」なんて五条から、教師であることを忘れてしまいそうなほど、あっさりと告げられた愛の一歩手前。悩むまでもなく「いいですよ」と、快諾した自分もなかなか普通ではないのか。呆然とされながらも、「意味、わかってる?」と尋ねられたのには納得がいく。それは二度目の白い制服に袖を通して、一ヶ月が経とうとしていた時だ。あれから一年、月日が流れるのは早いものである。
鈍いと思われがちだが、一度は愛した人がいるからこそ、恋愛感情には敏感だったのかもしれない。自分の気持ちに、嘘が吐けるようなタイプでもなかった。「両想いですね」と伝えれば赤面され、「男前過ぎるでしょ」なんて褒め言葉。もっともすぐに主導権は、五条に奪われてしまったが。
二度寝を諦めて準備を済ませ、美味しそうな匂いに釣られてリビングへと向かう。こっそりと中を覗けば、五条が手際よく朝食を作っていた。世話好きと言うよりも、甘やかされているのか。泊まりに来た時はいつも、至れり尽くせりだ。
「相変わらず凝ってますね」
「そりゃあ、育ち盛りの子がいるからね。僕のところにいる時は、ちゃんと食べてもらわないと」
真っ白なプレートの上には、きつね色に焼き上がったフレンチトーストと果物が添えられている。二つの小鉢にはサラダとヨーグルトが入っていて、仕上げとばかりに出来立てのスープが運ばれてきた。飲み物のオレンジジュースは、搾りたてなのだろう。ホテルのモーニング並の豪華さには、初めてではなくとも慣れるものではない。
先に座って待つのはありふれた光景、五条が席に着けば二人で手を合わせる。ナイフで小さく切りながら一口、程よい甘さとふわふわのトーストに舌鼓を打つ。
「今日もここにおいで」
「そのつもりでした」
「いい子」
棘は長期出張で不在。真希とパンダは京都に遠征中で、寮に帰っても一人だ。寂しく過ごすくらいならば、五条と一緒にいる方がいい。付き合っているのだから、これくらいの我儘は許されるだろう。もっともそんな願いを、伝えるまでもなかったが。
出された料理をすべて平らげ、ゆっくりしている暇もなく出発の時間。刀袋を背負い振り返れば、「いってらっしゃい」と額に優しいキスが落とされた。ぽうと熱くなる頬に、はわわとしながら唇を結ぶ。不意打ちなんて卑怯だろう。高鳴る鼓動を落ち着かせ、「いってきます」と返した声は震えていたかもしれない。
半ば飛び出すように家を出たわけだが、少し歩けば平常心に戻っていた。これから行く場所がどんなところであろうと、暖かな陽気に気分は晴れ晴れとしている。あれがおまじないだったら、効果は抜群か。任務へと赴くには勿体なくなるような青空に、ほんのりと冷たい風が乙骨の黒髪を撫でていく。どこからともなく舞ってきたのは桜の花びらで、自然と笑みが零れた。
呪術高専に迎えられた季節。友達が出来た季節。そして五条に、初めて会った季節。転機とも言える春は、乙骨にとって特別なのである。今日も頑張るぞ、と自分を奮い立たせ、足取り軽く待ち合わせの場所へと歩みを進めていく。
「本日の任務ですが、些か厄介な呪いとなっております」
「厄介、ですか?」
「ええ。五条さんが言うには、乙骨特級呪術師の訓練にはぴったりだと」
今日の担当でもある補助監督は、気の知れた伊地知だ。他人行儀なところはあるが、役割に線引きをしているのだろう。名前の後に等級を付けて呼ぶのも、彼なりに敬意を表しているからだと聞いた。そんな伊地知から告げられた内容には眉根を寄せ、意味がわからず首を傾げる。おまけに五条が絡んでいるのだとしたら、不吉な予感しかしない。嫌々ながらも顔には出さず、話に耳を傾けることにした。
ターゲットは至って普通の呪いだが、特殊な体質をしているのだと言う。調査ですらも全貌が掴めず、危険ではないにしても乙骨にお鉢が回って来たのか。形と呪力の質を変化させられるなど、一風変わった呪霊である。強さも術式も不明のまま、苦労しそうだと肩を落とす。
すでに帰りたい、と思ったのは秘密。呆けていたのが悪かったのか、伊地知には「乙骨君?」と心配そうに尋ねられ、「続けてください」と冷静さを繕った。聞けば聞くほど、疑問と確信を抱く。
「カメレオン……」
「みたいな呪い、です。姿や形を変えるだけではなく、呪力の質まで変わるのでそう呼んでいます」
「それって本当に準一級ですか?」
「術式か体質かはっきりしないので何とも言えませんが、攻撃性には欠けるようです」
「これ、先生が仕組みましたね? 伊地知さん、責めませんので教えてください」
「……はい。五条さんが視察し、乙骨君に任せるようにとのことでした」
小さく悲鳴が上がったのは、感情を抑えられず呪力が溢れたせいか。伊地知には悪いことをしたと思いながらも、五条に対して微かな憤りを覚えていた。
「……あの人、本当意地が悪い」
「それでは帳を下ろします。ご武運を」
ふと漏らした不満には、伊地知も同じことを思ったのだろう。肯定も否定もされずに印を結ばれ、早急に帳が下ろされる。心の準備なんてものはなく、広がる夜にざわめく大地。この件について問いただすのは帰ってから、まずは呪いを対処するのが先決だと刀を抜く。
有象無象と湧き上がる低級の呪霊は呪力で弾き飛ばし、本命を探すも見つけられない。コロコロと力が変化するせいで、捕らえたと思った瞬間には逃げられる始末だ。等級としては二級くらいなのだろうが、取り込んだ呪霊の性質を利用しているのか。本当にカメレオンのように擬態が上手く、己の呪力感知の雑さが露呈されている。
「すばしっこいなぁ……この一帯吹き飛ばしたら怒られる、よね?」
まるでいたちごっこを繰り返しているようだ。繊細さがないわけではないが、相手に合わせるなど面倒極まりない。いつまでも終わりの見えないやり取りに嫌気が差し、大胆な発想が浮かぶも断念。伊地知の青褪めた顔が頭を過った。
強大な呪いが傍にいたからこそ、呪力感知は苦手だ。殺気や敵意と言った空気には敏感だが、今回の呪霊には向いていないのだろう。突破口が見つけられず、無駄な時間だけが流れていく。被害は最小限に、悩み抜いた結論はただ一つ。
「ちょっとだけ、本気出しちゃおうか」
こまごまとした呪いは粗方片付いている為、残すは本命だけとなった。追って躱されるのならば、退路を塞いでしまえばいいのだ。爪先を軽く地面へと打ち付け、帳全体に薄い呪力の膜を敷く。作り上げるのは、升目が描かれたフィールド。想像通りの俯瞰した光景が頭の中へと広がり、口元を緩めながら目を細める。呪霊の位置は座標で把握するだけ、形を変えようが、隠れようが、この場にいる限り乙骨からは逃げられない。
思い付きにしては上出来だと思う。集中力と神経を要するのは難点か。反応を示したのはすぐのこと、鬼ごっこは終わりだと予備動作なく詰め寄った。再び姿を眩ます猶予は与えない。呪力を込めた刀で一閃。呆気なく呪霊は雲散していく。手応えの無さには拍子抜けだが、そんな相手に梃子摺った自分の力不足を痛感。どっと疲れが押し寄せてきたのは、相性が悪かったせいか。
帰りの車ではいつの間にか微睡んでいたらしく、眉を下げた伊地知に起こされた。マンションの前まで送ってくれたのは、五条との関係を知る彼の優しさだろう。お礼を告げてエントランスへと入り、長いようで短いエレベーターに乗り込む。
目的の階を告げる軽快な音。一部屋しかない最上階のフロアの静かな廊下を歩き、玄関先で足を止める。扉を開ければ待っていてくれるのだろう。戻って来たことなんて、五条には筒抜けのはずだ。朝の清々しさはどこへやら、重い気持ちのままドアノブを捻る。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「時間掛かったみたいだね」
「先生のせいです。最悪でした」
「いい鍛錬になったでしょ? 呪力のコントロールは上手いのに、憂太は面白いなぁ」
どこが、と言い返さなかっただけ大人か。壁に寄り掛かっていた五条が身を起こし、真っ直ぐと伸びて来た手。耳朶をなぞるように指を滑らされたかと思えば、近付いてきた唇が頬に触れた。一瞬でもキスをされるかもしれない、と期待した自分が恥ずかしい。
ふっと顔を綻ばせながら、「手を洗っておいで」と一言。何事もなかったかのように、五条は踵を返していく。その背中を眺めながらズルズルと座り込み、高鳴る鼓動に胸元の服を握る。
「もう……何がしたいんだろ」
立ち上がれず蹲っていれば、名前を呼ばれ肩が跳ねた。己の行動などお見通しと言うわけか。翻弄されるのは日常茶飯事のはずなのに、今日はやけに調子が狂う。そんなこともあってぼんやりとしながら刀袋を部屋に置き、手を洗って向かったリビング。家庭的な匂いにようやく、意識がはっきりとしてきた。
朝食の豪勢さもさることながら、夕食も負けずこだわられている。肉じゃがとサバの味噌煮は、スーパーの総菜ではないだろう。ほうれん草の胡麻和えに、みそ汁まで用意しているくらいだ。五条とて任務や仕事があったはずでは、と思いながらも彼のハイスペックさを実感する。
「ささ、どーぞ」
「先生って、魔法使いですか?」
「いいえ。普通の最強ですけど? え、どうしてそうなったの?」
「だって忙しいはずなのに、朝も夜も手作りなんて……」
「これは僕がやりたくてやってんの。憂太が大好きだから、美味しい物をいっぱい食べて欲しいんだよ」
「胃袋まで先生の虜ですね」
「それはそれは、嬉しい限りで。冷めない内に、食べようか」
ほんのりと甘い味噌の味付けにご飯が進む。煮崩れを起こしていないじゃがいもやにんじんは、食べ応えがある。野菜は好きだがキャベツに偏るからこそ、こんな風に出されるのはありがたい。みそ汁は身に染みるようで、具材が少なめなのはおかずが多いからか。デザートと言って出されたのは、高級そうなお菓子屋のプリンだった。
すっかりお腹は膨れ、眠気が襲ってくるもやることがある。洗い物を二人で済ませ、溜まっていた報告書を纏めていく。適当でいいんだよ、なんて五条は言うが、乙骨の性格ではそうもいかない。正直に綴ることも出来ず悩みながら、やっとのことで書き終えた紙の束を揃えて息を吐く。
四肢をだらりとさせながら、ソファーの背凭れに全身を預けて見上げた天井。そっと瞼を閉じようとすれば、視界いっぱいに蒼穹が広がった。
「さて問題です。今日は何の日でしょう」
「これと言って思い付かないんですが」
「憂太はもっと世の中に目を向けなきゃダメだよ」
そう言って上から、降り注ぐようなキスが落ちてくる。舌を捻じ込まれ、咥内を弄られること数秒。ちゅぱとリップ音を立てて唇が離れ、五条との間に透明な糸が引いた。急な出来事には唖然。にんまりとした笑みに、荒い呼吸を繰り返す。
お風呂行ってくるね、と軽く告げられ、目元を覆うように乗せた腕。ああ――本当に性質が悪い。傍に置いていたスマホで調べ、理由を知ってさらに赤面する。
「そう言うことか……」
それならば乙骨も黙ってはいられない。烏の行水の如く、五条は十分程度で戻って来た。隣に座って水を呷り、端末を確認し終えたところを狙って服を引っ張る。驚きに瞠られた目、両手を頬に添えながら唇を奪う。掠める程度のキスは初心すぎたか。
「今日が何の日かわかった?」
「キスの日、ですよね?」
「じゃあ今のは、わかった上での憂太からの仕返しか」
「やられっぱなしではいられませんから」
「可愛くて可愛くない! 僕に食べられたいの?」
獲物を捕らえたような目をする五条には、間髪置かずノーを突きつけてやる。キスはいいけど、それ以上は駄目。明日は学校で、久しぶりに友人たちとも会えるのだ。楽しみにしているのだから、不調を抱えて登校したくはない。そう伝えれば残念そうな表情をしながらも、「また今度ね」と言って何回目かもわからない口付けを交わした。